101.
よろしくお願いいたします
ナターシャは旅の用意をしていた。彼女は6年ぶりにこの場所を離れ、他国に赴く。まさかたった一日で自分の生活が一転するとは、人生とは本当に解らないものだと彼女は思った。それもたったひとりの男によって……
輝く瞳の奥底には対照的なほの暗い光を宿していた。美しい金髪の下には燃え立つような赤毛が隠されており、それはまるで彼の隠された気性を表しているよう思えた。人当たりの良い優しそうな笑顔を周りに振りまいて、彼はごく自然にこの離宮に入り浸っていた。
「ふふふ。輝く金髪より見慣れている赤毛が美しく思うなんて、私も大概物好きだわ。」
「誰が物好きなんだい?」
彼女の背後で今では聞き慣れた、心地よいバリトンが響く。ナターシャはぱっと振り返り、満面の笑みで声の主を出迎えた。
「あっ、ジェイル様。おかえりなさいませ!」
「…うん、ただいま。」
なぜかジェイルは嬉しそうにニコニコしている。
「君が私を待っていてくれていたんだと思うと凄く嬉しくて。」
ジェイルに後ろから覆い被さるように抱きしめられ、ナターシャはどぎまぎとしてしまう。異性と隔絶して過ごしてきた、うぶな彼女にはまだまだ慣れなくてはならないことが目白押しだった。
「用意は出来たかい?」
不埒な王子が「ちゅう」と首筋に口づけて耳元で囁くと、皇女からは吐息が漏れる。今まで纏っていた鎧を脱ぎ捨てて、ありのままの容姿に戻したら、なんだか性格まで変わったようだ。素直になったジェイルは情熱的に彼女を求めた。あのクールで皮肉屋の彼はもはやどこにもいなかった。
「ジェイル様、だ、駄目です。」
「ふふ。なんで?大丈夫だよ。これ以上の事はしないから……今のところはね。」
ジェイルは止めるどころか、彼女の細い首筋を一際強く吸い上げた。
「あっ」
男の唇が這っている首筋に、チリッとした小さな痛みがもたらされた。
「ああ、ごめんよ。つい首筋に痕を付けてしまった。」
「も、もう!これでは誰かに見られてしまうわ。」
ナターシャは彼に吸われた辺りを手でおさえ、顔を赤らめて抗議した。するとジェイルは彼女の髪留めをおもむろに外した。パサリと結い上げていた豊かな赤毛が滝のようになだれ落ちてくる。
「君の赤毛は下ろした方がよく映える。……ああ、なんて綺麗なんだ!」
ジェイルはその一房を手に取ると愛しげに口づけを贈った。
「暫くは髪を下ろしているといい。そうだ。その髪型に似合う髪飾りを買いに行こう。」
「え?で、でもこれからイール国に急いで向かうのでは!?」
「少しくらい大丈夫だよ。きっとソルシアン達が上手くやってくれるさ。何よりもアムダルグの皇帝が一緒なんだし、これだけの役者が揃っていて彼らに言い負かされるのだとしたら、アムダルグ帝国も大したことないという事さ。さあ、行こう。僕らの初デートに。」
呑気な事を言いながらジェイルは彼女の手を引いた。デート……なんて胸ときめく響き。その誘惑に抗えるほど恋愛慣れなどしていない彼女は、まんまとこの赤毛の美しい青年に連れ去られて行ったのだった……
「遅い。遅すぎる!あいつは何をしているんだ!?」
同じ台詞をつい最近口にした事がある気がしながらソルシアンは悪態をついた。父であるアムド2世から結婚の許しを得た二人は急いでイール国に戻った。しかもアムド2世も一緒に……
「父上、何故貴方までイール国に?」
「んん?仕方あるまい。ジェイルとの約束があるのでな。あやつの実の両親の犯した罪は身内でもある私が代わって謝罪せねばなるまい。ああっ!あの忌々しいリカルドになど頭を下げたくはないが、事実上ラドハルトの第二王子を婿に貰い受けなくてはならぬし、正に八方塞がりの状態ぞ。ううっ、胃が痛くなって来たわ!」
ジェイルが重大な秘密を皆に暴露した後、すぐに全員でイール国を目指すことになった。だが、あれほど急かしていた張本人はなんと
「デートをしながらふたりでイール国まで移動するから先に行って我が父、ラドハルト国王に話をつけておいてください。」
との文を早馬で皇帝とソルシアンに知らせてきたのである。もはや計画的犯行としか思えない所業に、ふたりは「やられた!」と心の中で叫んだ。そう彼は宿屋を出る時にそっとソルシアンに耳打ちをしたのだった。
「……まさかとは思うけど、分かっているよねソルシアン。君たちがすんなり結婚出来るのは私が皇帝に口添えしたからだって事を。君には大きな貸しが出来たね。ふふふ。」
どこまでも腹黒いジェイルはアムド2世だけでなく、ソルシアンまで自分の手駒としてこき使う気なのだ。
「だからラドハルトの奴らは嫌いなんだ!!底意地が悪すぎる!!やっぱ、あいつが生粋のアムダルグ人だとは信じれなくなってきた!!」
「同感だ!皆、あの容姿に騙されておるのだ。あやつらの方が根っからの悪人だというに、悪者にされるのはいつもアムダルグぞ。おかしい。おかしすぎる!!」
父子とも今さら後には退けないことは百も承知だが、ボヤかずにはいられない心境だった。しかしふたりがそうこうしている内にもイール国にはすんなり到着し、城の門もすんなりと開かれたのだった。
開かれた扉の奥には、先に知らせを受けていたルルドールが待ち構えていた。
「ソルシアン、アニス、おかえりー!!」
満面の笑みで能天気な妖精王子は皆を迎えたのだった。