居場所
春になり、初夏を過ぎ、ポカポカ陽気と関係しているのか以前より眠る時間が増えた印象の我が家の猫達の居場所を順繰りに訪れる。何となく一番マスコットっぽさのある茶トラの長毛『ジロウ』が目立つところに居るので接近してゆくと、ソファーで寝息を立てているのが分かる。
「ジロウくん。君はよく眠るなぁ」
人間社会ではこのところ安眠材料が不足しているせいか、快眠とまでは行かない状況であるからして、この全てを委ねた寝顔は羨ましいのと同時に癒しの効果を持つ。実際問題、田舎で人通りも少ないような静かな地域を世界のすべてと考えるなら、彼にとって最も妨害になり得るのは少し安定しない天候と開けているだけにダイレクトにやってくる強風である。だが『ジロウ』が本当に風に対して何かを思っているのかというと怪しげである。どちらにせよ風の穏やかなこの日には安眠は約束されたも同然である。
なでなで
『ジロウ』の後には何となく『ピー』が気になってくる。彼も彼でベストスポットを見出すのに長けていて、今朝は何故か自室の窓近くに意味ありげに置いてある麦わらの大きめの籠の中に収まってこれまた何故だかそこに被せてある大きめの某ビーグル犬のキャラクターのぬいぐるみの下に潜り込んでいた。この描写はまさにその通りなのだが、言葉で説明するよりは写真で一発のような気もするが、そもそも籠をそこに置いているのは猫を招き入れる為であるという事を言ってしまうと猫飼いの習性が推し量られるに違いない。予め用意した場所に猫が狙い通り収まってくれることは案外少ないもので、飼い主の期待は裏切られ続け、もはやどうでもよくなってきた頃にさり気なく使用されている場面を頻繁に目撃する。
そんな『ピー』を見つけ出したのはやはり『窓際』であるが、これまた違う窓際である。窓というのは外に張り出している場合も多いけれど、その張り出した場所を上手く足元に使って『ピー』はその影をチラつかせている。というのもそこには日よけとして覆いが縦に二枚ほど使われていて、『ピー』はその覆いの微妙な隙間に見え隠れするのである。これもまた言葉で説明するより本来なら写真で一発の案件である。だがその佇まいにはどちらかというと『猫らしさ』が現れていて、そういう抽象的な事柄はそれをそう感じ取る者の心にあるわけであって、つまりは文学的な薫りをそこに見出そうとするのも悪い試みではないと思うのである。もっとも、説明する側ならともかく、それを読まされたり聞かされたりする側に回ろうものなら急激に手のひらを返して、
「今度写真に撮ってよ」
とお願いするであろうことは容易に想像できる。なんであれ、『ピー』のいつも通りの姿に何となく安堵を覚え、適度に『干渉』させてもらってから人間は退場する。
最後に一番デリケートな猫のもとに移動する。唯一の女の子である『ナナ』である。彼女の場合はパターンが非常に少なく『どちらか』にいるという事が予め分かっている。その予想を裏切らず、台所の、やはり窓際の一画に背筋を伸ばしたまま日よけの向こうに佇んでいる。彼女にとっての日光浴なのかも知れないが、他の猫に比べるといささか奇妙な場所とも思える。ネットで雌猫のデリケートさについての報告を知ってからというもの、この不自然に見える不動の姿も立派な『猫あるある』だと了解している。恥ずかしがりやというわけではないけれど、必ず何かに隠れているというのも本能的に言えば自然らしくそこまで考えてゆくとこの『奇妙』という感覚も主観の中にしか存在しないものだという事にも行きつく。
「ナナ。かわいいね」
肩に乗れるほどの体躯である猫を『かわいい』と思うのはとても自然なのだけれど敢えて「かわいいね」と言うようにしているのには理由がある。「かわいいね」という言葉の意味を何となく教え込みたいからである。猫も人語をある程度は解す知能を持つ。ただそれは生活の中であるタイミングで発した言葉と伝えようとする人間の意思と行動が噛み合っていないと意味を持つ言葉として理解してくれないだろうな…という予感というか、経験則でいうとそこまで簡単な事ではない。
<そもそも猫は自分の事を『かわいい』と知っているのだろうか?>
哲学的に考えてゆけば『可愛がられている』という事は理解してもらえるかも知れない。だが猫からすれば、自分達がそのままでいる姿に対して可愛がられているわけで、それはつまり
「君は猫なのだよ」
と言っているのと同値であり…何故なら猫はかわいいは真理であるから…
などとバカげたこと親ばか的に説明する必要が生じるくらいに『かわいい』というこの言葉で『ナナ』に何を伝えられているのだろうかと疑問に思いながら繰り返す必要がある。
とりあえずそうして3匹への訪問は完了し、そうすると私は安心して作業に向かえるのである。