プロローグ
─── 人間というものは、不幸の方だけを並べ立てて
幸福の方は数えようとしないものなんだ───
フョードル・ドストエフスキー,『罪と罰』より
「割るには丁度良かった」
“夢、それはいくら等間隔に並べても結局「夢」だから覚めてしまうんだよ。
だから人々は夢をカチコチに冷凍でもさせて保存しておくべきなんだ”
雑木林の中に、ぽっかりと浮かぶ煌びやかな小川の傍にひっそりと佇む、古いバス停の待合室の中で、彼は私の隣で険しい顔、けれどその目はどこかその夢を持っているように、私達を無視して流れていく川を見つめながら言った。
私はいつも通りの彼の話しっぷりに少し、朝の出来事から開放される感覚を覚え、軽く頷きながら彼と同じように足を組んで目の前の日光が照らされ、キラキラと水滴を、波紋を輝かせる小川へと目をやって声をだした。
「気にしなくても、夢は持っているよ…私はね」
「ほんとか?お前はどちらかと言うと、夢を見終わったとかそんな感じがするが…」
「何言ってんのさ-、もう十五だよ。将来の夢は持ってるって」
「そうか…まあ俺はな!医者になってみんなを救うって言う素晴らしい夢があるんだ!」
「へえ、君は全く自分の思いに従順だね」
「それが人間としての正のあり方だ、それに意外と人間は簡単な思考回路をしているらしい」
「君の中では経験論が全てかなのかな?」
「いや、ただ法の下で裁かれることも大事な事だとおもって」
「君は縛られる生き方がすきなの」
「いや、ちょっと違うな。どちらかと言えば中間地点だが、縛られるでは無く守るのが大事だと思う」
「自然法を無視する実定法は、まあ例えば共産主義みたくさ、必ずしも人間に幸福をもたらすとは限らないんだよ」
「必ずしもだ、人間は自由でもあり不自由でもある」
「矛盾の仕方が如何に今の世界に必要かがわかる例え方だねえ…」
「とりあえず、俺は医者になり、みんなの為に働くのだ!!」
「……君も良い矛盾だねえ……はいはい…頑張ってね-」
私は彼に向かって手をふらふらとどうでも良さげに振って、少し口角をあげた。
すると彼は、何故か私の方を寂しそうに見つめてはまた小川へと目を向け、その目は真っ黒なドブのように漆黒に染まっていた。
4月の入学式の日に、お互い同じ学級委員となって、帰りのバスも一緒だと知ってから私達は、こうやって下校時に哲学もどきのことを話す。
何がお互いに秘密なのか、事実なのかはわからない。
一見して私が相手のことを知っているようにも見えるが、建前かもしれないし実際そうなのかもしれない
本当のことが分からないということが、人間にとっていちばん怖い現象だと思う。
───「あ、バスが来たよ………ねぇ………哲郎」
「あら哲郎…おかえりなさい」
「お母様、ただいま…今日は中学校で小テストがありました。」
「そう、勿論満点よね?」
「……いえその…1問だけ間違ってしまって…」
「はぁ?!あんた自分がどの家に生まれたかわかっているの?!」
「はい、勿論です!日本から続く由緒正しき家柄…」
「わかってるならやれよ!!!は、や、く!!…は、や、く、やれ!!誰が十五歳が医者の免許を取れないと決めた!!!できるんだよ!!!!」
「何?!満点じゃないだと?!なんの為に会社の金をお前の塾代に出していると思っている!!!」
「すいません……」
「いいか、どうでも良かったらこんなにお前に言わない!!お前の為なんだからな!!」
「そうよ!!ほら、そこで土下座する暇があったら勉強しなさい」
「……はい…がんばります…」
──医者をめざせ
──医者になりなさい
──医者になるべきだ
──医者しか道はない
──医者が向いてる
──医者にならなければ追い出す
─────医者になれ
「……違うっ…のに…」
「本当はっ…………………」
「ただいま……ってまあ誰もいないよねえ…」
小さなボロアパートに入る少女、右腕は包帯がしてあり、その右腕の手には爪がひとつもついていなかった。
家の中には睡眠薬と空になった酒瓶、包帯ばかりで、それだけ。
ホコリが舞う中で、少女は小さな口を開いた。
「…知っているのかな…哲郎は…
「……君が夢なんて持っていないこと」
3年D組 学級委員
?? 哲郎 夢を見てると勘違いしている
少女 それを知りえながらも教えない道具主義者
救済を夢見ている
…………………「割るには丁度良かった」