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縁の下のクロッカス

作者: 犬神のしゅり

 縁の下のクロッカス

 

 最近はむやみやたらに樹木が翠で、見えるか見えないかの小さな鼻先と手のひらが濡れて仕方が無い。来る日も来る日も君を待ち続けてひどく淋しいではないか。

 確か君を初めて見たのは随分と日が落ち重なる前のことで、体をまだ震わせて耐え忍んでいたあの頃、あの三日月よりも遠いような白黒であった。

 

 さっきまでくっきりしていた月形がぼんやりとして、陽の青さと混じり合ってしまったのを見てそろそろかと思うと、いつも通り見習い僧達が身支度を整えて頭上の階段を登り始めた。瞬きをゆっくりしてるとすぐに、これまたいつも通りに般若心経の声が聞こえた。と同時に私もいつまでも怠けてはいけないとかさついた手で顔を洗い、自慢の柔毛を整えた。斜め上から、丁度休みに来た葵の野鳥と礼を交わし冷たい地面を勢いよく蹴って芝生へと着地した。やはり野鳥には飛躍が足りぬと少しばかり恨んでしまった微妙な日の始まりであった。

 私はいつも海月寺の縁の下から出ると真っ直ぐに紅い頭巾を被った子地蔵のところへ挨拶へ行く。なぜかその子地蔵はいくら目を覚ましても同じところへいて、いたって無口な奴なのである。乾いた鼻先を伸ばして子地蔵に近づけるが例のこの奴は一向に動こうとしない。まさに失敬の教科書のような奴で嫌になるが、そこを通る僧や老達はいつも奴に深く礼をしては少しの鉄の破片を置いて去って行く。ある婆は雪が降った夜に暖かい巻物を巻かせて去ったこともある。

 私はその失敬さがどうしても許せない故に、その子地蔵とは犬猿の仲ではあるが、私自身まで無礼になることはなかろうと毎朝こうして鼻先を近づけに行くのである。かといって私は子地蔵に親切かといったらそういうわけでもない。

 通る者達が置いてゆく硬い鉄の破片はどうやらただの破片ではなく、魚と交換ができるものであるらしく、それを知ったのは漁港まで友人と遊びに行ったついこの前のことである。若い漁師は手元が覚束ないのが大半で、よく魚をポロリと落としてしまう。友人と私は足の速さだけは自信があるものだからよくそれを狙っては咥えて逃げ去っていた。

 だがある時一人の漁師が私達に魚を譲ってくれたのだ。譲り受けた魚だからそれは堂々と美味そうに味わっていた。初めて堂々とゆっくり味わっていたものだら周りを見る余裕が生まれ、初めて気づいたのは人間どもが鉄の破片を渡して魚を堂々と受け取る様子だった。漁師も、私達を必死に追いかけるようにするあの素振りを見せないし、更に言えば深々と礼をしている。首を傾げていると友人はもしかしたらあの破片は魚と交換できるのではないかと馬鹿げた事を言い出すものだからほれやってみろ、というとその黒の同種は次の日いつもより鋭い目つきでどこからか持ってきた鉄の破片を咥えて漁師の前に堂々と立ちはだかった。その漁師は若漁師に見せる般若顔を一変させて柔らかくし、友人であるクロが咥えた破片を受け取り魚を一匹渡した。それから私はあの破片に本当に価値があると見てあの憎い子地蔵が持つ破片を幾つか盗んでは堂々と魚を得ていた。

 この日もいつも通り子地蔵は鼻をピクリとも動かさないものだから嫌になって破片を数枚持ち帰ることにした。そうして来た道を振り返ると君は小洒落て座っていた。両前足を綺麗に揃えた美しい身なりで、胸は純白の白艶であった。小刻みに動かすその鼻の周りはそのミルクに柔和された甘い茶色で、鋭いながらも丸っこい左目の方は豪華な夜空の黒だった。黒や白、茶の同族は見たことがあったが、三毛の君は見たことがなかった。

 心臓の鼓動が重くなったのは破片を盗ったのを見られた焦りだったはずだがどうにも体が火照ってしまう。長く繊細な六本の髭はその綺麗な小刻みに刻む動きを止めて私に話し始た。

 「貴方、そこで何をなさったの?」

 私はうっかり君に似た色の毛を逆立てて取り乱してしまった。声を出したいがまだ出せなくて一瞬ばかり子地蔵に同感を意を抱いてしまった。見兼ねて君はまた言った。

 「勝手にものを取ってはなりませんわ。そもそも貴方そんな破片を奪って何をなさるんです?」

 そんな間も私は君の高くて細い声に魅了されていたがなんとか顔には出さなかった。

 「勘弁して下さい。腹を空かしたのです。漁港で魚を食べるために大変役に立ちますから貴方様も二、三枚ばかり持っていったら良いでしょう。」

 「そんな事致しませんわ。家の者から貰える食べ物で十分ではありませんか。」

 そうか、この三毛は貴族の出なのかと確信して少し意地悪をしてやりたくなった。

 「貴方様のお宅では何を戴けるのです?」

 「明るくなる頃には小さな干し魚、日が高く昇る頃には少々の果物と別の干し魚、日が落ちると鶏肉が戴けますわ。それで十分ではありませんか。」

 「そうで御座いましたか。生憎私は持ち家や主がおりませんから私自身でやっていかねばなりません。どうかご理解を。では。」

 私は過去のときめきをすっかりと忘れて貴族に対する憎悪を抱えていた。三毛の美しさが埃でまみれる前に立ち去ろうとするとまた後ろからか細い旋律が聞こえてきた。

「お待ち下さい。お困りのようでしたら私の後を。何かご馳走をさせますわ。」

 白い胸の内は確実に舞い上がっていた。そのまま尾を向けたまま立ち去るのが野良の男らしいと格好をつけたかったがどうにも鼻先の興味が振り返らせる。困ったことに何度振り返っても君の周りが熟していないような桃色で仕方がなかった。生憎私はその牛乳コーヒーと誰にも触れていない果実の柔らかな雰囲気に飲まれてしまって、気づいた時には君が堂々と自宅へと向かっていた。私がついて来るのを確信しているように。

 玄関先まで近づくと三毛の小さな手で簡単に開けられるように主が少し開けといたであろうドアをガラガラと開けた。家に入ると森の木と人間の匂いが混じり合った独特な匂いがするとともにさっき子地蔵のところで鼻先を喜ばせたあの匂いの正体と理由が分かった気がした。三毛は一番手にある部屋のドアの隙間からゆっくりのその丸い頭を伸ばすと一言、ただいま帰りましたと誰かに言う。それを聞いた返答のように家の主であろう野太い声がおう、と帰ってきてまるで漁師の返事にも似ていた。

 君はまた振り返り何も言わずに奥へと進んだ。私もまたドアの隙間まで足を進めてふと覗くと見たことのある顔であった。あれは製氷会社の男である。冬は世話にはならぬがこれからの夏の季節に世話になるのである。私達は体の都合手の平や鼻先を主とするしか体温を下げることがうまくできなく、毎回暑くなる事毎に製氷会社の人間に頼んで少しだけ涼んでいたのだ。特にこの男には大変世話になっているのである。

 少し奥まで進むと台所があった。高い机の上には焼かれた魚が透明な箱に入っていて、それ以外にも美味そうなものが箱に入って積み重なっていた。

 「焼き魚をどうぞ。大変美味しゅうございますよ。」

 誠に優しい顔であった。正直言うと野良の私には焼き魚を食べる機会などあるはずもなく未知との遭遇のようだった。だが私の持つ貴族出身の者より野良の者達の方が経験が豊かであるという偏見を駆使してキリッとした目で頷いた。

 「かたじけない。ではお一つばかりいただきます。」

 焼いた魚がこれほど美味であるとは思いもしなかった。魚の皮が焼けた香ばしい匂いが鼻を通って私の胃を刺激した。無我夢中で食らいついて、気づくと三毛の君は優しい目で私を見守っていた。

 「初めてお食べに?」

 私はついカッとなった。

 「そんなことはないが久しぶりだ。」

 「あらそうですか、随分とよくがっつくので。」

 「俺はいろんなもの食べてきたんだぞ。貴族の君にはわかるまい物をたんとね。」

 「あら、何か珍しいものをお食べになさったんですね。何をお食べに?」

 「雲丹と呼ばれるものを知っているか、見た目はよろしくないが美味いぞ。」

 「ええ、あまり食べることは出来ませんが美味しゅうございますよね。他には何かありましたでしょうか。

 「うむ、そうだな。肉を食べたことがあるぞ。魚の肉より硬くて味が濃いんだ。」

 「あらそうですか。私も食べたことがありますわ。塩なんてふってあると尚美味しいですわ。」

 私が気に食わなかったのは、そこまで対抗して何一つ君の顔が自慢げでなかった事である。むしろ奇遇であるというような喜びさえも薄々感じるようなものだった。

 「私は気に致しませんけど、貴方様は急に言葉に親近感を纏わせるのですね。」

 「あ、それは失敬致しました。」

 「ではまたここへ来たい時は言って下さいね、最近は海月寺の周りをよく散策していますのでお声をお掛けください。玄関先までお送り致しますわ。」

 「いえ、大丈夫です。ではまた。今日はありがとうございます。」

 最後まで見栄を張ったつもりで尾を向け玄関先へと堂々と歩いた。あたかも君がついて来るのを承知のように。

 数センチ空いた玄関の戸を閉めようと後ろを振り替えると君は既にどこかへいなくなっていて、それが見栄を失った遺憾よりも何か説明し難い淋しさのようなものだった。今日出会ったばかりの見知らぬ、貴族出身のお嬢様だというのに。

 君の家の玄関を閉めるといよいよ君が本当に見えなくなった気がして嫌になった。いっそのことくだらない見栄をはらずに会いたかった、ともう一度扉を叩いたらどうなんだとも思った。玄関の前にある車二台分の砂利の駐車場でひたすら手を舐めては頭に擦った。その間にもしばらく私は君のことで頭がいっぱいであったが、そろそろ帰路に着かねばと離れることにした。

 いつもは気にも止めぬその何度も見たはずの高台の画に何故か足が引っ掛かり、あの港が思ったより低くて遠いことに驚いて少し黄昏ることにした。目の前をゆっくり暗くしてみたり、また手を舐めては頭に擦ったりしていた。街ゆく同種には口癖のように私は孤独が好きな男だと言っているのだがどうも淋しい。そしてその淋しさはクロと漁港まで遊びに行こうが、父の元を久しぶりに訪ねてみようがどうしよもない気がしたが、長らく顔を見せていないものだから父の元へ行くことにした。

 父は海月寺の百段の階段を下った所にある梵鐘の場所に住んでいる。百段の階段は私が幼い頃父と共に何度も何度も数えた段数であり、幼い頃はその段数が物足りなくてよく泣きついたが、近頃まだそんな歳でもないのにその三桁の段数が鬱陶しい。少しだけ息切れしながら梵鐘のそばに行くと父は見えない海を見ながら黄昏ていた。親子揃って海を黄昏ていたことに少し戸惑って、父の横に体を寄せた。

 「久しぶり。」

 「久しぶりに雨が降ってるな。」

 辺りを見ると知らず知らずのうちに雨が降っていた。小雨ではなく大胆に綺麗に。驚いた顔は父が一番知っているらしく、なぜ気が付かなかったのだと言わんばかりの表情である。

 「少し考え事をしていたんだよ。排水溝の水音が心地良いね。」

 「いやまったくだ。私が若い頃はここら辺に小川があって、雨の時にはより一層力強い音を出してたんだが、途端に人間が石で無理矢理水路を作るもんだから土の形状で変わる音楽が失われたよ。」

 「ただ港までの大きな住宅街は石の道しかないよ。」

 「そう考えると海月寺はまだましな場所だがな。」

 「木もあるし、小川に似た水路もあるし、寺に訪ねる人間は悪い人間ではないし。」

 「人間は全員悪い。」

 父は歳をとるにつれ人間が嫌いになり、私もようやく狩をしようとする年には人間には毛一本触らせるなと教育された。歳をとるにつれ環境を変えられ、父はうんざりしていた。その名残か、父までは酷くないが人間に対する見下しの念を持って生きてきたが、港での漁師の事などを考えるとどうも吐き捨てるように言う事は出来なかった。

 光が間に差す樹木しか見えないのを二人で黄昏ていると後ろから人間の声がかかった。勿論父は微動だにしないが私は飛んでその声のする方へ向かった。

 この人間は普段海月寺の表門を掃除している見習い僧で、寺の大僧正が見ていないところで掃除を怠っては、隠れてどこからか持ってきた煮干しをつまむのだ。寺の僧侶達は見えない何かに対し尊敬の意を抱いているものだから掃除を怠ってはバチが当たる、生き物の命を奪ってはバチが当たる、ましてや食べるなどもっての外であるなどとよく言う。

 ついこの前いつものようにこの若僧が隠れて煮干しを食べるものだからひょいと顔を出してみると目が合った。しばらく煮干しを咥えたまま何もしないものだから牙を出してシャアと音を出してみると案の定私を仏の化身だと言い始めた。私は若僧に近づいて煮干しをねだってみた。すると若僧は急に笑顔になり、仏様もやはり食べたいものですよね、美味しいですもの、などと言いながら私に煮干しを一本渡してきた。それからというもののこの若僧は私が顔を出すたびに口止め料のように煮干しをくれるのである。私はそんな人間の愚かさがおかしくて楽しかったのであるが、やはり今日はどうも気持ちがよく晴れなかった。分かってはいたが、自分の寝床に戻って目を暗くしても頭の中の痒い場所でもそもそ動き続けて寝ることができなくて、それでも夜まで目を瞑っていようと静かに寝転がり続けた。

 目を覚まして長く背伸びして、茶毛を整える。そして目をもう一度細くしながら上を見上げると丁度銀の混ざった満月が綿の薄い雲の目から顔を出していた。雨は止んだが相変わらず水は流れていて静かな夜である。

 鼻の吐息だけを荒らしなが真っ直ぐと海月寺の角を曲がる。川を潰されたつまらない石でなく、しっかりと土と石の模様のある石道を寺の灯籠に照らされた部分を頼りに奥に進む。ここは昔の参道だったのだが、近頃人間がまた新しい大きな参道を立てたばかりに海月寺を訪ねるものは皆この新しい参道を通るようになった。故にもうこの石道の参道は草木が生い茂り、まったく私の趣向に合った豊な隠れた石道となったのだ。

 灯籠灯の導きから少し逸れて草むらから顔を出すと男の影が映し出された障子窓が見えて、その隣に君が小さく座っていた。君は主をじっとみているようだった。たまに長い尾を揺らしてみたり、首筋をぐっと伸ばしてみたり、あくびをしたと思ったらちゃぶ台に飛び乗って主の手と共に背伸びをしたり、、、

 とうとう私は大袈裟な嫉妬をしてしまったのである。

 木陰にひっそりと隠れ、戯れ合う男と想い人を絵に描きようがない顔でじっと見た。この光景は確か街の美術展の片付けを覗いた時に見たあの一枚の絵に似ている。まったくの悲劇の主人公であった。結局あの絵の中の少年はどうなったのだろうか、その答えが気になって私はついに明日を待つことにした。

 尻がくすぐられて目を覚ますともう蝶の時期が在った。昨日まではいなかったはずの春がもう一晩でそこに来ていた。季節の変わり目に私は大変な思いをしたのである。焦る必要もないのになぜか自分を急かして身支度を整えた。手先の毛をこれでもかと綺麗にし、頭の茶毛のつやもより一層輝かせた。

 いつもの寺角を曲がって私の石道に入り、より一層茂みを増してきた葉の間から昨晩のように顔を覗かせると、丁度家の主が仕事に出かけるところだった。主は私に気づいて手招きをしてきたが私はなんとなく無視をしてみた。主は粘ることもなくすぐに諦め漁港へと出掛けていった。すぐ奥の窓際にはやはり君が小洒落て座っていた。しばらく君に意識を奪われ身体を茂みから出すのを忘れてしまっていた。

 茂みからひょいと身体を出そうとすると私の後脚は氷のように硬くなった。

 隣家の石壁の奥から柔らかく肉ずいた白と灰色の男が現れて君に鼻を近づけた。やがて私の失望と恥はすぐにやってきてしまった。 私の細い目には、白灰の男の鼻を優しく突く君と、誰よりも親しそうに頬を擦り寄せる君、戯れるように二本の小さな手を男の顔に挟む君、、、

 私の知らぬ目には十分すぎる君の姿が現実よりも鮮明に残酷に映し出されていた。

 私はとうとう嫌になってしまったのだ。嫉妬などはもう存在せず、決して晒されることのない特殊な恥や、まるで心臓を下から摘まれるような感覚に陥った。

 それから私は何度も君を振り返らせようと努力する夢を見続けたが、私は到底君の前で何もすることができなかった。あの恥や心地悪い感情を長引かせたくなかったのである。

 それでも私は君が白灰の男と美しい顔を作るところや鼻を柔らかく重ねる姿、ある時には悲しむ姿さえもみることがあった。それは何回日が落ちようが変わらなかった。あの二つの美しく邪魔の許されぬ姿、木陰から心底幸せを羨む哀れな姿、何も変わらなかった。そうした一枚の絵のような戯言を何度も何度も繰り返すうちに私は君にやはりいうべきだと悩むことが多くなっていた。道端で偶然会っても私は心内の嬉しさを隠していた。もはや本当に私は偶然に会ったのか、と自分を疑うほどであった。それでも私は君の二色の合わさった顔を見る度にいちいちとときめいていたのである。そうした日が訪れる度に私は帰路の石道の影で独り泣いた。男らしくないとはこのことだ、と何度も自責しては平然を装っていた。

 ある日、干からびた目を覚ますと久しく蝉が鳴き始めた。これから暑くなるぞと父がボサリと言ったのが予言のようだった。いつも通り石道を進むと暑さの季節を意識してしまったせいかやたら翠の茂みがより一層美しくなったと感じた。

 すると遠くから三毛の主が玄関の戸を開けるのが聞こえて、私はつい顔を出すことにした。君は相変わらず毛先を艶に輝かせて空を眺めていた。私は遠くから声を一言かけた。

 「どうも」

 すると君はふと気が少し入るように私を見つめ、いつものように柔らかく微笑んだ。

 「なんだ、貴方だったんですね。あんまりそちらからお声をお掛けなさらないから誰かと思いましたわ。」

 私は何も答えずに深々と礼をした。何も答えられなかったのである。何度でも君の艶に圧倒されて、何度でも何を話せば良いのかわからなくなってしまうのである。すると君は大きく背伸びをして家の敷地を抜け始めた。

 「せっかくですから、久しぶりに海月寺でお散歩でもしましょうか。海月寺にお詳しいでしょ?」

 「そうですか。」

 私は心底嬉しかったのだ。堂々と歩くその美しさが余計に私を真面目にさせた。

 だが君はそのまま居なくなった。私の目の前から急に居なくなってしまった。

 家の前の道路を猛速度で走る車に轢かれて君は居なくなった。

 君を見つけたのは目の前から六軒先の道路の真ん中だった。だがそれはもう君ではなかった。私は涙も出せないまま君の元へ走った。信じることができなく、せめて細い命が残ってるなら君を愛していた、と伝えたかった。だが君の元へ駆け寄るともう君は居なくなっていて、僕はやっと涙が溢れてきた。

 何もできない僕の元へ遠くから白灰の男が走ってきて、私を邪魔者のように退けた。

 とうとう君に何も言えないままの私になってしまった。本当は君を好いて、愛していた。君を見ると嬉しかった。同時に私はもし私が顔を出さなければこうはならなかったと悔やみ始めた。私が君に顔を見せたりするから君は居なくなってしまった。

 何度も何度も悔やみ続けたが、どうにもなるはずもなく、ただただ寺の縁の下で泣き続けた。

 

 気づくと私も父が死んだ歳になって、ついこの前あの白灰の男も亡くなったと聞いた。

 どれほど月日が経ったか分からないが、結局この淋しさと恋しさの捨て場が見つからなかった。

 近頃ますますに強くなる蝉の虚しい声にまた目を熱くして、見つからぬ淋しさの居場所をまた探しに出かけた。

              

                                               令和四年八月

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