2 お嬢様と鎧の外出
穏やかな日が窓から差し込み、グラスに入った水がゆらゆらと光を散らしている。テーブルには途中のページで開かれた本が数冊置かれていた。
パラリと静かにページをめくり真剣な表情で文字をたどるアリシアは、手元の本に視線を注ぎながらグラスに手をのばす――が。
「あっ……」
空を切った手にかすり、グラスはカタンと音を立てて本に倒れた。
「あぁ……! 大事なページが全部駄目になってるわ」
水が掛かりインクが滲んだ本を、確認し終わったアリシアは涙目で結果を見つめる。
下のページは読めるところが残っていたが、水のかかった一番上のページは、インクが流れて何が書かれていたか判別できない。
救いは、数冊置いていた本の中で駄目になったのは一冊だけしかなかった事だろうか。しかし、一番大事な本がそれだったので幸か不幸かで言えば間違いないく不幸である。
「バルトに本を読むときは、飲み物を別の場所に置くようにって注意されていたのに……」
いまさら思い出しても仕方ない、悔やんでも本は帰ってはこないのだから。
そっと濡れた本を持ち上げ、日あたりのいい窓際のテーブルへ移動させた。今日は暖かいので一日か二日で乾くだろう。
「まだこの本を置いてあるところあるかしら」
アリシアが読んでいたのは魔術式が書かれた本だった。魔術を使うために読んでいたわけではない、魔術式を作る参考にするために見ていた本だ。
アリシアは魔術を使えないが、意外にも魔術式を新しく作るのは得意でその関係の本をよく読む。
故に、水や紅茶を零して本を駄目にする事もよくあることだった。
「明日、本を買いにいくわよ」
庭の掃除から戻り、いきなりそれを聞かされたバルトは窓際のふやけた本を見て全てを察し『了解』と頷いた。
久しぶりにきた町は賑やかでも静かでもなく、のどかな雰囲気をアリシアに感じさせる。
「本があればいいのだけど」
ガシャンガチャンと歩くたび鎧を鳴らすバルトと、目当ての本が見つかるかとそわそわするアリシアは、並んで本屋への道を進む。
全身鎧のバルトは穏やかな町の空気の中でかなり浮いていたが、町の人達もバルトも気にしている様子はない。
いつも買い物に出かけるのはバルト一人なので、皆怪しげな鎧に慣れていた。
ただ、慣れていると言ってもバルトの見た目は、屋敷に二人きりで住んでいるアリシアから見ても禍々しいものなので、目の前に行くと怖がられることもあるようだ。
全身黒い上に大きいので、その気持ちはアリシアにもわからなくはない。夜中に会うと一瞬心臓が止まりかける。
「あ、着いたわ。少し待っててねバルト、なるべく早めに終わらせるから」
バルトは頷くと本屋の入口付近に立ち、姿勢を正した。微動だにしないせいで置物にしか見えない。
どうやらこれがバルトが学んだ一番目立たない待ち方らしい。アリシアはそれを横目で見ながら本屋へ入った。
人が通るのに窮屈な間隔で本棚が置かれ、床にも本を積み上げてある狭い店内を慎重に進む。
バルトを外に待たせたのは、大きく小回りの利かない鎧ではこの場所に絶対に入れないからだ。買い物をバルトに任せているアリシアでも本だけは自分で買いに行かなくてはならない。
「いらっしゃい……おや? アリシアさんか。ははは、また本を駄目にしたのかな?」
朗らかに笑いながら挨拶をするのは小さい眼鏡が印象的な老齢の男性、この本屋の店主だ。
アリシアは気まずそうに目を逸らした。
「……ええ、そうなの」
「やっぱり。アリシアさんが来る時は、ほとんどそうだからねぇ」
自分は会えて嬉しいけど気をつけようね、と続けてやんわりたしなめられる。
「ありがとう。きっと今度は違う理由で訪ねてみせるわ!」
多分。自分の事をよく理解しているアリシアは心の中で付け足した。
努力はしようと決意をしながら、店主と本の話で盛り上がる。
二人で仲良く笑いあい、今回の用事を忘れそうになったアリシアは慌てて探している本を伝えた。
「その本か、大丈夫まだある。この辺りで魔術式の研究書を買う人はアリシアさんくらいだよ」
「よかった! まだ読んでる途中だったのよ」
《古代魔術式と現代魔術式の違いから効率化を読み解く》そのままな題名で作者不明の比較的新しい本だ。魔術式を作るアリシアにとってとても興味深い内容なので見つかって頬がゆるむ。
最終的に魔術式の研究書とついでに新作の小説を何冊か購入した。
「じゃあ、また来るわ」
「毎度ありがとう、またおいで」
店主に挨拶をしながら晴れやかな気分で狭い本棚を抜けるが、想定していたよりも時間がたってしまっていた。
アリシアは帰ったら鎧を拭いてあげようと、考えながら出入り口に声をかける。
「バルト、お待たせ……?」
謝ろうと向けた視線の先に、その鎧の姿はなかった。
「え、バルト? ど、どこ……?」
居ると思っていた場所にバルトが居なかったという事に、アリシアは動揺し声が震える。先程まで浮かんでいた気分が不安で急速に沈んでいった。
きょろきょろと回りを見渡すが見慣れた鎧は視界に入らない。
「バルト! バルトーー!!」
普段では考えられないほど大きな声でバルトを呼ぶ……反応は無かった。
この本屋は町中から少し外れた場所にあるので、周りの人に話を聞こうにも人が一人もいない。
唯一、本屋の店主が何かあったのかと窓から様子を聞いてくる。
「バ、バルトがいないの、ここにいた黒い鎧の――」
泣き出しそうな顔で説明すると、店主はアリシアの後ろを見て穏やかに微笑み、安心しなさいお迎えが来たよと指をさした。
カシャン、と聞き慣れた音が鳴る。
音が聞こえた方に急いで振り向いてふらついた。黒い鎧が慌てて支えようとしたが、アリシアはその勢いのまま鎧に抱きつく。
頭をそこそこ強く打ったが気にならなかった。
「バルト……!」
抱きつかれたバルトは、オロオロとしながら壊れ物に触るようにアリシアの頭に手を置いて、落ち着かせるようにゆっくり撫でた。
「どこに行ってたのよ! 待っててって言ったのに……! その、時間が長くかかったのは私が悪いわ、でも……」
心臓に悪すぎるわとアリシアは静かに涙を流した。
鎧の手が目元に触れ、拭うような仕草をするがどんどん溢れてくる涙に鎧を濡らすだけだった。バルトは『離れてごめん』と伝えるようにぎこちなくアリシアを抱きしめた。
「で、何をしていたの?」
落ち着いた様子のアリシアが改めて聞くと、ギシリと鎧が強ばらせたような音を鳴らした。
アリシアはじっとバルトを見つめる。
その視線の強さに負け、目を逸らしながらバルトが差し出したのは――――大量のリンゴだった。
「……貴方、最近私がアップルパイで何でも誤魔化されると思ってない? ……ええ、そう。思ってないならいいのだけど」
帰ったら早速アップルパイがおやつに出され、やっぱりバルトはそう考えているに違いない、とアリシアは思いながらフォークをさした。