癒しの光と蘇る記憶
門番エルダの試練、世界の嘆きの化身である魔獣に対し、リコは戦うのではなく、その悲しみを受け入れ、癒す歌を歌う。彼女の慈愛に満ちた歌声は、魔獣を鎮め、ついに巫女としての力を完全に覚醒させる。世界樹に触れた彼女の脳裏に、失われた全ての記憶が奔流のように蘇り始める。自分が誰で、なぜここにいるのか、その全ての答えが今、明らかに。
「嘆きの森」の中心。枯れ果てた世界樹の根元で、絶望的な対峙が続いていた。世界の苦しみをその身に宿した、巨大な瘴気の化身「キマイラ」。その前に、ただ一人立つ、小さな少女リコ。アレンも、門番の老婆エルダも、息を殺して、その光景を見守ることしかできなかった。
キマイラが、再び、咆哮を上げた。それは、ただの威嚇ではない。魂を直接凍てつかせるような、深い、深い悲しみの叫びだった。瘴気が渦巻き、周囲の枯れ木が、さらに黒く変色していく。
しかし、リコは、怯まなかった。彼女は、その絶望の叫びから、目を逸らさなかった。彼女は、歌い続けていた。
それは、戦うための歌ではない。打ち負かすための歌でもない。
ただ、寄り添い、受け入れるための、優しい子守唄。
『大丈夫だよ』
『もう、苦しまなくていいんだよ』
『あなたの痛みは、私が受け止めるから』
言葉にならない想いを、旋律に乗せて、彼女は紡ぎ続ける。それは、巫女としての技術ではない。彼女の魂そのものが奏でる、癒しの歌だった。
キマイラの動きが、止まった。その濁った瞳は、目の前で歌う少女の姿を、ただ、じっと見つめている。その瞳の奥に、ほんのわずか、戸惑いと、そして、救いを求めるような色が、浮かんだように見えた。
「無駄だ、巫女よ」
エルダが、厳しい声で言った。「そやつは、もはや憎しみの塊。癒しなど、届きはしない。お前さんの力で、その存在を、消滅させるのだ!」
エルダの言う通り、巫女の力には、「浄化」という、対象を光の粒子に変えて消し去る、強力な側面もある。それが、この試練における、最も簡単で、確実な「正解」なのかもしれない。
だが、リコは、首を横に振った。
「…違う」
彼女は、歌いながら、静かに、しかし、はっきりと答えた。
「この子は、苦しんでいるだけ。悲しんでいるだけ。誰かに、その痛みを知ってほしくて、ただ、叫んでいるだけ。だから、私が、聞いてあげなくちゃ」
彼女は、一歩、また一歩と、恐れることなく、キマイラへと近づいていく。
キマイラは、後ずさった。その巨体に、怯えの色が浮かんでいる。近づくな、と威嚇するように、再び咆哮を上げる。しかし、その声は、先ほどよりも、どこか弱々しく聞こえた。
リコの歌声は、少しずつ、その力を増していく。彼女の身体から、柔らかな、温かい緑色の光が溢れ出し、死んだ森を、優しく照らし始めた。
その光は、キマイラの身体を構成する、どす黒い瘴気に、ゆっくりと、しかし、確実に、染み込んでいく。
それは、光と闇の戦いではなかった。
それは、一つの魂が、傷ついた、もう一つの魂を、ただ、抱きしめようとする、慈愛の行為だった。
「…馬鹿な…。嘆きの化身が、怯えている…?」
エルダが、信じられないものを見る目で、呟いた。彼女が生きてきた、永い時の中で、一度も見たことのない光景だった。
ついに、リコは、キマイラの、巨大な前足のすぐそばまで、たどり着いた。
彼女は、歌うのをやめると、その小さな両手を、そっと、瘴気でできた、黒い獣の足に、触れさせた。
普通なら、触れただけで、その身も魂も、瘴気に蝕まれてしまうだろう。
しかし、リコの身体から溢れる光は、瘴気の侵食を、完全に防いでいた。
そして、リコは、語りかけた。
「…もう、いいんだよ。もう、独りで、泣かなくていいんだよ」
その言葉が、引き金になった。
キマイラの、濁った瞳から、ぽろり、と、黒い涙の雫が、こぼれ落ちた。
それは、堰を切ったように、次から次へと、溢れ出してくる。
巨大な魔獣は、まるで子供のように、声を殺して、ただ、静かに、泣いていた。
リコは、その涙を、優しく、手で拭ってやる。
すると、奇跡が起きた。
キマイラの身体を構成していた、どす黒い瘴気が、涙と共に、その身体から、離れていく。そして、瘴気が消えた部分から、純粋な、光の粒子が、現れ始めたのだ。
嘆きの化身は、本来、世界樹が生み出した、森を守るための、聖なる精霊獣だった。それが、永い年月をかけて、世界中の負の感情を吸い込み続け、歪んでしまった姿だったのだ。
リコの癒しは、その歪みを、本来の、聖なる姿へと、還していく。
やがて、全ての瘴気が消え去った時、そこには、光り輝く、美しい精霊獣が、リコの前に、恭しく、ひざまずいていた。
試練は、終わった。
リコは、誰かを傷つけることなく、その存在そのものを、救ってみせたのだ。
「…見事だ…。これほどまでとは…」
エルダは、杖を持つ手が震えているのを、自覚した。
「お前さんこそ、真の巫女じゃ…。この世界樹が、この世界が、待ち望んだ、本物の、癒し手じゃ…」
精霊獣は、リコの頬に、親愛を込めて、その鼻先をすり寄せると、やがて、光の粒子となって、世界樹の幹の中へと、静かに、還っていった。
その瞬間、世界樹に、変化が起きた。
枯れ果て、黒い骸骨のようだった、その幹の、一番根元の部分から、一つの、小さな、緑色の若葉が、ぽつり、と芽吹いたのだ。
それは、ほんの小さな、しかし、確かな、生命の息吹だった。
「さあ、行くがよい、巫女よ」
エルダが、道を開けた。「この樹は、お前さんを、受け入れるだろう。お前さんの、全てを」
リコは、アレンに一度、力強く頷いて見せると、一人、ゆっくりと、世界樹の元へと、歩み寄った。
そして、その、ごつごつとした、冷たい樹皮に、両手を、そっと、触れさせた。
その瞬間。
リコの世界は、光に、包まれた。
膨大な、あまりにも膨大な、記憶と、感情と、生命の奔流が、世界樹から、リコの魂の中へと、直接、流れ込んできたのだ。
――母の顔。その温もり。自分に「リコ(世界の光)」と名付けてくれた、優しい声。
――父の顔。一族の長として、厄災に立ち向かった、厳しくも、愛情深い眼差し。
――平和だった頃の、一族の暮らし。世界樹と共に歌い、大地を癒した、喜びの日々。
――そして、厄災の始まり。空が赤く染まり、大地が裂け、人々が絶望に染まっていく、悲しみの記憶。
――闇の力に魅入られ、袂を分かった、同胞たちの、嘆きの声。
――自分を、未来へ託すため、うろの中へ隠した、母の、最後の、愛の言葉。
『どうか、生き延びて…。世界が、再び、癒しを求める、その時まで…』
全てを、思い出した。
自分は、世界樹の巫女、その最後の一人。
本名を、リコリス・アルク・アストライア。
母から、この世界そのものを、癒すという、使命を託された、希望の子。
そして、彼女は、世界樹自身の、声も、聞いた。
それは、永い、永い間、瘴気に蝕まれ、死の淵を彷徨い続けた、巨大な魂の、か細く、しかし、切実な、救いを求める声だった。
『…癒して…おくれ…。我が子よ…。このままでは、世界は、死んでしまう…』
流れ込んでくる記憶の奔流の中で、リコの意識は、遠のいていった。
だが、その魂は、確かに、答えていた。
(…大丈夫。私が、来たから)
(お母さん、お父さん、一族のみんな。そして、世界樹)
(私が、必ず、あなたたちを、この世界を、癒してみせる)
アレンが見守る中、リコの身体は、まばゆい光に完全に包まれ、ゆっくりと、世界樹の幹の中へと、吸い込まれていった。
それは、彼女の、巫女としての、完全なる覚醒の瞬間だった。
失われた全ての記憶を取り戻し、自らの使命を、完全に、受け入れた彼女。
彼女が、再び、その姿を現す時、この死んだ森に、そして、この世界に、何が起きるのか。
その答えを、今は、ただ、信じて待つことしか、できなかった。
アレンは、祈るように、光に満ちた世界樹を、見上げていた。