冬のあしおと
白い空を空港の大きな窓から彼と二人で見ていた。
一つ。また一つと空から飛行機が舞い降りてくる。
もうすぐ彼は機上の人。
喜ばしいことに栄転だ。
ロサンゼルス社への転勤。
こっちに戻ってくるのは、二年先か。十年先か。
こんなに喜ばしいことなのに、私は別れを選んだ。
6年という長い長い春の先は急に冬。
まるで今の季節のように、寒い寒い独り身となる。
6年は長すぎた。
お互いの嫌なところに目を瞑りながらの同棲生活。
一緒にいすぎて互いに次のひと言が言えない不器用な仲。
「行かないで」
「一緒に行こう」
それが言えない。
分かってるでしょ。分かってるだろ。
お互いに心の中で意地の張り合い。
年は互いに29。
これを逃したら私は次の結婚の機会は何年後なの?
でも私は最後のその時まで彼のひと言が来るのを待ってる。
「一緒に行こう」
でもね? 言わないのも分かってる。
そういう性格だもの。
向こうも待ってるんだ。私からのひと言を。
だから言わない。
今日は言わない。
告白から私の方からで、後から「オレも好きだった」なんてふざけてる。
男ならそこは自分から引っ張ってくれなきゃ。
同棲の話もそう。車買うときも私から。
そんな人と結婚しても先が見えてるもん。
そのスーツも。
その靴も。
そのキャリーバッグも。
全部全部二人で買い物に行って、私が選んだ。
ホラ言いなよ。
私がいないと何も出来ないから、一緒に来てくれって。
バカね。何を期待してるんだろ。
言えないから今までズルズル付き合ってたんだろって認めろよ私。
「別れよう」
それも言えない彼。
それで6年。
何も言えない惰性。
だから彼にとっては丁度いい転勤。
自然消滅を狙って。
向こうでブロンド美人とラブロマンスでもするんだろ。
まぁその時は日本人らしい奥ゆかしさ的な感じでモテるかもね。
顔はいいんだからさ。
「ロサンゼルス行き、BL6をご利用のお客様は13番搭乗ゲートへ……」
「ほら」
「ん」
「飛行機来ちゃったよ」
「うん」
彼の背中をポンと押す。
それで、彼が一つ進む。
背中を向けて、一度だけ振り向いて小さく手を振るので笑顔を返した。
彼が消えていく。
別の仕切りの中へ。
これでさようならだ。
最後の最後のタイミングを測れない人とはさようなら。
彼の姿が大きなガラス窓の部屋に見える。
彼はこちらに向かって小さく手を振る。
私はそれに向かって『サヨウナラ』と声を発せず口だけ動かした。
もうあちらとこちらは別の空間。私は向こうには行けない。
ガラス窓の中には。
見送りはこれで終わり。
飛行機が飛び上がるところまで見るなんて、センチメンタルなことしたくない。
彼の居る部屋から回れ右をして出入り口に歩いて行った。
空港からでて歩き出す。
今日は公共機関でゆっくり帰る。
二人のアパートへ──。
今は二人のではなくなったけど。
ふと空を見上げると雪。
ゆっくりゆっくりと小さな雪がハラリハラリと舞い降りてくる。
「へぇ。ロマンチック」
冬は嫌いだけど、こういうサプライズは好き。
小さな雪が美しいと思うのは一時。
後は身も心も寒い。
「冬なんて嫌い」
バスに向かって歩き出す。
少しばかり白くなった路面に足跡をつけて──。
足音。
アスファルトを蹴る音。
それが近づいてくる。
激しいキャスターの回転する音が狂ったように。
「おい」
「え?」
振り返ると彼だった。
意味が分からない。彼は何も言わずに搭乗ゲートに入っていった。
それがなぜ──。
「なんで?」
「いやわかんね。なんで最後にサヨナラなんて言ったの?」
「サヨナラだから」
「サヨナラじゃないだろ。行ってらっしゃいだろ」
なんだコイツ。
いつもと違って饒舌。
息切らして、顔赤くして、あの部屋から出てくるなんて。
「なによ」
「何で何も言わないの?」
「はぁ?」
コイツ何を言ってんだ?
「いつも久美がいろいろ言うから待ってたのに何にも言わないんだもん。お前まさか、別れようとなんて思ってないだろうな?」
顔がなぜか赤くなる。
すこし走ってきたのか彼は息を切らせながらそう言った言葉に私は反抗した。
「何でいつも私に言ってもらってるの? アンタバカなんじゃ無い? そういう人は知らない。勝手にアメリカに行って自然消滅でもなんでも狙えばいいよ」
「何言ってるの? 一週間向こうで準備したら一時帰国で戻ってくるのに」
「はぁ?」
「言ったじゃん。言ってなかったっけ?」
「いつ言ったの? 栄転だって、お酒飲んで帰って来て、トイレでゲロ吐いてるとき?」
「……言ってなかった?」
「言ってない。いつも何も言わない」
「やば」
なにが「やば」だ。馬鹿にしてる。
「いっつも何か言っても、久美案が通るから、別にそれに合わせるのは苦痛じゃないから従ってるだけだろ。何も言わないだけじゃない。おおらかだと言ってほしいね」
「はぁ? だからいつも黙ってるわけ~」
「ほらほらほら。その剣幕」
「あ」
「黙ってた方が利口だろ?」
「ふーん。でも今日はいろいろと言うんだね」
「ああもちろん。一週間離れるからな。その間にオマエも落ち着くだろ?」
言われたい放題。たしかに心がムカムカとするが、彼はこのまま搭乗口に逃げていくわけだ。ナメてるね。
「じゃ言いたい放題ついでだ。一週間後に帰ってきたら一緒に荷造りするぞ。オレが選んだアパートで一緒に暮らすんだ」
「は、はい~? あたしもアメリカに行くの?」
「そうだよ。籍だけ入れてくか? 長い新婚旅行だと思えばいいだろ」
「プ」
笑ってしまった。そこまでプランがあったとは。
彼の息はようやく落ち着いたようで、長いコートのポケットの中から手を出して中程まで上げる。
「じゃ、それまでに簡単に部屋片付けとけよ。向こうのアパート広いから電化製品は向こうで買おう。じゃ行くな」
彼はまた走り出す。今度は逆方向に。
私の頭には少しだけ雪が積もってしまっていた。
頭は冷たいのに心はポッカポカ。
いつの間にか笑顔になっていた。
見つめていた出入り口。
また彼がキャリーバッグを引いて、頭を下げてこちらに戻ってくる。
先ほどの足跡にはすでに新雪が積もっていたがそれを上書きするように。
「どうしたの?」
「雪で全便運休になった」
「プ」
「まぁ、言いたいこと言ったら今日は一緒にいたくなったからちょうどいいか」
「ふふ。だね」
冬は嫌い。
寒いし、雰囲気も嫌い。
でも今日は冬のおかげかな。
楽しい時間をくれるなんて。
「じゃアパートへ帰ろうか。バニー」
「バニーって……。そこはハニーじゃないの? ホントにアメリカでやってけるの?」
「バニーだよ。あそこのコスプレショップでバニーの衣装を買って帰ろう」
「……言いたいこと全部言える日じゃないよ。今日は」
「まぁいいじゃん。栄転のご褒美だろ~」
「気持ち悪い」
【おしまい】