10話 はじまりの急接近
ドラゴンお母さんが去って、俺たちの生活は一変した。のんびりスローライフから、スポ魂みたいな熱気あふれる日々を過ごしている。
今、まさにそう。
キッチンでテーブルの周りを走っている。
「待て待て、逃げるな!」
「だだっだったら、追いかけないでください~!」
俺はドタバタ走り、ハーマリーはゲーミングチェアに座りながらローラーを魔法で動かして逃げていた。いや、俺たちさ……普通にお茶してたはずなんだけど。ちょっと触れそうになっただけで、この大騒ぎ。
「はぁはぁ……よし、止まったぞ」
「ああぅありがとうございますっ」
キッチンの隅と隅。一番遠い距離で位置取って、ようやく止まった。
あー、あっちぃ疲れた。暑いはずなのにハーマリーの衣服は変わらない。黒い魔女の帽子を深く被り、顔を隠すほど襟を立てた黒のローブ姿だ。
暑いはずなのに、絶対に脱がない。どうしてだ、少し期待していたのにっ!
「暑かったら、脱いでも……いいんだぞ」
……決して卑猥な意味ではない。
「……魔法使ってますから、暑くありません」
うっわ、ずっるぅっ! これだから魔女は!
クッソ、こちとら加齢臭香る汗まみれだというのに。頭皮だって、ほら……こんなに濡れて光ってる。今日も頭を綺麗に洗わないとな、残った皮脂汚れが抜け毛の原因になるから。前世のCMで言ってた気がする。
はーー、どっこいしょっと。残った茶でも飲むか。
「ふぅぅ……」
「す、すいません~」
「予期せぬ出来事がない限り、俺からは触れないと言っただろ?」
「分かっているのですが、体が勝手に反応してしまって」
男心をくすぐる声と台詞を吐くなっつーの。ドキドキしてしまうわ。
チェアに座りながら足先をちょこちょこ動かし、ハーマリーはテーブルに戻ってくる。うん、行動が可愛かった。本人は変わらずな服装だけどな!
今も俺の視線に耐え切れないのか、もじもじして落ち着きがない。千年以上振りの人の視線だからだろう。おら~、ハゲたおっさんの視線をたっぷりとくらえ~。
「そんなに見られても、困りますっ」
お、まーた帽子を深く被りやがって。下から覗いてやる。
こうか? それとも、こうか?
「の、覗かないでください」
「そんなんじゃいつまで経っても町には住めんぞ」
「うぅぅっ」
お、お、お~? イスが後ろに下がっていってるぞ~。ん~、ここを耐えないとハゲ頭に触れられんぞ~。
「……無理ですっ」
って、逃げた。部屋から逃げやがった。えぇい、逃がすものか!
外へ行っても、ドリアードはもう助けてくれないぞーー!
◇
俺たちの追いかけっこが森の中で開催された。
今日はちょっと曇り空。涼しい風が火照った頭皮を撫でて気持ちいい。走れば毛が揺れて、いつ抜け落ちるかとハラハラしている。
目の前で杖に横向きで座り、逃げているハーマリー。なんかこう、男女が浜辺でキャッキャウフフ捕まえたっていう感じじゃね?
おっさん、ドキドキしちゃうぞ。うふふ~、待て待て~。
って、ん? 速度が落ちたぞ。
「まだ私には……無理ですっ」
「少しずつでいいんだ、少しずつ時間を増やそう」
「でも、申し訳なくてっ」
「全然大丈夫だ、全く問題ない」
いい運動にもなるしな。年を取ると体がなまるのが早くなるから、こういうのは歓迎だな。フハハッ、どうした追いついてしまうぞ!
「はぁはぁっ、私……には」
「ハーマリー?」
「また、ご迷惑……かけて……」
なんだ? 体がふらつい――――倒れる!!
「ハーマリーッ!!」
危ねぇ!
地面を蹴り上げて飛び込む。手を目一杯伸ばして――――間に合えっ!!
「ぐぅぅっ!!」
……いででっ、なんとか受け止めることができたな。しっかし、どうしたんだ突然倒れるなんて。
そのまま地面にハーマリーを置き、起き上がって様子を見てみる。
「……ハーマリー?」
まったく反応がない。顔は帽子のつばに隠れて分からない。しかも、逃げない。言いようのない不安がこみ上げ、恐る恐る帽子に手をかけて剥ぎ取る。抵抗はなかった。
「はぁっ、はぁっ……」
苦しそうに歪む表情。顔は赤く、汗が噴き出ていた。
気づいた瞬間、どう言葉をかけていいのか分からなくなる。ただ、その苦しげな表情から目を離せなかった。しかし、それも叶わなくなる。震える小さな手で自らの顔を覆い隠した。
「み、みないで……くださいっ」
「今はそんなことを言っている場合じゃ」
「私を……そんな目で見ないでっ、いやぁっ……お願い、やめてっ」
現実の区別がついていないのか。なんにせよ、このままではいけない。
肩と膝裏に手を通して持ち上げる。
「嫌っ、触らないでっ!!」
途端に暴れだす。逃げるように体を捻るが、とても弱弱しい。腕から振動で伝わる、他者への拒絶。嫌だと力なく首を振る姿が痛々しく、俺の心を抉っていく。
「すぐ着くからな」
全速力で駆け出した。落とす失態はしないように、弱弱しく暴れる体を大事に抱えて。
「やめてっ、離しっ……むぅっ」
肩に回した手をずらして、親指を口の中にねじ込んだ。
「喋るな、舌を噛む。今はこれで我慢してくれ」
クッソ、態勢きついな。
顔を上げると赤い屋根が見えてくるが、遠くに感じる。焦る気持ちを急かすように、抵抗する力は徐々に弱くなっていった。
◇
玄関を蹴破り、居候部屋の扉を蹴破り、寝台に一直線。
できるだけ優しく寝台の上に寝かせ、布団をかけて……はっと気づいた。いや、俺の寝台に寝かせてどうすんだよ!!
い、今から二階に上げるか!? それともソファーか!? だが動かすのは気が引ける。走っている時は冷静だったのに、いざ目の前にすると混乱するな。
「と、とにかく……服を脱ぐか?」
おいおいおい、そういうことじゃねぇだろ! ちくしょう、クッソ恥ずかしくてハゲる! いや、これ以上ハゲたら流石にやばいぞ!
あぁぁあっ、うぅううぅぅっ。
「……はい」
はいいぃぃぃぃっ!?
な、な、何を着る!? それとも、はっはっ裸っ!?
「あ、あのっ……」
「おぉおおっ」
どうしよう、着替えを手伝ってほしいって言われたら。本当にどうしよう。ちょっと待って、髪整えて心の準備するから。
「……後ろ、向いてもらってもいいですか?」
あ、はい。
いやいや、そうだよな~。こんなハゲたおっさんに着替えを手伝ってほしいなんて、普通はないない。そうだそうだ、ありえな……あれ? 後ろ向くだけでいいのか? 部屋とか出な――――
「もう、大丈夫です」
あ、はい。……え?
「……魔法付与したローブ、脱いだだけ、です」
「あ、そっか……ちゃんとした着替えを持ってくるか?」
「今は……このままで」
……さっきより落ち着いたようで、本当に良かった。しっかし、これからどうすりゃいいんだ? 何が原因で体調崩したのか分からん。
「ハーマリー、どうして体調を」
振り向きながら声をかけると、ガバッと布団を頭から被られた。……おい。
「ごめん、なさいっ……できればそのまま後ろを」
「……わーったよ」
そりゃ、まだ見られるのが苦手なのは分かるが。あー、体調が悪いから無理はさせれねぇし。
後ろ向きのソファーに深く座り、背もたれに頭を乗せる。不思議と部屋を出て行こうとは思わなかった。一人にはできない、自然とその考えが浮かぶ。
「どうして、突然倒れたりしたんだ?」
「……ローブに体を冷やす魔法付与したので、その……」
「あー……分かった。俺が悪かった」
そういうことか。俺がいつも追いかけ回して暑いから、そうやって冷やしていたのか。そりゃ、暑くなったり寒くなったりで体調崩すよなぁ。俺が原因だなんて、申し訳なくてハゲてしまうわ。はぁ~……
「……指、噛んじゃいました。大丈夫、ですか?」
指? あー、すまんな汚い指を突っ込んでしまった。指は……ちょっと血が出ただけか。
「こんなの舐めときゃ治るから、心配すんな」
「えっ……あの、舐める……ですか?」
「んっ?」
その時、俺はすでに自分の指を咥えていた。
うわあぁぁぁぁっ!!
違うんだ、そういう訳じゃないんだぁぁっ!!
……誤魔化そう、全力で誤魔化そう。幸い、ハーマリーは見ていない。
一人で密かに興奮してしまったことは、俺だけの秘密だ。