ガジェットという相棒
「先生、領収書、ほとんど全部キーボードなのはどういうことですか?」
呆れるように、対面に座る女性が言う。
俺-山田博文の公認会計士だ。
俺は世間一般で言うところの売れない小説家である。
そんな俺にも公認会計士がついているわけだが、その公認会計士たる彼女-内田明が呆れている理由も、おおかた見当がついている。
「そうなんだよ、壊れてな」
俺が言うと、明は頷いて、俺が提出した領収書の束を指さした。
「本を作るために今やパソコンは欠かせません。当然キーボードも必要です。で、す、が! 先生、こんな束になるほどキーボードの領収書を出してくるのは私が知ってる限りであなただけですよ! 何をどうすればこんなに領収書が束になるくらい壊れるんです!」
明が一通り怒鳴った後で、互いにため息を吐いた。
何故か俺がキーボードを叩いていると壊れていく。最短だと三日で壊れた。
一週間持てば十分に持ったと言える具合なのだ。
それ故に領収書は束になるほど積もっていく。出費もバカにならない。
なぜこんな簡単に壊れるのだと、俺ですら思ってしまう。
「だってすぐ壊れるんだからしょうがねぇだろ?」
「普通のキーボードはそう簡単には壊れませんよ……。ちょっとキータッチの様子見せてもらってもいいですか、先生?」
明がそう言ってきたので、俺は普段の書斎に明と向かう。
書斎はパソコンと資料があるだけのシンプルなものだ。
パソコンは、昔はノートだったが、それも仕事中にキーボードを壊してしまい使い物にならなくなった経験から、デスクトップでキーボードは別のものにしている。
「では山田先生、普段キータッチしている様子を見せてください」
明がそういうので、俺は椅子に座ってキーボードを空打ちした。
カタカタと音を立てながらキーボードを打っていく。
しかし、打つ度に感じるのだ。
何かが違う、と。
しかし、それが何かがわからず、ずっと同じキーボードを使っている。
そしてタイピングをしている最中に、キーボードに対して違和感を覚えてしまう。何かがしっくりこないのだ。
それを思う度に、徐々にだがキータッチが強くなっていくのを俺は感じた。
あ、まずい、壊れる。
そう思った直後、バキっと、プラスチックのキーボードが真っ二つに割れた。
「あー……またか」
俺は椅子にもたれかかって頭を抱えた。
明に目を向けると、顔が引きつっていた。
「もげましたね……」
明の顔は引きつっている。
そりゃあ、こんな光景を見せられれば誰もが引きつるだろうと、俺ですら思う。
「それに、先生叩いてる最中に急に強くなりましたね……。同時にあれだけ強い叩きっぷりです。先生がキーボード打ってる間私が喋ってたの聞こえてないんでしょ、返事しませんでしたから」
そう言われて、俺は思わず唖然とした。
確かに明が喋っていることなど聞こえなかった。
考えてみれば思い当たるフシがないわけではない。
例えば電話だ。担当から『出かけたりしてました? さっきかけたんですけど』など聞かれていた。
今思えば、それは要するにキーボードを叩く音がうるさすぎて電話がかかってきていることに気づかなかっただけの話になる。
「そんなにうるさかったのか……」
「それだけ叩く音が強ければそりゃキーボードも壊れますよ、先生。なんとかしたほうがいいです、割とマジで。こんだけ壊して領収書も束になって都度経費にされてちゃ不正会計と疑われても文句言えませんよ」
明の言うことはごもっともだ。
だとすれば、静かに叩くように心がけるしかない。
なんとかしてみるか。
そう思った後、明と数点話して、明は帰っていった。
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「先生、原稿、まだですか?」
自分の真後ろから、担当のドスの利いた声が聞こえてくる。
明にキータッチのうるささを指摘されて一ヶ月。できる限り静かに叩くということを意識していると、気付けば確かにキーボードは持つようになった。
実際この一ヶ月間、キーボードは無事に壊れずに持ち続けている。
キータッチをする際に、ガラス細工を扱っていると、自分に自分で暗示をかけたのだ。そうすれば自然と指の扱いは繊細になり、確かに壊れなくなった。
だが、その分代償があった。
キーボードの破損を恐れるあまり、キータッチの速度が明らかに低下したのだ。
だからこうして小説も締め切りギリギリになってしまっている。
そして違和感は拭えないままだ。
なんとか原稿が終わったのは、催促から二時間経ってのことだった。担当の顔には青筋が浮かんでいる。
しかし、なんでわざわざこの担当が家に押しかけたのかが分からないのが、少し気味が悪い。
「先生、出来たからいいですけどね、いくらなんでもタイピングの速度遅すぎませんか? なめてるんですか、うちの原稿?」
笑顔でこの担当は言ってくるが、目が笑っていない。
確かにこれだけタイピングが遅ければ、そう取られても仕方がないと、俺でも思う。
「いや、なめてはいない。むしろ、キーボードを破壊しないようにと心がけててな……」
「あー……明さんそれでうちにも相談してきたのか」
担当が手をぽんと叩くが、俺には何でそこで明の名前が上がるのかまるで分からない。
「どういうことだ?」
俺が言うと、担当がずいと、目の前にやってきた。
「実はね先生、明さんから相談されたんですよ。やたら先生のキータッチがうるさい上にキーボード破壊するくらい強いからどうにかならんかと。で、見る限りなんですけど、先生今度はキータッチ繊細にしすぎなんですよ。キーの叩きっぷりが百かゼロじゃないですか。その間のキータッチ出来ないんですか?」
確かにこの担当の言うことはもっともだ。自分は加減の調整が下手くそすぎる。
せめて今より強く打てるようになれば、もう少しタイピングの速度も上がる気がする。
だが、今まで使っていたキーボードでは恐らくまたキーボードを壊して終わるだろう。そうなっては担当にも相談してくれた明にも申し訳が立たない。
どうすればいいものか。少し、腕を組んで悩んだ。
そんな時、玄関のチャイムが鳴った。
誰が来たのか。正直あまり見当がつかない。
明と今度会うのはまだ先だし、締切に追われている案件は今担当に渡した小説のみで、それ以外の仕事は今のところ入っていない。
誰だろうか。そう思って玄関を開けて、唖然とした。
「明? なんでまた?」
明が、確かに前に立っていた。それも家電量販店の、そこそこに大きい袋を持って、である。
「心配だから来ちゃったんですよ」
俺は苦笑した。
直後、問答無用で明が部屋に上がった。俺は明に付いていくしかない。
「あ、どうも担当さん。どうでした、先生のキータッチは?」
「やっぱ繊細すぎましたよ、明さん。明さんの予想ビンゴです」
この二人グルだったのか。
どうも明が担当編集に相談したというのと、わざわざ担当がメールで済む原稿の催促のために俺の家に来ているということが引っかかってはいたが、どうやら俺はいつの間にかこの二人の実験に付き合わされていたらしい。
「んじゃ、俺そろそろ編集に戻りますんで。先生、原稿手直しあったらよろしくです。ではでは」
そう言って原稿の入ったデータを持って担当は帰っていった。
明がそれを見送った後、こちらを向いた。
「で、二人して何企んでるんだ?」
俺が言うと、明は家電量販店の袋を置き、中から新品のキーボードを出した。
噂で聞いたことのあるものだった。確か、ゲーミングキーボードとかいう奴だった気がする。
「これ試す価値あると思いますよ」
そう言われて明から渡されたものを持ってみると、今まで持ったことのあるキーボードに比べ少し重かった。
「キーボードにしちゃ重いな」
「これアルミニウム製なんです。プラスチックに比べればそりゃ重いですよ」
アルミニウムで作られたキーボードなど聞いたことがなかった。
開けてみろと、明も担当も目が言っていた。
箱を開封して中身を出すと、キー自体はプラスチックだが、本体は確かにアルミニウムのキーボードが出てきた。
「こういう質感のものは使ったことなかったな」
「先生の場合、キーボード変えちゃう方がいいかもって思ったんです。キーボードに対して違和感あったんでしょ? だからタイピングの感覚がハッキリしなくて壊すんじゃないかって思ったわけです」
「よくわかったな」
思わず感心してしまった。
明は俺の想像以上に洞察力があるらしい。
「だからこそ、あえて物自体を変える。弘法筆を選ばずって言葉はありますけど、それが全員できれば苦労はないんです。違和感があったままでは道具は真価は発揮できません。でも、自分にとってぴったりのガジェットならば、自然と身体がそれに順応する。そしてガジェットは相棒となり、自然と大切にするようになる。そうなってくれば、仕事もはかどるようになる。まさに一石で何鳥にもなり得るってわけです」
明が自信満々に言う。
だが、本当にそうなのだろうか。
そう思い、キーボードを叩いてみる。
音はカタカタと鳴る。小気味いい音だ。
それに、壊れるな、という感じもしない。
そして、違和感がない。
自分でも驚くほどに、指さばきがスムーズに運ぶ。どう打てば壊れないかが分かってくる。
まるで自分の手のようだと、思わず感じてしまうほどだった。
違和感の正体は自分の手の延長線のようになっていないことだったのかと、このキーボードを叩いて初めて分かった。
確かに、機器を変えてみるのは大事なのだと、身をもって感じられた。
「ほー、こりゃいいな」
思わず唸ってしまった。
以前と変わらない感触で叩いているが、音も以前より静かだ。
「どうです? 結構いいでしょ?」
明が不敵に笑いながら言ってきた。
叩いている最中なのに声が聞こえるのだから、相当の効力がある、と言ってもいいだろう。
「ああ、気に入った。こりゃいいな」
そう思って今使っているキーボードをデスクトップから外し、ゲーミングキーボードをパソコンに付けた瞬間だった。
突然ゲーミングキーボードの文字が七色に光り輝いた。
「……明、なんだ、これ?」
「あー、ゲーミング系はやたら光るんですよ。RGB一六七七万色に明滅します。一応ユーティリティ使えば消せますんで。ちなみにゲーミング系はだいたいこうですから」
思わず引いてしまった。
なんで光るのかがまるで分からない。まるでネオン街を思わせるように光り輝くキーボードは、生まれて初めて見た。
しかし、それを除けばいいキーボードであることは間違いない。
やっと自分の手に馴染むものが手に入った。そんな気がするのだ。
「その様子ですと気に入ったようですね」
「ああ。ありがとな、明。こりゃいいプレゼントもらったな」
明が、首を傾げた。
「プレゼント? んなわけないじゃないですか」
言うと、明は家電量販店の保証書の付いたレシートをこちらに渡した。
レシートに記載されている額を見て、俺は目が飛び出そうになった。
「さ、三万円!? キーボード一個に三万円?! 俺が今まで使ってた奴の十倍近いじゃねぇか!」
「ゲーミング系は長持ちするし、特殊なキータッチにも対応しているから高いんですよ。でも今回に関しちゃこっちが押し付けたようなものですからね。なので」
そう言った後、明は三本、俺の顔の前で指を立てた。
「三万円、出世払いで今度払ってくださいね。今出した小説が売れた際の印税でお願いします。それまでは、貸しにしときます」
にっと、明が笑う。
明はホントにコロコロ表情が変わる奴だと、俺は思うのだ。
だが、そこが明の魅力でもある。だから突然貸しを作られても嫌いにはなれない。
「じゃ、今度いずれ返すわ、相棒」
こっちも、不敵に目の前の相棒に対して、笑っていた。
(了)