第3話
「ヤるっ……て?」
拓郎が絶句すると、それを受けてシゲルが言った。
「殺すのか?」
「バカっ!」
トシがシゲルの頭をはたいた。
ぶっとスパゲティを吐き出しそうになったシゲルだったが、もったいないと思ったのか慌ててごくりと飲み込む。
「そんなことやっちまったらこうだろーが」
トシは両手首をくっつけて見せた。
それを見たシゲルはペロリと舌を出した。
そんな彼にトシは一瞥くれてやってから、ニヤっとする。
「ヤるっていったらアレしかねーだろ」
「ああ…そっちのほーか」
シゲルはやっと意味がわかったらしくニヤニヤした。
フォークを皿の上でぐるぐると回す。その動きは妙に卑猥だった。
それからトシは拓郎に顔を向けた。
「なあ、タクよー。女には男ができたんだろ?」
トシの声に何とも言えない嫌らしさが含まれている。
男なんだが、妙に女性っぽいというそんな感じである。
「だったら、無理やり犯せばそりゃーもー傷ついちゃうぜー。けど、こっちは気持ちいいことができるってことで。一石二鳥ってこのことだぜ?」
「なるほど…そりゃあいいや」
拓郎はトシの言っていることがようやく飲み込めたらしく、目を輝かせた。
再びふんぞり返ると自慢げに言い始める。
「まだあいつの身体のこと忘れちゃいないもんなー。どんな声で喘ぐかってのもな」
それを下卑た笑いで聞く二人の男。
頭の中はよからぬ妄想で渦巻いているのだろう。
この男たちには、強姦罪が立派な犯罪であるということが分からないらしい。
しかも、拓郎ときたら相手の気持ちまでも想像する能力がないようだ。
「それに、どこを攻めればよがりやがるかも覚えてる……無理やりって言うけど、もしかしたら合意ってことにできるかも」
「ば~か」
それを聞いたトシがケケケと笑った。
「お前っててんでおめでたいヤツだなあ」
「何だよ」
拓郎は少なからずむっとした表情になった。
「新しい男ができたんだぜぇ? しかもお前と乳繰り合ってたのも何年も前のことだろーが。感じるポイントなんてもんはとっくの昔に変わってるに決まってるわ」
「…………」
真っ赤になって黙り込む拓郎。
それを追い討ちかけるように、
「タクちゃんタクちゃん、落ち込まないの~。フクシューするんでしょ?」
口を尖らせ、手をヒラヒラさせるトシ。
そして、相変わらずフォークを持ったままのシゲルはギャハハハと大声で笑う。
一種異様な空間が彼らの周りには出来上がっていた。
しかし、実は本当に三人の男の周りには不思議で得体の知れない影が忍び寄っていたのであった。
ミチは所在なさげに立っていた。
カウンターにだらしなく寄りかかっている。
(マスターったらどこまで行っちゃったんだろう)
足首が痒いのか片方の足をもう片方にこすりつけながら、ミチはブツブツ呟く。
この喫茶店のマスターは出かけていた。
たった一人のウエイトレスであるミチに「留守番頼む」と言って、切らした材料を買いに出かけてしまったのだ。
(どーせ、どっかで油売ってんだよ。ったく、あいつ、アタシのこと何だと思ってんだよ。アタシはただのウェイトレスだってーのにさ、注文きたらどーすんだよ、なんも作れないっつーの!)
彼女はとにかくむかついていた。
随分前から思っていたことだったが、もういい加減ここを辞めてしまおうかと。
客は全然入らないし、入っても店の奥でたむろするようなチンピラばっかりであるし。
しかも、毎回大金を落としてくれることもない。
金どころか、顔見知りの客はツケにしようとする不届き者もいたりする。
(やっぱ、辞めっかな…適当に仕事できていいなーって思ったけど、これじゃあいつ潰れるかわかんないし…つーか、先月のバイト代だってスズメの涙だったよなあ…はぁぁぁぁ)
ミチが溜息をついた、その時。
「ギャハハハハ!」
突然、店内に響き渡る笑い声。
ミチはびっくりして目を向けた。
ちょうど、シゲルが大笑いしたときだったのだ。
ミチは(何だよ、驚かすなよー)と思い、ギロリと三人の男たちを睨み付ける。
まったく、大した注文してないくせに何時間も居座ってとミチは心で悪態ついた。
もっとも、今何かを注文されても彼女には何も用意できないのであるが、そんなことは彼女にとっては関係ないことであり、自分本位のことしか考えていなかった。元々そういう女なのだから。
(あ、れ…?)
ふとミチは不思議なものを見つけた。
不思議というか、別に不思議でも何でもないのだが、その時に彼女が感じた正直な気持ちだったのだ。
こっちに向かって座っているのがシゲルとトシだった。そして、ミチに対して背中を向けているのが拓郎。
もちろん、三人の名前をミチが知っているわけではない。
ただ、三人はよくこの喫茶店に通っていたので、ミチは拓郎たちの顔は知らない顔ではなかったのだ。
彼らはいつも三人つるんでいて、それ以外の人を連れてきたことがなかった。
ところが、今ミチの目にはもう一人座席に座っている人物が見えていた。
「女?」
拓郎の横に一人の女性らしき人物が座っていたのだ。
顔はわからない。
ミチに背中を向けていたので、うつむき加減で座っているとしか見えなかった。
(ヘンだなあ)
確か彼らが来たときは三人だけだったはず。
いつの間に来たんだろう。
もしかしたらトイレに行ったときがあったから、その時だったのかもしれないなあとミチは思った。
(それにしても、暗そうな人)
男どもはみんな騒がしくしてるのに、その女だけはじーっとしているだけでピクリとも動かない。
ずっとうつむいたままだ。
ミチは何となく気味が悪いなあと思ったが、それでも注文は一応とらなくちゃと思った。
(も~マスターったら早く帰ってきてよ~)
そう思いつつ、彼女は三人、いや四人の座るテーブルに行こうとした。
すると、拓郎たちが立ち上がった。
どうやら喫茶店を出るらしい。
ミチは少しほっとした。
そして、彼女は彼らに金をもらうためレジに入ったのだった。
「千三百円になります」
ミチは言った。
金は拓郎がまとめて払った。
後ろにトシとシゲルが立っており、拓郎の横を一歩下がったところに女はいた。
ミチはチラっとそちらを見たが、やはりうつむいており長い髪の毛に隠れて顔は見えない。
(やな感じ~)
ミチは「ありがとうございました~」とにこやかにそう言ったが、心では悪態をついていた。
拓郎たちはまだ笑いあっている。
そして、そのまま店を出て行く。
女も拓郎にくっつくように店を出て行った。
「ほんと、変な女だったなあ」
彼らが出て行ってしまうと、ミチは拓郎たちのテーブルを片付けに行く。
スパゲティの皿や拓郎たちの飲んだ飲み物のコップを盆にのせ、テーブルを布巾でせっせと拭いていた。
と、その時。
───キキキキキキィィィィ!
ものすごい音が表でした。
その次に、ガシャァァァンというぶつかる音が。
「事故だ!」
ミチは持っていた盆をテーブルの上に乱暴に置くと、急いで表に飛び出していった。
喫茶店はかなり大きな道路沿いの場所にあるのだが、少し離れた場所の交差点のところで、歩道に乗り上げている大型トラックがあった。歩行者用の信号機にぶつかり、それは見事に折れてしまっている。
「うわぁ…誰か轢かれたのかなあ」
ミチがそう呟いていると、そのトラックの近くにマスターの姿を見つけた。
彼女は急いで走っていく。
そして、叫んだ。
「マスター、まさかマスターが事故に?」
しかし、そうではなかった。
マスターは横たわっている人物に声をかけているところだった。
「大丈夫か?」
「う……ううう……手、手が……」
ミチは驚いた。
それはさっき喫茶店を出たばかりの拓郎だったのだ。
彼女はさっと見回してみた。
すると、少し離れた場所にトシとシゲルも倒れており、そちらの二人はよく見なくても絶命しているのが分かった。
トシは明らかに首がヘンなふうに折れていたし、シゲルは頭から大量の血が噴出しているところだったから。
「ど…どうして、こんな……」
ミチはあまりのことに膝がガクガクと震え出した。
「おい! しっかりしろ! 今すぐに救急車が来るからな!」
「手…手…」
マスターが必死になって拓郎に声をかけている。
だが、拓郎は時折り口から血を大量に噴出したりしていて、とても危険な状態だった。
しきりに「手…手…」と繰り返している。
(手? 手がどうしたんだろう?)
その言葉が気になったミチだったが、突然思い出した。
彼女は?
一緒にいたあの女はどこにいる?
「マスター、もう一人女の人がいたと思うけど」
「女?」
マスターが不思議そうに言う。
「女なんていないぞ」
「え?」
「見てみりゃわかるだろう?」
ミチははじかれたように立ち上がると辺りをせわしく見回した。
いない。
どこにもあの女がいない。
どうしたのだ?
確かに彼らと一緒に出たはず。
それとも、喫茶店の前ですぐに別れて別の方向に行ったのか?
だが、出てすぐのことだった。
あれだけの音がすれば、何事かと思って引き返してくるはずだ。知り合いならなおの事。
それが、どこを見回してみても、あの時のあの女はいない。
「だって…だって、マスター。この人たちと一緒に出て行ったんだよ?」
「そんなはずはない」
マスターが厳しい顔をして言った。
「俺はちょうどこいつらが店から出てくるところを見ていたんだ。出てきたのはこの三人だけだった。女なんて出てこなかったぞ」
「そ、そんな……」
「彼らは俺とすれ違い、歩いていったんだ。で、ものすごい音がしたんで振り返ったら、こうなっていた」
マスターは事故の瞬間を見ていなかったのだ。
振り返ったら、このような惨事となっていた。
「そ、そんな……」
ミチは再び繰り返した。
そんな馬鹿な───確かに見た。あの女は確かに彼らと一緒にいたんだ。
(じゃあ、彼女はいったい……?)
「手……が…」
拓郎がうわごとのように呟いた。
ミチは慌てて跪き彼の口元に耳を寄せた。
「俺を…手が……」
だが、そこまで言って拓郎は事切れたのだった。
「死んだ…んですか?」
そう言ったのは真魚ではなく、あづさだった。
「そうだ。田川拓郎は死んだ。だから、真魚さんを脅かすことはないのです」
田中はそう言った。
真魚の病室に入ってきたのは田中だった。
そして、拓郎たちの事故のことを話したわけなのだが、それをじっと聞き入っていた真魚とあづさだった。
あづさはホッとした表情を見せた。
それから傍らの真魚に顔を向けた。
だが、真魚は真っ青な顔をして震えている。
「真魚、大丈夫?」
あづさが心配そうにそう言った。
「死んだ? 彼が? そんな……」
拓郎が死んでしまった。
そんなことって───
真魚は夢ではないかと思ってしまった。
まさかそんなことがあるわけはないと。
確かに、もう彼とは恋人でも何でもないし、ましてや自分に危害を加えるかもしれない存在だったのだが。
だが、それでも、かつては愛し合った仲だったのだ。
どんな関係になったとしても、たとえ全くの無関係に現在はなっていたとしても、あの頃は互いがなくてはならない存在で、世界中に二人だけが存在していればいいのだと、そんな思いまで抱いていたのだ。
今はどうあれ、間違いなくあの時、二人は愛し合っていたのだ。
互いが互いを必要として、まるで二人で一つの存在であるかのように。
あんなに愛し合っていたのだ。
そんな相手が死んでしまったとは。
(信じられない)
だが、信じないわけにはいかないだろう。
警察の人間が嘘をつくはずがないから。
「せっかくあづささんに田川の存在を教えていただいたのですがね」
「……え?」
田中の言葉に、真魚は怪訝そうな顔をした。
彼女はあづさに目を向けた。
すると、あづさは苦笑しながら舌を出して見せた。
「どういうこと?」
真魚は問い詰めるようにそう言った。
「真魚、ごめんね。黙ってて」
「だから、何を?」
少々いらいらした口調で問い詰める。
「私が話しましょう」
すかさず助け舟を出してきたのは田中であった。
真魚は彼の存在を少しの間忘れていた。
ああ、そうかといった表情で彼のほうに顔を向ける。
田中は話し始めた。
「あなたを襲った犯人は物取りでも行きずりでもないと踏んだ私たちは、怨恨ではないかと考えたのです」
「怨恨…」
「そこで、あなたに恨みを抱いている人物の特定をするために、あなたの交友関係を調べていたのですが、そのときにそちらのあづささんから田川の話を聞いたわけなんです」
真魚はあづさに目を向けた。
あづさは「へへへ」と笑うと頭をかいた。
「それで事情を聞くために、昨日は田川の自宅に向かったのですが、ちょうど事故の知らせが入ったところでして、我々も急いで病院に向かったのですが……」
田中はそこまで言うとそれ以上は何も言わなかった。
真魚の目から大粒の涙が溢れだしたからだ。
「真魚……」
あづさは目を見張って親友の顔を見つめた。
涙が出る。
どうしてだろう。
別にもう彼を愛してるというわけじゃないのに。
(違う)
真魚は思った。
これは彼を失ったから悲しくて泣いてるわけじゃない。
確かに自分は喪失感を今感じている。
でも、これは決して彼の命が失われたからじゃないということを自分は知っている。
(あ……)
瞬間、真魚の眼前に広がるデジャ・ヴュ。
目覚めたまま、いつも夢で見ている水の中の風景が見える。
懐かしいという思い。
誰かに抱き締められているという記憶。
誰かが寄り添っているという感覚。
でも次の瞬間、その温かい存在が引き離される。
まるで身体の半分を引き裂かれたような、そんな痛みを感じる。
待って。
お願い。
あたしを置いていかないで───
「真魚、真魚!」
「………あ……」
「大丈夫?」
真魚は自分の身体が揺さぶられているのに気がついた。
あづさが必死な表情で声をかけている。
「う、うん……大丈夫…」
ああ、そうか。
今、あの夢を見てた。
いつも見ている夢を。
でも───
(この喪失感は……だんだん大きく膨れ上がっている)
真魚は自分の手でぎゅっと胸のあたりの服を握った。
心臓が苦しい。
「真魚、ほんとに大丈夫? 医者呼ぼうか?」
「う、ううん、呼ばなくていい。大丈夫だから」
「そう? それならいいけど」
それを静かに見詰めていた田中は、真魚がようやく落ち着いたのを確認すると口を開いた。
「これ以上はお話するのは無理のようですね」
「いえ、構いません。続けてお話してください」
田中の気遣いに真魚は感謝しつつ、言った。
「あたしの事件に関することですから。ちゃんと聞いておきたいんです」
彼は頷くと続けた。
「田川とその友人二人は喫茶店アクアマリンにいつも入り浸っていたそうです。昨日も夕方からずっと午後9時までそこにいたそうです。それからそこを出て歩道を歩いていたのですが、交差点で信号待ちをしていたところ、大型トラックが通り過ぎようとしていた国道に三人とも飛び出しはねられてしまったのです」
「三人とも、ですか?」
あづさが驚いて言った。
田中はそれに頷くと続けた。
「そうです。三人とも同時に飛び出したそうです。これはトラックの運転手がそう証言しています」
「それってまるで自殺したみたいじゃないですか」
「…………」
あづさの言葉に真魚はますます気分が沈んできてしまった。
自殺?
そんなこと───
「でも、そんなことするような男じゃないよ、ヤツは」
あづさが言った。
それに心の中で頷く真魚。
そう、彼はそんなことをするような人じゃなかった。
付き合ってたときには、自殺するような人間の気持ちなんかわからないと言っていたから。
(そんなことする人間は愚かだとか、馬鹿だとか、そんなことも言ってた…)
あの時は、それは少し言いすぎじゃないかと思った真魚だった。
しかし、あれからずいぶんと時間も経った。
彼の心もあの頃より変わったかもしれない。
何か心に大きな痛手とかが出来て、そういうことをしてしまったのかもしれない。
しかし、あづさは強く言い切る。
「絶対、自殺なんてするようなヤツじゃない」
「そうですね。それは他の友人からの証言で嫌というほど聞かされましたよ」
「………」
田中の言葉に真魚は脱力感を抱いた。
では彼は変わることはなかったのか。
陽気で楽しい話題をたくさん知っていた彼は、自分より劣っている人間には辛辣だった。
だから、自殺する者を弱者として嫌悪していた。
真魚に対してあからさまに言うことはなかったから、彼女としてもそれほど重要視はしていなかったのだ。
人間、少しは駄目な部分だってある。
(あたしにだって嫌なとこがあると思うし)
恐らく、すんなりあのまま結婚できていたとしたら普通に暮らしていけたと思う。
もちろん、不幸になる可能性だってあると思うが、それが絶対というわけではない。
それなりに幸せに過ごせたかもしれないのだ。
彼のように強かな部分のある男は、何かに絶望するということもないので、逆に絶望を感じやすい真魚のような女にとってはいい相手だったかもしれない。
(でも、いくらそう思ったとしても、あたしたちは違う道を歩き始めてしまったんだよ)
彼女には既に新しい恋人がおり、誰よりも彼を愛しているのだ。
新しい道を歩き始めている真魚はもう昔の男のことなどを気にかけることもない。
時々、そういう人もいたなあと思い出し、切ない気持ちになることもあるだろうが、今の彼女にとっては克彦が全てであるから。
それを拓郎にもわかってほしかったと、そう真魚は思った。
(あたしのことなど忘れて、他の人と幸せになってほしかったのに)
死んでしまったらもう成長もない。
何かを伝えることもできない。
(けど、やっぱりあたしも彼が自殺しただなんて信じられないよ)
真魚がそう思ったとき、
「通りの向こうから目撃していた人もいましてね、その話を聞いてみてもおかしな感じだったらしいのですよ」
「おかしな感じ?」
「そうなんです」
田中はあづさに頷いてみせると続けた。
「かなり大きな声で笑い合いながら歩いていたそうですよ。あんな楽しそうにしていた彼らが自殺するために道路に飛び出すとは考えにくい」
なぜだろう。
真魚は田中の言葉を聞きながら、だんだんと心臓が締め付けられるような気持ちになってきた。
苦しい。
まるで水の中にいて息ができない感じだ。
服を掴んでいる彼女の手に力が入る。
「実は不思議な話があるのです」
田中が声をひそめた。
その声が、まるで別人のようだと真魚は思った。
「田川の仲間の二人は即死だったのですが、田川はしばらく息があったんです。それでまだ息のあった彼の傍に駆けつけたのが、アクアマリンのマスターだったんですね」
(即死じゃなかった……)
真魚は顔を歪めた。
では、彼は死ぬまでの少しの間苦しんだのだろう。
なんと痛々しい。
考えただけで辛い。
だが、彼女は知らない。
彼らが真魚に恐ろしいことをしようとしていたことなど。
拓郎に対して、そんな思いを抱くことすら無駄だということを彼女は知らないのだ。
「そのマスターが言っていたのですが、ウェイトレスが変なことを言っていたのだそうです」
「変なことですか?」
あづさが訝しげな顔をした。
「そうなんです。彼らの他に女がいたというのですね。ですが、彼らが喫茶店から出てくるのをマスターは外で見ていたのですが、女などいなかったと、田川たち三人しか出てこなかったと言っていたのですよ」
「それって…」
あづさの声が珍しく震えている。
真魚も真っ青になっている。
しかし、彼女は恐ろしい話を聞いたからだけでなく、そんな話をしたらあづさが怒り出すのではと心配もしていた。
それでも、さすがに相手が刑事となると、彼女もそうそう怒ってばかりもいられないらしく、あづさは震えているだけで何も言わずに黙っていた。
そんな彼女たちの気持ちを知るよしもなく、田中は話を続けた。
「そうですね。それだけ聞いただけでは、彼らは幽霊にでも取り殺されたと言えなくもない」
「…………」
あづさの目が大きく見開かれ、唇がぎゅっとつぐまれた。
「ですが、例えそれが本当だったとしても、我々としては幽霊が殺人を犯しましたで済ますわけにはいかないのです。犯人が生きた人間でない限り、事故か自殺かで処理されてしまうでしょう」
「あ…あの……」
ここにきて、やっと真魚は口を開いた。
小刻みに震えているあづさも不安そうな目を親友に向ける。
「刑事さんは信じるんですか…その、幽霊の仕業だと」
「もちろん、信じてませんよ」
田中はにっこりと笑って言った。
「信じる者もいるでしょうがね。私は自分で見たものしか信じないことにしているのですよ」
「そのウェイトレスさんに直接話を聞いたのですか」
「ええ、もちろん聞きました。聞きましたが、彼女も話していくうちに自信がなくなっていったようでした」
彼は肩をすくめてみせた。
その仕草は、幽霊話をまったく信じていないと雄弁に物語っていた。
もしかしたら、今の若者は何でもかんでも霊の仕業だと思っていると心で悪態をついているかもしれない。
真魚にはそう感じられた。
(でも、幽霊はいる)
彼女は確信していた。
ウェイトレスが見た女はあの人だ。
鏡から出てこようしてたあの女の人。
何か証拠があるわけではない。
だけど、どうしてかそう思えてしかたない。
(でもどうして?)
真魚は腑に落ちなかった。
あの女性が誰かは分からない。
どうして自分の前に現れるようになったのかも。
真魚が知る限りでは、あの髪の長い女性にはまったく覚えがないし、しかもまだちゃんと顔を見たわけではない。
だが、どうしてと思うこと自体馬鹿げたことなのかもしれない。
霊というものは何の関係のない人間に憑いてしまう場合もあるからだ。
どこで憑いてきてしまったのか分からないが、もしかしたら───
(あたしを襲ったのもあの女性の霊だったのかも……)
そう考えてぞっとした。
自分も拓郎のように死んでしまうはずだったのかもと思い、心から怖いと思った。
そして、あの女性の霊のことを話してしまいたいという誘惑に駆られた。
「あの……」
真魚は田中に話そうとして口を開きかけた。
しかし、そこで息を呑んだ。
(ひ……)
目を見開いて田中を見詰める。
なぜなら、彼の両肩から二本の腕がたらんと垂れ下がっていたからだ。
まるで誰かをおんぶしているような感じで、無防備に垂れ下がった細い腕。
その右手の薬指には例の指輪がはまっていた。




