32.底知れぬ闇が見える
森の調査が始まってから、数日が経っていた。
アルスたちは慎重に、それでも可能な限り速度を落とさぬよう森の調査を続けていたが、その中で少しずつ確実に分かってきたことがあった。
この森には、“何か”がいる。
それも、ただ危険なだけの魔物ではない。
森の奥へ進めば進むほど、景色は目に見えて異様さを増していった。
無理やり捻じ折られたような倒木に、地面を深く抉る巨大な爪痕。
加えて、何か重いものが引きずられたような土の裂け目。
自然の営みでは到底説明できない痕跡があちこちに残されている。
まるで森全体が、何かを恐れて息を潜めているようだった。
「まただ。なんなんだこの痕跡……」
アルスはしゃがみ込み、折れた木の断面を指でなぞる。
繊維が裂けている。
またしても純粋な膂力だけで、へし折られていた。
「熊……? いや、そんな規模じゃないわよね」
エスカが眉をひそめながら周囲を見回す。
「クマ科の魔物もいるけど……こんな所にいるはずがないよ」
アルスの声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。
背筋を冷たい汗が伝う。
嫌な予感だけが、森の奥へ進むほどに膨れ上がっていく。
そして、異常なのは破壊痕だけではなかった。
「……なにこれ?」
エスカの声に視線を向けた瞬間、全員の表情が強張る。
そこに転がっていたのは、動物の死骸だった。
猪と、鹿か。
身体の半分が無惨に引き裂かれている。
そして、その中には――
「……おいおい、マジかよ」
ホロウガルムの死体も混ざっていた。
昨日、自分たちを苦しめた危険な魔物。
本来ならこの森のもっともっと奥、山の上位捕食者であるはずの存在。
その胴体は大木に叩きつけられたように潰れ、鋭い牙は根元から砕け散っていた。
山へと続く森の奥。
木々はなぎ倒され、無数の獣や魔物が逃げ惑った痕跡が広範囲に広がっている。
まるで森そのものが、巨大な何かから逃げ出そうとしているように。
「異常だ……異常過ぎる……! どうなってるんだ……!?」
アルスは震える声で呟く。
「どう……って、お前が分かんなきゃ誰もわかんねぇぞ……!?」
ガーディールですら額に汗を浮かべていた。
普段は豪胆な彼の顔にも、明らかな焦りが見える。
アルスは低く呟き、周囲を見渡した。
やはりホロウガルムは何者かに縄張りを追われ、山から叩き出されていたのだ。
アルスは呼吸を整えながら、地面や木々へ次々と澱みの検査をかけていく。
しかし、倒木や破壊痕には依然として明確な反応が出ない。
だが――
ある物に澱みの検査をかけた瞬間だった。
プー、と。
少し高い警告音が、不穏な森の静寂を裂いた。
「っ……!?」
アルスの顔色が変わる。
反応を示したのは、地面に散らばったホロウガルムの体毛。
その一部にだけ、明らかに異質な魔力反応が宿っている。
アルスの喉がごくりと鳴った。
「Eだ」
ぽつり、と呟かれた声は、妙に乾いていた。
「はぁ?」と、この状況の中では間の抜けた声でガーディールが目を丸くする。
「おいおいおいアルスさんよ……EとかFとか出たら、お前なんつったっけ?」
「……軽く国の軍隊出動レベル」
その場の空気が凍った。
「な、なんでそんなヤバい奴がこんな森にいるのよ……ねぇ、壊れてない? それ……」
「壊れてないよ。残念ながら。……ちょっとこれは」
アルスがそう言いかけた、その時だった。
ぐらり、と。
森が揺れた。
否。
正確には、森の一部が歪んだ。
陽炎のように景色がぶれ、木々の輪郭が溶ける。
「……っ」
全員の呼吸が止まり、視線が森の奥に集まる。
そこに、木々の隙間に収まりきらないほど巨大な影が覗いている。
白銀の体毛に、異様に長い腕。
歪んだ巨体。
それはまるで、“毛に覆われた巨人”だった。
だが何より異様だったのは、その存在感だ。
森と同化するように輪郭が揺らぎ、見えたと思えば消え、消えたと思えばまた現れる。
その暗がりの奥から、一つの目だけがじっとこちらを見つめていた。
冷たく、暗い。
まるで感情の底が抜け落ちたような目だった。
「~~~~っ!?」
エスカが反射的に鉄剣へ手を伸ばす。
だがその腕を、アルスが慌てて掴んだ。
「慌てないで……! 後ろを向かずに、ゆっ……くり。ゆっくり下がるんだ」
アルス自身も恐怖を押し殺しているのが分かった。
魔物の全貌が分からない。
少なくとも、すぐ名前が浮かぶような種ではない。
景色に同化する性質は、ホロウガルムの魔法に酷似しているが、見た目はまるで違う。他の魔物かと考えるが該当する魔法の使い手が思いつかない。
あれかこれかと仮説が出ては消えていく。
アレは生物として何かが決定的に違う──アルスは堪えきれない程の恐怖を唇を噛んで押し殺し、二人を下がらせた。
「戦おうと思っちゃダメだよ。ゆっくりだ。ゆっくり……」
幸い、巨体は追ってこない。
ただ陽炎のように揺らめきながら、こちらを観察しているだけだった。
一歩。
また一歩。
呼吸を殺しながら距離を離す。
やがて木々の陰に完全に隠れたところで、一行はようやく走り出した。
「……はぁっ……!! はぁっ……はぁっ」
エスカが荒く息を吐く。
心臓の鼓動が耳にうるさい。
「なっ……んだったんだ今のバケモン!? アルス、なんか分かるか……!?」
「わ、分からない。図鑑を引けば分かるかもだけど、少なくとも僕は見たことないよ。何科の魔物かさえ検討もつかなかった……!!」
アルスの顔は青ざめていた。
知識こそが自分の武器であると自認していたつもりだったが、その自分が理解できない。
そんな、まるで暗闇のような未知の襲来にアルスは一つの決断を下した。
「二人とも聞いて。正直これは、手に負えない」
アルスは強く言い切る。
「今すぐ森から出て、村の人たちを避難させるべきだ」
「それって……! 消えた男の人たちはどうするのよ!?」
エスカが食ってかかる。
それは当然の反応だったし、アルスも理解している上で首を振った。
「それも含めて手に負えないんだよ! 言ったでしょ、澱みの検査のEなんて人間が生身で戦ってまともに勝てる相手じゃないんだ」
その声には焦燥が滲んでいた。
あれは危険だ、関わってはいけないと本能が全力で警鐘を鳴らしている。
それを同じように感じているのだろう、エスカは悔しそうに歯を食いしばった。
「急に襲われなかっただけ良かったよ。あの目は……冷たい、冷たい暗い目だった。本当に魔物なのか疑うくらいの……」
アルスは自分の腕を抱くようにして呟いた。
あの目を思い出すだけで、全身が粟立つ。
獣とも違う、魔物とも違う。
あれはもっと別の何かだ。
「……いずれにせよ、一旦戻ろうぜ。何をするにも、ここはクソ危険だ」
ガーディールの言葉に、誰も反論できずに頷くしかない。
森の奥では今もなお、何か巨大なものが動くような音が微かに響いていた。




