5.
アビゲイル女王との時間は夢のように過ぎていった。しかし、そんな暖かい時間を台無しにする事件がこの後すぐに起きた。今回、招待されていた他国の王女があまりにも美しいルルドールを我が物にしようと誘拐を企てたのである。
王女はアビゲイルの名を騙り、中庭にルルドールを呼び出した。何の疑いも持たず彼女を待っていたルルドールにそっと近づき、背後から薬を嗅がせて縛り上げ、麻袋に放り込んだ。そして、王女は具合が悪くなったと仮病を使い、早々に帰国の途についたのだった。
ルルドールが意識を戻したのは既に馬車に運び込まれた後だった。アビゲイルはすぐに異変に気付き、自ら馬をひき、王女の馬車を追った。イール国は武道に秀でた国でもあり、女王も剣の扱いに長けていた。そして彼女とわずか2人の従士で誘拐犯の王女の護衛6人をいとも簡単に制圧したのだった。
「ルルっ!怪我はないか?……なにもされなかったか?」
女王は麻袋からルルドールを出し、猿ぐつわと縄を外して尋ねた。
「アビーさま!!だ、大丈夫です。助けてくれてありがとうございます!」
「恐くなかったか?こんなに傷を作ってしまって……」
アビゲイルが縛られて赤く擦れてしまっている手首を優しく撫でた。そういう女王の右腕には斬られたのか、赤い薄い線が走っていた。
「あっ!!怪我をしているのはアビーさまの方ではありませんか!」
咄嗟にルルドールはその傷に唇を這わせてしまった。舌で傷をぺちゃぺちゃと舐めていると、アビゲイルの困惑した視線に気付き慌てて唇を離した。
「す、すみません!指を切った時などに兄達がいつもしてくれていたのでつい、同じ様にしてしまいました。ご無礼をお詫びします!」
耳まで真っ赤になりながら、ルルドールは女王に詫びた。それを見て彼女は笑って言った。
「ふふふ。そなたは本当に素直で可愛いな。お陰で血は止まったようだ。ありがとう、ルル。」
アビゲイルは触れるか触れないか位のかすめるような口づけをルルドールに贈った。生まれて初めてキスをした。突然の事だったが、それは想像以上に甘美だった。しかし、夢見心地だった気持ちは次の言葉で現実に戻された。
「また同じ事が起きても私がルルを守ってやる。」
アビゲイルの言葉にルルドールの心は固まった。彼の為に女王は剣を振るった。女である彼女がだ。本来ならば守られるべきである、女性に僕は助けられた。縛られてただじっとしている事しか出来なかった。いや、きっと縛られていなくても何も出来なかったに違いない。まだ10歳だった事は何の言い訳にもならない。不甲斐ない。情けなかった。
「あ、そうだ。私はまだルルに誕生日のプレゼントを贈ってなかったな。ルルは馬は好き?」
急に言われてルルドールは咄嗟に「はい」と応えてしまった。すると、3日後にとても美しい白い子馬が彼のもとに届けられた。しかし、それと入れ違いにアビゲイル女王が帰国する期限を迎えていた。本音をいえば、ずっと彼女の側にいたい。しかし、ルルドールはまだ10歳だ。何もできない彼ではあの美しく気高い女王とは釣り合うことはない。そう、やるべき事をやらなければ、彼女の側には行くことは出来ない。
別れの朝が来た。ルルドールは女王の部屋のドアを叩いた。アビゲイルに感謝としばしの別れを告げる為に。
「アビー様、素晴らしい馬をありがとうございます。僕、必ず乗りこなしてみせます。だから、また僕に逢っていただけますか?」
「必ずまた逢おう、ルル。それまで元気で。」
「今度お逢いする時までに剣も馬も……全ての事に精進いたします。守られるのではなくて、愛する者を守れる男に必ずなってみせます!!だから、だから絶対に僕との約束を忘れないで下さい!」
ルルドールは涙を必死に堪えてぎこちない笑顔を見せた。
「ふふ……。わかったよ、可愛いルル。楽しみにしてるよ」
そう言ってアビゲイルはルルドールに別れの口づけをした。前回よりも強めに触れる彼女の唇はどこまでも甘かった。
ルルドールは体調不良を理由に女王の見送りをしなかった。きっと彼女も分かってくれている。彼にはやらなきゃいけないことが山のようにある。成人するまであと6年しかない。この6年で全てをやり遂げなければならない。ルルドールはそれからしばらく図書室に閉じ籠った。