森で目覚めた薬草師と癒しの手
記憶を失い、夢の中の巨大な樹を目指す少女リコ。不思議な薬草の知識だけを頼りに旅をする彼女は、危機が迫ると謎の力に守られる。立ち寄った町で、怪我をした少年を癒したその力は、彼女の出自の謎をさらに深めていくのだった。
森の朝は、湿った土と若葉の匂いで満ちている。小さな背嚢を背負った少女、リコは、苔むした倒木に腰掛けて、夜明けの光が木々の隙間から差し込むのを待っていた。彼女の記憶は、三ヶ月前にこの森で目覚めた時から始まっている。「リコ」という名前と、「大きな樹へ行かなければならない」という漠然とした使命感だけが、彼女の世界のすべてだった。
手元には、丁寧に編まれた小さな薬籠。中には色とりどりの薬草が詰められている。薬草の知識は、なぜか最初から頭の中にあった。どの草にどんな効能があり、どう調合すれば薬になるのか、まるで呼吸をするように理解できた。
「よし、そろそろ行こうかな」
リコは独りごちて立ち上がると、森の奥へと続く獣道をおぼつかない足取りで進み始めた。今日の目的は、崖際にしか咲かないという「月雫草」。傷を癒す軟膏の材料として、旅の商人から高値で買い取ってもらえるのだ。それが、彼女の旅の糧だった。
しばらく歩くと、視界が開け、切り立った崖が見えてきた。崖の中腹、わずかな岩棚に、月の光を閉じ込めたような青白い花が可憐に咲いている。
「あった…!」
リコは慎重に崖を降り、足場を確かめながら月雫草へと手を伸ばす。その時だった。ぐらり、と足元の岩が崩れ、リコの小さな体は宙に投げ出された。
「きゃっ!」
短い悲鳴。しかし、地面に叩きつけられる衝撃は来なかった。ふわりと、優しい力に身体が包み込まれる。恐る恐る目を開けると、自分の身体が淡い緑色の光に覆われ、ゆっくりと地面に降りていくところだった。
「…また、なっちゃった」
時々、こうなるのだ。危機が迫ると、意思とは関係なく不思議な力が発動する。これもまた、自分が何者なのかという疑問を大きくするだけだった。
無事に着地したリコは、気を取り直して月雫草を摘むと、近くの宿場町へと向かった。町に入ると、薬屋の店主が待ってましたとばかりに駆け寄ってくる。
「リコちゃん、待ってたよ!例の万能薬、もうないのかい?」
「こんにちは、店主さん。うん、これが最後のひとつ」
リコが差し出した小さな小瓶を、店主はありがたそうに受け取った。リコが作る薬は、どんな薬師が作るものよりも効果が高かった。軽い怪我なら一晩で塞がり、重い病も数日で快方に向かう。人々はそれを「妖精の祝福」と呼び、誰もリコの素性を深くは詮索しなかった。
薬の代金と、少しばかりの食料を受け取ったリコは、町の広場でパンをかじった。広場の中心には、枯れかけた大きな噴水がある。その時、人々の悲鳴が上がった。広場に駆け込んできた荷馬車が、何かを避けようとして横転し、積み荷の木材が幼い兄弟のすぐそばに崩れ落ちたのだ。兄が弟を庇い、足を木材の下敷きにしてしまった。
「痛いよぉ…!」と泣き叫ぶ兄の足は、見るも無残に折れ曲がっている。大人たちが遠巻きにしている中、リコは迷わず駆け寄った。
「動かさないで。大丈夫、すぐに楽になるから」
リコは背嚢から月雫草を取り出し、その場で手早くすり潰していく。そして、いつもは誰にも見せないように使っている、小瓶に入った透明な液体を数滴垂らした。それは、彼女が森で目覚めた時から持っていた不思議な水。どんな薬草も、これを混ぜると効果が何倍にもなるのだ。
緑色の軟膏を少年の傷口に優しく塗り込むと、不思議なことが起きた。淡い光が傷を包み込み、少年を苛んでいた激痛が和らいでいくのが見て取れた。少年は驚いたように目を見開き、やがてすうすうと安らかな寝息を立て始めた。
「なんてことだ…あの薬は一体…」
「あの子は一体何者なんだ?」
人々が息を呑む中、リコは誰にも気づかれないようにそっとその場を離れた。感謝も賞賛も、今の彼女には必要ない。ただ、夢に出てくるあの巨大な樹へ行きたい。そこへ行けば、自分が誰で、どこから来たのか、すべてがわかる気がするからだ。
西の空が茜色に染まる頃、リコは再び旅路に戻った。彼女の小さな背中を見送る者は誰もいない。しかし、彼女の足取りには、かすかな希望が灯っていた。