第1話
真魚は目覚めた。
───見つけた───
確かに聞こえた。
そして、今目覚めた瞬間にも聞こえた。「見つけた」と。
───見つけた───
(何だろう……この喪失感……)
目覚めた瞬間感じた。
何かが足りない。
何か心にポッカリと穴が開いたような、そんな心もとない気持ち。
涙が流れそうになる。
(何だろう……どうして……)
泣き出しそうになる。
すると、その瞬間。
「まおーーーー!」
誰かが叫んで彼女に覆い被さった。
「…………おかあ…さん……」
そう。
その人は彼女の母親だった。
彼女は目だけ動かしてあたりを見回した。
どうやら病院のようである。
しかも個室だ。
傍らには縋りつく母親の他、看護師、そして医師らしき白衣を着た男がいた。
まるでTVドラマみたいだと真魚は思った。
「お母さん、申し訳ないのですが真魚さんの様子を見させてもらいますので」
看護師は縋りついている母親をやさしく引き剥がした。
「すみません……」
母親は涙を流しながら頭を下げ、少し離れた場所に立った。
心配そうに娘を見つめている。
「あ、そのまま横になっててください」
真魚が起き上がろうとすると看護師が手で制した。
それから彼女は手際よく真魚の血圧をはかり、医師へと引き継ぐ。
医師は目を覗き込んだり頭を触ったりとしていたが、「後で脳の精密検査をしますので」と真魚の母親に説明していた。
(頭が痛い……)
医師が頭を触ったときにやっと気付いた事だが、頭がズキズキしていた。
まるで何かで殴られたようなそんな痛さ。
「吐き気はしないよね」
真魚のしかめ面に気付いた医師がそう言う。
彼女は声は出さずに頷いた。
(それにしても……)
真魚は思った。
いったい何があったんだろう。
どうしてあたしはこんなところに?
そして、どうしてあたしの頭は殴られたように痛いの?
あたしは今まで何してたっけ?
思い出せない。
確かあたしは仕事を終えて帰ろうとしてたはず。
電車を降りて、暗くなった道を歩いて───
(思い出せない……)
歩いていて、それから?
それから思い出せない。
それに、もうひとつ。
さっき目覚めるときに聞こえた声。
真魚はさっきの声をもう一度思い出そうとした。
だが、思いだせなかった。
言葉は覚えている。
しかし、声の主が男だったのか女だったのか、いまひとつ判別ができない。
(見つけたと言っていた。何を?)
その時、彼女は誰かの視線を感じた。
周りを見る。
医師も看護師も母親も、確かに自分を見ていた。
だが、何故だろう。
他にも誰かに見られているような気がした。
「お母さん……あたし、どうしたの?」
誰かの視線を感じながら、彼女は聞いた。
とにかく、このざわめく気持ちを鎮めたいと思い、記憶を喪失している間のことをはっきりさせなくてはと思ったのだ。
「…………」
「お母さん?」
母親は言い出しにくそうだった。
すると、それに答える人が。
「私が代わりにお教えしましょう」
「?」
いつのまにか誰か知らない男が病室に入ってきていた。
スーツを着込んだ少し年配の男。
「初めまして真魚さん。私は警察の者で田中と言います」
「…………」
「あなたは暴漢に襲われたんですよ」
「え…?」
「安心してください。何か深刻なことになったというわけではないです」
「…………」
「ただ、頭を強く打っているので少し記憶障害が起きているようです」
そう言うと田中と名乗る男は傍らの医師に同意を求めた。
医師は頷く。
それから田中は再び真魚に視線を向けると言った。
「今は身体を休めてください。そして、退院したら暴漢を捕まえるためにも捜査にご協力願います」
(暴漢に襲われた……?)
真魚はその夜、人ごとのような気持ちで田中の言葉を心で呟いた。
暗い病室で一人、天井をじっと見つめる。
真魚が入院したのは昨日のことだった。
事件が起きたのもその日のことで、会社帰りの出来事だったのだ。
彼女が倒れていたのを通りかかった人が見つけ、救急車を呼んだわけなのだが、誰かともみ合っているという目撃はなかった。
だが、後頭部を強打しており、誰かに石か何かで殴られたのは明白だった。
(…いたい……)
後頭部を強く打ってはいたが一日で目が覚めた彼女である。
検査の結果も悪くなかった。
だが、頭はまだズキズキしていた。
彼女はそっと起き上がった。
身体のほうには何も傷はないらしい。
ただ、頭が痛いだけだ。
ベッドからおりると、ゆっくり歩きドアに手をかけ開いた。
「あ……」
「どうしました?」
廊下に若い男がいた。
彼女は弱々しく言う。
「あの…トイレに……」
「ああ、そうですか。では行きましょうか」
「あ、あの……」
「はい?」
「一人で行けますから……」
「そうですか……では何かあったら遠慮なく大きな声を出してください」
「…………」
彼女は少し歩いた先でちょっと振り返った。
ほの暗い廊下に一人立つその男はこちらをじっと見つめている。
再びゆっくり歩き出す真魚。
彼は刑事だった。
田中の部下である。
「犯人はまだ捕まってません」
昼間、田中はそう言った。
心配しているという表情ではなかった。
それはそうだろう。
彼はただ仕事を遂行しようとしているだけなのだ。
「真魚さんはどうやら犯人の顔を覚えていないらしいのですが、相手はそうは思っていないかもしれない」
彼は淡々と続ける。
「とすれば、もしかしたら再び襲いに来るかもしれないので、真魚さんを御守りするためにも見張りを立てたいと思います」
「でも、行きずりの犯行で逃げてしまったのなら、襲った相手があたしだと特定できないんじゃないでしょうか?」
何だかあまりにも優遇されているような気がして、気が引けた真魚であった。
警察ってこんなに親切だっけ?
「いえいえ、もしかしたらあなたを日頃からずっと狙っている人間だったかもしれませんよ。慎重になっていいと思いますがね」
最近でもストーカー殺人などで警察は世間で叩かれていた。
まあ、だからといって自分が襲われたから、即そういう事件と同じようになるとも限らないのだが、警察側も慎重にならざるを得ないのだろう。
一応今回のように実際に襲われ、怪我を負ってしまったわけであるし。
本当にここで殺されてしまったら、度重なる不祥事で、さらに叩かれてしまうことは目に見えて明らかだ。
「警察も大変よね……」
真魚は昼間の田中の顔を思い出し、溜息をついた。
とその時。
「誰?」
真魚はあたりをきょろきょろ見回した。
だが誰もいない。
しかし、彼女は不安だった。
「おかしいな……確かに視線を感じたんだけど……」
彼女は腑に落ちない心持で再び歩き出した。
トイレは明るかった。
夜でもずっと明かりはついているからだ。
真魚は用を足すと洗面所で手を洗う。
あたりは静かで、彼女の流す水の音だけが聞こえている。
下を向き手を洗っていたら、またしてもふっと視線を感じた。
顔を上げる。
「!」
鏡に映っていたのは真魚本人だった。
何の不思議もない。
だが、彼女は驚きで「あっ」と小さく声を上げたのだ。
一瞬、自分の顔がブレて見えた。
彼女はショートカットだったのだが、鏡に映った自分の髪が一瞬長く見えた気がしたのだ。
「これ…あたしよね?」
真魚は顔を近づけ、しげしげと鏡の中の自分の顔を覗き込んだ。
快活な感じの短い髪に意志の強そうな唇。
いつもなら輝いている瞳は今は怯えたような色をたたえている。
顔色もあまりよくない。
(ひどい顔……)
真魚は頬を手で触った。
肌の調子もよくない。
彼女も女の子である。
人並みに容姿は気になる。
すると、ふっと口をついて出てきた言葉。
「克彦に逢いたいな」
さっきの若い刑事を見てから何となくそう思っていた。
克彦とは、彼女の付き合っている彼氏のことである。
「でも……」
逢いたい気持ちもある。
しかし、それとは逆に逢いたくないかもという気持ちも。
今のこのひどい状態は見せたくないと彼女は思ったのだ。
好きであればそう思ってしまうのも無理ないだろう。
しかも、二人はまだ付き合いだしてそんなに経っていない。
せいぜい三ヶ月くらいか。
「…………」
そこまで考えて、再びじっと鏡の自分を見つめた。
何だろう。
今ふっと感じた気持ち。
克彦への想いがかすんでしまうようなこの気持ち。
暴漢に襲われ、病院のベッドの上で目覚めてから感じている。
いや、そうじゃない。
目覚める前、あの不思議な夢を見ている時から感じていた。
この気持ちは───
喪失感───
(何だろう、何か……)
何かが足りない。
不安で不安でしかたない。
何かなくしたのだろうか?
だが、田中は何も取られたものはないと言っていた。
それなのに、どうしても拭い去れない、この不安。
そのとき、またしてもどこからか誰かに見られている感覚が。
はっとして振り返る。
「ひっ…!」
「どうかしましたか?」
あの若い刑事だった。
驚いた。
視線は彼だったのか?
「あまりに遅いので、何かあったのかと…」
彼はそう言った。
その時、すでに視線はなくなっていた。
「気のせいなんじゃない?」
「そうかなあ?」
「そうそう。ほら、頭打ったからさ。しばらく幻覚とか見えたりするかも?」
「そうなのお?」
「いや、わかんない。そう思っただけ」
「もぉ~」
トイレで変な出来事があった次の日。
真魚の病室を訪ねてきた男がいた。
少し長めのウェーブのかかった明るい茶色の髪。
薄い色のついたサングラスをかけた痩せた男だ。
背もわりと高く一八〇センチくらいはあるだろうか。
真魚が一六〇センチだから少し見上げるような格好になる。
とはいえ、今の彼女はベッドに座っており、男も傍にあるパイプ椅子に座っていたのだが。
「克彦さん、忙しいのにごめんね」
「かまわないよ」
「でも、今仕事大変なんでしょ?」
「バカだなあ。恋人が怪我したってーのに見舞いに来ない男はいないだろ?」
「克彦さん……」
克彦はサングラス越しににっこりと笑ってみせた。
彼とは会社を通じて知り合った。
真魚の勤める会社と取引のある会社の社員なのだが、彼が仕事でよく彼女の会社に訪れるところから知り合い、克彦の方が彼女を気に入り、彼女も何となく惹かれて付き合いだしたのがきっかけだった。
(そういえば、そんなに好きなタイプじゃなかったんだけどなあ)
真魚は克彦の顔を見ながらそう思った。
最初は軽そうな人だなあという印象で、彼女はあまり好感を持っていなかった。
ただ、彼のほうがかなり積極的で、映画に誘われたり遊園地に誘われたりと、半ば強引に連れ出されて付き合うようになったわけだが、いつのまにか「好きかも」と思い始めたのだ。
と、そのとき───
(え……?)
真魚は目を疑った。
目の前には克彦が座って自分に喋っていた。
今日の会社での出来事とか、そういうたわいないことを喋っている。
まだ日は沈んでなくて、窓からは日差しがカーテン越しに差し込んでいた。
晩夏の日差しは暑いはずだが、締め切った病室ではクーラーがきいており快適だ。
差し込む日差しもカーテンのおかげで和らいで、それほどジリジリとした暑さは感じられない。といっても、窓から少し離れた場所にベッドは設置してあったので自分たちのところまでは日差しは届かないのだが。
ベッドの右側に窓があり、克彦はそれと相対するような格好でベッドの左側に座っていた。
サングラスとはいえ、ごくごく薄い色なので、彼の瞳ははっきりと見える。
優しく真魚に笑いかけてくれている。
たわいないことを喋りながら、同僚が言ったおかしい言葉を自分で言いながら笑っている。
そんなごく普通な一場面に、明らかにありえないものが存在していた。
それは───
(な、なに……これは……人の手…?)
そう。
真魚が目を見張って見つめているのは、手だった。
誰の?
克彦の手ではない。
そして、もちろん自分のでもない。
だってそれは───克彦の肩にあったから。
まるで彼の後ろに人がいて、彼の肩をなでるように後ろから徐々に伸びてきているのだ。
「……………」
彼女は凍りついたようにその手を見つめた。
相変わらず克彦は喋り続けている。
どうやら、克彦には感じないし見えないらしい。
自分の右肩にそんな手がのっかていたら、普通は視野に入って気づくはずだから。
(これ…もしかして……幽霊……なのかな?)
麻痺してしまった心で思ったことがそれだった。
不思議と怖いという気持ちはなかった。
だが、気味が悪い。
しかもゆっくりとだが動いているのだ。
まるで克彦の肩を優しく愛撫するかのごとく。
それで気付いたことだが、その手は右手で、どうやら女の手のようだった。
薬指に細いリングをはめている。シルバーリングだ。
彼女はもっとよく見ようと、やっと動くようになった身体を動かした。
そのとたん、ふっと手は消えた。
「あっ…」
彼女は小さく声を上げる。
すると、それを不審に思った克彦が「どうした?」と心配そうに聞いてきた。
「う……うん……」
どうしよう。
さっきのこと話そうか。
でも、話したら変に思われないかな。
というか、だいたい克彦ってこういうこと信じてないんだよね。
真魚は考え込む。克彦の右肩をそっと見つめながら。
「克彦さん、何だって?」
「え?」
「何か言ってなかった?」
「何か…って、別に何も?」
「そう、それならいいんだけど」
変なお母さん、と真魚は思った。
あれから結局、克彦の肩にあった手のことは彼に話せなかった。
そうこうしてるうちに母親がやってきて、入れ違いで克彦は帰って行った。
明日は残業があるから来れないと一言言い残して。
それから、母は着替えなどを新しいのと入れ替えていたのだが、ふっと真魚に聞いてきたのだった。
「なんか気になるなあ、その言い方」
半分ふくれっ面になってそう言う真魚。
それを見て苦笑する母親。
そして、母は優しく言った。
「お前は気にしなくていいんだよ。ただ…ね」
「ただ?」
「真魚は克彦さんと結婚するつもりなの?」
「…………」
ああ、それか───と真魚は思った。
以前から結婚の話となると妙に神経質になる母だった。
いや、母親だけじゃない。
父親もそうだった。
真魚は高校生の時に付き合ってた男の子と高校卒業したら結婚すると騒いだことがあったのだ。
もちろん、両親は反対した。
まだ早すぎる、と。
けれど、あの頃は真魚の友達にもけっこうそういう子たちがいて、高卒で結婚するのも珍しいわけじゃなかった。
何より、自分は大学に進んで何かしたいという気持ちもなかったので、できれば好きな人と結婚して専業主婦になりたかった。
家事も好きだったし、子供も好きで、愛する人の子供なら何人でもほしいと思ったし。
子供たちに囲まれて過ごすのもいいなあと思っていた真魚である。
だが、結局は両親に説得されて結婚は断念した。
それが元で結婚を誓った彼とは破局してしまい、あれ以来逢ってはいない。
ただ、同じ高校のクラスメイトだったので、いつか同窓会とかがあれば出逢うこともあるだろう。
まだ自分たちの同窓会は開催されたことはなかったが。
「あれから真魚たちの仲壊れたでしょ」
「もういいってばそんなこと」
母はあれから時折り後悔の言葉を言ってくる。
やめてよ、と真魚は思う。
両親が悪いわけではない。
親ならみんな反対したと思うし、自分だって今では高卒ではちょっと早いかもと思っているのだ。
これも大学に進み、そして就職するようになったからそう思えるようになったのである。
確かに、あの時結婚してたとして、それはそれで幸せに生活していったかもしれないが、自分は結局結婚しなかったわけで、そんな過ぎてしまったことを気に病むことは無駄なこと。
それなら、今これからの幸せを考えようと思ったのだ。
「でもね、お母さんたちが反対しなければ、仲が悪くなることもなかっただろうに」
「だからね、前にも言ったじゃない。仲が悪くなったわけじゃないよって」
「でも……」
母が言いたいこともわかる。
父はどうだったか知らないが、母は彼のことを気に入っていた。
将来、結婚させてもいいとは思っていたと後に聞いた。
けれど、父がどうしても許してくれず、だから、結婚だけは今はまだしないでほしいと母は真魚に懇願したのだった。
せめて大学を出て、どこかに就職をして社会に出てからでも遅くはないだろうと。
それは父も言っていたことだった。
そういう両親の気持ちも、自分のことを思ってくれているということがわかりすぎるほどわかっていたので、彼らの言うとおりにしようと彼女も思ったのである。
だが、それを受け入れられなかったのが彼のほうだった。
すぐに結婚できないのは、自分を愛していないからだと決め付けてきた。自分はこんなに愛しているのに、と。
そうじゃない、そうじゃないのに───と、真魚は何度も何度も彼と話し合ったが、最終的には別れることにしたのだった。
最後には二人とも納得して別れた。
(あたしはそう信じてる…別れてよかったんだと)
だから───
「お母さん、気にしないでいいんだよ」
「真魚」
「克彦さんはきっと何があってもあたしを見捨てることはないと思う」
そう。
何だかそう思えてきた。
今回の事件。
考えようによっては、恐らく変な勘繰りをする下衆な人たちもいるだろう。
きっと母親はそれを心配したのだ。
一度、結婚のことで心に傷を負ったのは確かなことである。
その傷は、真魚はそれほど深いとは思っていないが、引き裂いてしまったと思っている親にしてみれば深かったのだろうと想像してしまうのはしかたがない。
だから、今回のことで、克彦が愛想をつかして投げてしまうのではないかと心配してくれたのだろう。
(でも…大丈夫だよ、彼は)
真魚は克彦の笑顔を思い出してそう思った。
大丈夫。
きっと大丈夫。
たとえ、これからどんなことが起きようとも、彼ならずっとあたしの傍にいてくれる。
あたしはそう思うよ。




