第2話
ゆらゆら漂っている。
ああ、またあたしは夢を見ているんだ。
海の中を泳ぐ夢。
なんて気持ちがいいんだろう。
そう。
あたしは魚だもの。
魚には水が必要で。
水には───?
水も魚が必要だって思ってくれてるかな?
きっと思ってくれてるはずだよ。
だって寂しすぎるじゃん。
なーんにも存在しない海の中なんて。
そんなの寂しすぎる。
寂しすぎるよ、ね?
「……………」
真魚は目が覚めた。
病室の天井が暗がりの中見える。
幾何学模様をしばらくじっと見詰める。
また海の中を泳ぐ夢を見た。
どうしてあれからそんな夢を見るのかわからない。
名前に「魚」という文字が入っているので、自分が魚であると夢で思ってもいいし、魚にはもちろん海が必要だから、ああいう夢を見てもおかしくないのかもしれないけれど。
「それにしても……頭打ってから急に、だもの」
そう。
以前からそういう夢を見ていたというならば、彼女も別段不思議にも思わなかっただろう。
だが、暴漢に襲われ頭を打ってから、ほとんど毎晩のように見ているのだ。
そして、それだけでなく。
「何かが足りない───」
目覚めてから感じている喪失感。
何を自分は失ったというのか、それがわからなくて、とても不安を感じている。
いったい何を失ったというのか───それを考えようとすると、胸が苦しくなる、切ない気持ちでいっぱいになる。誰かに抱きしめてもらいたくなる。
と、その時───
「……………」
部屋の空気が変わった───と彼女には思えた。
何となくねっとりとした空気が辺りを覆い尽くしているようなそんな感じ。
まるでさっきの夢の続きのようだ。
海の中に沈んでいるようなそんな感触がしている。
暗闇に慣れた目で見つめる室内はいつもどおりだった。
窓際に置かれたベッド。
窓には薄いカーテンが引かれ、屋外では月が出ているのか月明かりがカーテンの隙間から差し込んできている。
向こう側にある入り口。ドアは閉じられている。
そのドアの横には洗面台があり、かけられた鏡は室内を映していた。
「ひっ…!」
真魚は小さな悲鳴を上げた。
彼女が見ていた鏡からほっそりとした手がにゅっと出てきたからだ。
恐怖で凍りつきそうになりながらその手を見つめる。
身体が動かない。
目を閉じようとしても目も閉じられない。
横になった格好のまま、真魚は鏡から出ている手を凝視するしかなかった。
声を上げようとした。
大声を上げれば、廊下にはあの若い刑事がいる。
声を出さなくちゃ───
だが、声も出ない。
焦る。
冷や汗も出てくる。
手はどんどん鏡から出てくる。
今、肘のところまで出てきている。
そのままいったら身体も出てくるのだろうか。
(こ、こわい…!)
見たくない、と思った。
なぜ自分がこんな目に遭うのか?
なぜこんな怖い目に?
もうイヤだ。
誰か助けてよ。
お母さん、お父さん、助けて。
克彦、助けてよ。
その時、ふっと辺りの空気からねっとりさがなくなった。
それと同時に手も消えた。
もう少しで肩が見えると思ったときだった。
「はぁ───」
真魚は身体を起こし、溜息をついた。
そして、恐る恐る鏡に目をやった。
もう手は見えない。
普通に室内を映していた。
(あれはいったい誰の手なんだろう?)
自信はないが、克彦の肩に乗っていた右手のようだったと思う。
だって指輪が薬指にはまっていた。
それはしっかり見た。
「訳わかんないよお…」
真魚は両手で顔を覆った。
彼女は疲れきっていた。精神的に。
「ねえねえ、真魚。あれがそうなの?」
「そうなのって?」
「廊下にいる人よ。刑事さんなんでしょ?」
「まったく、あれ、はないでしょ、あれは」
真魚はため息をついた。
鏡から手が出てきてから数日経ったのだが。
実はあれから毎晩のように変な事が起きていた。
鏡を覗くと後ろに誰かが立っていたり、夜中にトイレに行きたくなって歩いているとペタペタと裸足で誰かが歩いている気配がしたりと、とにかく気のせいでも何でもなく霊現象が起きていたのだ。
ただ、まだましなのは、はっきりとした姿を見ていないことか。
それでも毎晩のようにだから少々神経的にまいってきているところだった。
「ねえ、真魚。あんた顔色悪いよ」
「う……ん、夜寝れなくてね」
「そっか…大変だったもんね」
あづさには何も言えないなあと思った。
人一倍心配性だからだ。もしかしたら母親よりも心配しているかもしれない。
「じゃあ同窓会は無理か…」
「え? 何そんな話出てるの?」
「うん。幹事があたしなのよー」
二人は中学高校が同じだった。
だが、真魚は大学に進み、あづさは就職をした。
それでも二人は、お互い都合をつけてよく逢っていたのだ。
旅行も一緒に行くし、たまに合コンなんかもしたりしていた。
もっとも、今は真魚には彼氏が出来てしまい、合コンに一緒に行くことはなくなってしまったが。
しかし、真魚にとってはあづさは一番気の許せる親友なのだ。
だが───
(幽霊に悩まされている……なんて言えないよなあ)
あづさはそういう類が大嫌いで、少しでもそんな話をすると怒るのだ。
だから、彼女とはホラー映画など絶対に見に行けないのである。
「どした? 気分悪くなった?」
「ううん、大丈夫」
あづさが心配そうに顔を覗き込んできたので、真魚は弱々しく微笑だ。
そして聞く。
「それで同窓会はいつなの?」
「今度の日曜。居酒屋貸しきったんだ」
「そっか…明日退院だから、行けるかな」
「えー行くの? 大丈夫?」
「大丈夫だよ。もう頭もほとんど痛くないしね。お酒さえ飲まなかったらいいんじゃないかな。飲めないのはちょっと寂しいけど」
そう言って真魚は笑った。
その笑顔を見たあづさはほっと安心したようである。
「そうかー。それならいいんだけど。あ、そうそう」
あづさは意味ありげに苦笑すると言った。
「拓郎も来るんだった」
「…………」
「やっぱ気になる?」
「そりゃ……でも、ちゃんと話して別れたんだし」
「うーん……」
すると、あづさが妙な顔をした。
真魚は何となく嫌な気持ちがした。別に何か言われたわけじゃないのに。
「あのさあ。気をつけなよ」
「何よ、それ」
気をつけなってどういうこと?
拓郎が何かするってこと?
そんなこと───
だってちゃんと互いに納得して別れたんだよ?
彼に何があったというんだろう。
不安が増大していく。
「あいつと仲良かったやっさんっていたじゃん?」
「うん」
「幹事はあたしの他にも何人かいてね。その一人がやっさんなのよ。で、この間も同窓会の打ち合わせするのに会ったんだけど、拓郎のこと聞いたんだ」
「またなんでそんなこと……」
「うーん……怒らない?」
「何よ」
「約束してよー」
「わかった、わかった」
手を合わせるあづさに真魚は苦笑した。
彼女の気持ちはわからないではなかった。
恐らくあまりいい話じゃないんだろう。
というか、あづさは大体が真魚が拓郎と付き合っているのにいい顔をしてなかった。
しかも卒業と同時に結婚するなんて言った時には両親以上に反対したのだ。
それは今でも不思議に思っていたことだった。
拓郎は人当たりのいい性格で、彼を悪く言う人間はいなかった。
先生にもかわいがられ、下級生にも慕われ、女生徒にももてる男だったのだ。
それもあって、真魚の母親にも気に入られていたのだ。
だが、真魚が彼と付き合うと聞いたとき、あづさ一人は強く反対した。
真魚が相手にするような男じゃないよと当時言っていたが。
(だからって、あることないこと言ったらただじゃおかないよー、いくらあづさでも)
そう身構える真魚だった。
「あのね。あたし今回の事件で拓郎のこと真っ先に疑ったんだ」
「えー、あづさ、それひどいよ!」
「怒らないって言ったじゃん」
ぷーっと怒る真魚に、同じ表情で応戦するあづさ。
すると、彼女はふっとその表情を崩し、優しい声で続けた。
「あんたにだけは聞かせたくなかったんだけど」
「何よ」
「拓郎ってさ、すごくいい人間だってみんなに思われてたじゃん。でも、それは仮面だったんだ」
「仮面?」
「そう、仮面。先生の前ではいい子でいて、下級生にも優しくしてたけど、気に入らない人間を陰で苛めてたんだ」
(ああ、そうか……)
真魚は思った。
そういうことはあるかもしれない。
人なんて一つや二つは誰にも知られたくない顔を持っている。
たぶん拓郎は正直に生きていけない人間だったんだろう。
人々の期待を一身に背負って壊れかけていたのかもしれない。
それで、その鬱憤を誰かにぶつけていたというわけだ。
「そんな……たとえそうだったとしても、どうしてあたしが気をつけなくちゃならないの?」
「あんたと拓郎が別れたときもね、いろいろあったんだよ、あんたは知らなかったと思うけど。で、今回の事件が起きて気になって、それでやっさんに聞いたわけ。やっさんだけは拓郎も一目置いてたみたいだし。それに当時も拓郎のこと心配してたしね」
「…………」
あづさは座っている椅子をぐっとベッドに近づけてきた。
まるで内緒話をするみたいに。
だが声はそんなに低いわけではなかった。
「あんたと別れたときも、かなりあんたのことあることないこと吹聴して回ってたみたい」
「何よ、あることないことって」
「悪口とかもだけど……その…あんたとのさ、ほら、アレのこととか……」
「アレって?」
「も~さすがのあたしもちょっとね~」
「何もったいぶってんのよ、言ってよ」
あづさにしては珍しい。
思ったことは何でも言いそうなのに。
「恋人同士がすることって言えばわかるでしょ」
「…………」
「あんたとの行為をね、事細かく知り合いとかに吹聴して回ってたのよ」
真魚は絶句した。
信じられなかった。
まさか彼がそんなことまでするような男だったなんて。
最初、あづさに彼のこと言われても、誰でも少しはそういう嫌な面というものはあるだろうと思ったし、自分にだってそういうところも全くないとは言えない。
特に、彼と別れる少し前まではいろいろ言い合いになったこともあって、それ以前抱いていた彼への印象というものが多少ズレてきたことは否めなかった。
ただ、その頃の気持ちとしては、そんなにひどい感情は持たなかった。まあ、そういうこともあるだろうくらいにしか。
それが、そんなプライベートなことまで他人に言い触らすなんて。
「ごめん、あんたにはショックだったよね」
あづさは黙り込んでしまった真魚を気遣い、優しく言った。
そして、元気付けようとしてか、肩に手をやろうとまでしてくれた。
だが、真魚はそれをゆっくり押しのけ首を振る。
「ううん、いいの。でも、そうだね、あづさの言うとおりでちょっとショックだったかな」
「真魚…」
「ああ、でも心配しないで」
真魚は慌てて言った。
あづさがとても傷ついたような表情をしたから。
「ショックはショックだけど、言い触らしてたのは昔のことでしょ。別れたのもだいぶ前のことだし。あたしはもう気にしてないよ。だから、あづさが気に病むことないし。ありがとね、教えてくれて」
(違う)
初めてあづさに嘘をついた。
そんなこと聞きたくもなかった。
彼とは確かに円満とは言えない別れ方だったから、正直言えばそんな真実など聞きたくもなかったというのが本音である。
たとえ、それが本当のことだったとして───いや、彼女の言うことは確かなことなんだろうとは思うが───それが今の自分に何の関係があるのだ?
もう彼にはまったく未練だってないし、心で自分のことを何と思っていようが、そして、陰で自分に関することで何を言い触らしていようが、耳にさえ入ってこなければどうでもいいことなのだ。
それをわざわざ教えるなんて。
(わかっている。あたしのことをとても心配しているからだ)
わかってはいるが、小さな親切大きなお世話なのだ。
言っていいことと悪いことがあるのだ。
夢を見させてほしかったよ。
少々の諍いはあったものの、少なくとも彼と恋人同士だった頃は幸せだった。
彼も優しかったし、本当にいい人だと信じていられた。
だから、ずっとずっと彼との幸せだった想い出はそのままにしたかった。
それが幻想だったとしても。
確かに、彼の本質が見抜けなかった真魚は愚かだっただろう。
それに比べて、あづさは人間の本質を見抜ける才能の持ち主だったのだろう。
だが、真魚にはその才能は必要ないものだと思った。
(少なくともあたしにはそんな才能なんかほしくない)
けれど、知ってしまったものは仕方がない。
聞かなかったことにはできない。
しかし、聞かなければ同窓会で彼に逢ったとしても普通に逢えたはずなのにと思うと、残念な気持ちにならざるを得ない。
少々あづさを恨めしく思っても仕方ない。
すると、あづさがこう言った。
「真魚、本当はちょっとこんにゃろって思ってるでしょ」
「えっ?」
どきっとした。
どうして気持ちがわかったんだ?
「やっぱり。あんたの表情ってバレバレなんよ」
「むぅ」
「ほらほら、そんな顔しないの」
あづさは笑うと真魚の両頬をむにゅうとつまんだ。
「ひどぉい」
「ごめんな。いやなこと聞かしてしまって」
あづさは頬をつまんだまま神妙な顔つきで言った。
真魚は早く頬を解放してほしいと思いつつ、彼女の様子が気になる。
「あんたに話したのには理由があるんよ」
「理由?」
「そう」
やっとあづさは真魚の頬を解放した。
真魚は両頬をさすりながら親友の次の言葉を待った。
「あいつの中ではずーっと終わってなかったんだよ、あんたとのことが。それだけ執念深い男だったんだよ。そういうのって怖いじゃない。しかも、やっさんも言ってたけれど、ずっと付き合いが悪かったあいつが、今度の同窓会には積極的になってるって。思い過ごしならいいけど、あたしはいや~な予感がしたんだ」
「いやな予感?」
「うん。当たらなきゃそれでいいんだけどね。でもあたしはあんたの事件の犯人って絶対あいつに違いないって思ってるから、だから……」
「それは大丈夫だと思いますよ」
その時、病室に入ってきた人物がそう言った。
それより一日前のこと。
田川拓郎は最近付き合いのある男たちと喫茶店で会っていた。
「同窓会、あいつも来るかなあ」
アイスコーヒーの入ったコップからストローをはずし、テーブルの上に投げ出す。
ストローの先から茶色の水滴があたりに飛び散った。
彼はぐっとコーヒーを飲むと乱暴にテーブルに置いた。
そして、灰皿に置いていた煙草を取り、それを吸い込み煙を吐き出す。
プカプカとあたりを漂う白い煙をぼーっと眺める拓郎。
すると、拓郎の前に座っていた小柄で目が吊り上った男が口を開く。
「あいつって、お前がいっつも言ってる……ええと、まおって言ってたっけ?」
「そうそう、その真魚だよ。ったく、あんなにかわいがってたやったのにさ、俺のこと裏切ってさ。あー腹が立つ」
拓郎はさらに勢いよく煙を吐いた。
「だけどさ、もう何年も前のことだろ?」
吊り目の男の隣でスパゲティを食べていたもう一人の男が言った。
隣の男と対照的な風貌で、ひょろっとして気弱そうな風体であるのに目がぎょろっとしていて少々不気味ではある。
総じて二人とも見るからに怪しげで胡散臭い匂いのぷんぷんする男たちだ。
だが、拓郎はそんな二人とは明らかに風貌も違っており、見た目だけではごく普通の若者である。
ほとんどの人間が「いい人」と言いそうな雰囲気なので、誰かが気をつけてこの三人を見たとしたら怪訝な顔をするかもしれない。それとも、危ない二人組みが真面目な男をゆすっていると思うか。
しかし、拓郎の話し方や今までの所作を見れば、彼がどういう人間であるかはわかるはずである。
人間の本質なんて隠そうと思っても隠せるものではないのだから。
「シゲル、そう言うがな。俺の中ではますます憎しみが増してってるんだよ」
「タク……」
「あーそういや、あいつ、なんか男が出来たらしいんだよなー。ますますヤな感じ~」
拓郎はどっかと背もたれにふんぞり返った。
すると、それを見ていた吊り目の男がボソッと言った。
「タク、お前、どーすりゃ気がすむ?」
「へ? トシ、何言ってんの?」
「だからー、その女に復讐してやりゃいいじゃん」
「復讐…」
拓郎はトシのギラギラとした目を見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
そのトシの横で、二人の顔を交互に見ながらフォークを口に運ぶシゲル。
拓郎は思わずさっとあたりを見回した。
あまりはやっているとは言えない喫茶店だ。
今も三人のほか誰もいなかった。
少し離れた場所に太ったウェイトレスがボーッとして突っ立っている。
彼らの話を聞いているというふうには見えない。
その彼女の近くにはカウンターもあるが、さっきまでいたマスターもトイレにでも行ったのか今は姿が見えない。
それだけ見て取ると、拓郎はふんぞり返っていた身体を起こし、ぐっと身を乗り出した。
「復讐するって?」
「そうだよ、そうすりゃお前も気がすむだろ?」
「ううむ…そうだなあ…そりゃいいかも」
「だろ?」
トシはニカッと笑った。
「だけどどうやって復讐するんだ?」
「俺にいい考えがあるんだ」
「お前、頭いいからなあ」
「ばーか。こんなもん頭なんぞかんけーねーよ」
「でも、トシは俺より頭いいのは間違いないもん」
拓郎にそう言われて嬉しかったのか、明らかに得意そうな表情を見せるトシ。
それからトシは身を乗り出してきている拓郎に顔を寄せた。
相変わらずスパゲティを食べているシゲルも、もぐもぐと口を動かしながら耳を寄せる。
シゲルはひそひそと声をひそめて言った。
「女をさ、俺ら三人でヤッちゃえばいいんだよ」




