比嘉司の場合
彼には、名探偵を知らない時代があった――。
「比嘉、このあとちょっと時間あるか? 飲み会行くんだが」
そう言って、村雲課長に肩を叩かれたのはそろそろ終業時間になろうかという午後四時五十分のことだった。警視庁は一応定時があって(残業がある日の方が多いけど)、今日は珍しく定時で上がれそうな日だった。
「ありますけど……」
言いよどんだのは、僕自身があまりお酒というものに強くないからだ。いや、はっきり言おう……僕はお酒が飲めない。
「ああ、大丈夫だ大丈夫だ。今回はお前に酒は一滴たりとも飲まさん。俺たちも失敗から学ばないほど馬鹿じゃないからな……」
そういう課長の顔が若干青ざめている。見ると、課長の後ろで同僚たちもなぜか皆一様にうんうんと首を縦に振っていた。前回この面子で飲みに行ったときは……僕はほとんど酔いつぶれていて記憶がない。僕が知らない間に何かあったのだろうか。
まあとりあえず、事情は分かったとしたものだけれど……。
「飲まない人間が飲み会に行って何の得があるってんですか」
いやない(反語)。
しかし課長は平然と、
「ある。お前が来ると女性陣からの受けがいい」
とおっしゃりやがった。即答かよ。
「せめてもうちょいオブラートに包んだ言い方ができませんか……」
一応言ってみたものの、そういえば課長はそんな繊細さとは無縁の人間だということを今更のように思い出した。
村雲春馬。
『ハルマゲドン』『鬼殺し』などの由来も聞きたくないあだ名を持つ、うちの課の課長だ。細かいことに頓着しなさすぎる性格で、毎回無茶をやらかしている。
「まあまあ比嘉くん、うちの課の男はほとんど全員むさくるしいおっさんばかりだからね。一人は線の細いのがいないと女性陣の集まりが悪いんだよ」
後ろからの声の主は、樫木正夫さん。四十代とのことだがとてもそうは見えない整った顔立ちに、落ち着いた物腰。いつも課長の無茶を実現可能な範囲にリサイズしてくれる、ぶっちゃけうちの班では課長よりも重宝すべき存在だ。
「……つーか樫木さんが行けばいいじゃないですか、人気あるでしょう」
樫木さんが一人いれば僕三十人分くらいにはなるだろう。しかし、
「ああ俺、この後予定入っててさ。今日は行けないんだよ」
とのこと。なんですと。
「つーわけで、比嘉。お前に拒否権はない」
そのような次第で僕はなぜか飲み会に参加する羽目になってしまった。ああ、肩に置かれた課長の手が重い……。
「……かちょー」
「何だ」
「質問していいですか」
「許可する」
「僕ら飲みに出たんじゃなかったんですか」
「そうだなぁ」
「僕には目の前の個室はカラオケボックスのように見えるのですが」
「そうだなぁ……」
そうだなぁじゃねえ。
本庁を出て歩くこと十数分。僕らの目の前にあるのは正真正銘のカラオケボックスだった。紛うことなきカラオケボックス。これをカラオケボックス以外に何と表現すればよいのか。
「……なんでこうなったんですか」
「いやな、さっきいつもの飲み屋に電話して席取っといてもらおうと思ったらな、なんか店の裏から火事が出たとか」
「はあ……」
さっきから何か携帯つついてばかりだと思ったらそういうことか。
「まあなっちまったもんはしょうがないだろう。いま米森に人数分缶ビールを買わせに行った」
米森伸二さんは僕より二つ上の三十歳で、いつも課長の無茶の巻き添えを食う。しかし毎回破格の規模を誇る課長の無茶に付き合いきれるということはかなり有能だということで、つまりは器用貧乏な人である。ちなみにお酒はザルでいくらでも飲めるが、煙草は一切駄目。
ここでとりあえず、今回のメンバー紹介でもしておこうか。
僕、村雲課長、米森さんに加えて今回いるのは、根津実さん、今野穂波さんに新澤沙羅さん。
根津実さんは三十代前半で、大きな度の強そうな眼鏡をかけている。体格はこの人本当に試験受かったんだろうかというくらいの針金細工のごとき細さで、絶対に現場には出せない。そのせいでというわけでもないだろうが彼はパソコンが得意で、うちの課の情報担当として活躍してくれている。もっぱら課の中では『ネズミさん』と呼ばれている。
今野穂波さんは一言でいうなら、武闘派女子。本人曰く、『あたしの身体で骨と筋肉以外でできてるとこはない!』とのこと。ちなみにその時ボソッと『それを脳筋と言うのでは……?』と呟いた米森さんが部屋の端から端まで蹴り飛ばされていた。一言多いのも米森さんの特徴だ。
対照的に新澤沙羅さんは小動物みたいな可愛い人。去年入ったばかりで、なぜ警察に来たんですかと質問すると、笑ってはぐらかされたから掴みどころのない人でもあるが。
などと考えていたら、今野さんに後ろから頭をぱかーんとはたかれた。とは言うものの今野さん基準の『はたく』は一般人基準の『ぶん殴る』である。間違えないように。
カラオケボックスに入り、三十分ほど経って、今野さんがアニメの主題歌っぽい歌を歌い始めたころ、手に缶ビールのたくさん入った袋を提げて米森さんが帰ってきた。
「課長、これレシートです。230円×7で1610円ですので」
「おう」
ちなみに今回の費用は全部課長持ちである。こういうところはいい人だ。
待ちきれなかったのか今野さんがマイクを放り出して米森さん(の提げているビール)に飛びかかる。尻餅をつく米森さん。すかさず缶ビールを袋ごと奪い取り、テーブルの上に置く今野さん。起き上がって反撃に転じる米森さん。
目の前で繰り広げられるいつもの光景を、何とはなしに見ていた僕だった。
それからさらに一時間ほどが経過し。課長がマイクを握って離さず全員で奪い返そうとする騒ぎがひと段落し(ちなみに最終的に勝利したのは新澤さんだった。なぜだ……)、皆がテーブルの前に戻ってきた時。米森さんの放った一言が、その場を凍りつかせた。
「あれ、俺のビールどれだっけ」
その言葉で全員の酔いが一気に冷めた。つまり。
全員自分の缶がどれだったかを覚えていなかったのである。
「ま、いいじゃねえかどれでも」
沈黙を最初に破ったのは課長だった。つまり、一番手近なところにある缶を引き寄せようとしたのである。しかし、今野さんがその手をぴしゃりと叩く。
「駄目です課長。全員が同じ量だけ飲めるようにしないと。どうせ課長のことだからこの際もっと飲んでやれとか思ってたんでしょう」
今野さんもお酒が好きだ。彼女自身ももっと飲みたいようだが、それよりも自分のものかもしれない酒を課長に奪われることが我慢ならなかったらしい。
「どうします……?」
根津さんが恐る恐る聞く。その質問に答えたのは、
「じゃあ、ちょっと推理してみませんか」
新澤さんだった。
「まず、この缶は根津さんのですよね。違いますか?」
最初に新澤さんが指したのは、隅っこの方で他の缶とは離れて置かれている缶だった。しかしそれくらいは僕でもわかる。
「プルタブがついてないから、ですね」
「そういうことです。根津さん、缶の飲み物を買ったときは必ずプルタブを外すでしょう?」
一瞬遅れて、うんうんとうなずく根津さん。これで一つ排除され、残りは五つ。
「ほかに、缶自体に特徴がある方はいなさそうですから……」
さっさと切り上げ、次に行こうとする新澤さん。しかしそれを、
「ああ、待て待て。その真ん中の奴は俺のだ」
とぶった切ったは、課長。
「これですか?」
と、テーブルの真ん中あたりの缶を持ち上げる新澤さん。課長は「おう」と言って、
「缶が微妙にひしゃげとるからな」
と言った。
……。
課長の握力の強さは課の中でも有名だ。
「ほらやっぱり。この缶課長のじゃなかったじゃないですか」
との今野さんの抗議もどこ吹く風、早々に自分の物と確定した缶を煽る課長。こんな人間の相手をするのは無駄と思ったかどうかは知らないが(たぶんそうは思わなかっただろう)、
「では残り四つですね。ちょっと比嘉さん、持ってビールの残り量を確かめていただけませんか」
とご指名。当然断るはずもなく四つの缶を順番に持ち上げ、重さで大体の量の見当をつける。
「えーっと、この二つがそれなりに残っていて、向こうの二つは空ですね」
報告完了。
「――では、自分の缶にはまだビールが残っていたという方は手を挙げてください」
しかし、ここで予想外のことが起こった。何と、僕、今野さん、そして米森さんの三人が手を挙げてしまったのだ。
つまりこれは……どういうことだろう?
「えっと、嘘はつかないでくださいね。いま認めれば大丈夫ですが、時間が長引くと後で殴ります。――穂波さんが」
そりゃそうだ。酒の恨み許すまじな人だもの。でも今野さんが嘘ついてた場合はどうするんだろう?
「穂波さんが嘘をついていた場合は、今度の連休に私のショッピングに付き合っていただきます」
青ざめる今野さん。この人は筋肉と骨でできている云々の発言からも分かる通り、基本的に女の子女の子した空間が苦手である。何よりの罰ゲームだろう。
しかし、それでも誰も名乗り出る気配がない。全員にとってばれた時のリスクが高いため、嘘ではないだろう。新澤さんもそれは分かったらしく、
「うーん、困りましたねぇ……」
と小首を傾げる。さまになることこの上ない。
しかし今はこの状況の解明が先だ。さて、どういうことなのか――何か他に手がかりがないか、今日ビールが運ばれてきてからのことを順番に思い返す。
……うん?
ああ、そういうことか……。
「米森さん、あなたはビールをもう一本持っていますね?」
この場にいるメンバーは六人なのに、米森さんは『230円×7』――七本のビールを買ってきていた。他のメンバーは誰も気付いていなかったので、必然的にその七本目を持っているのは米森さんということになる。
恐らく『自分の缶にはビールが残っていたか』という質問で米森さんは反射的に七本目のことを考えて手を挙げてしまったのだろう。その後今野さんが殴る云々の話が出て言うに言えなくなり、このまま押しきれば誰かの勘違いということで話が済むとでも思ったのではなかろうか。
そのことを説明すると米森さんの顔は真っ青になり、今野さんの顔は真っ赤になった。今野さんを見てホールドアップするブルー米森さん。
「まあねえ」レッド今野さんが言う。「別にあんた嘘をついてたわけじゃないから許してあげる」
ホッとして両手を下ろすブルー米森さん。
「――でも、あたしらより多くビールを飲もうとしたことは許さん!」
グワッと牙をむき、飛びかかるレッド今野さん。逃げ回るブルー米森さん。缶ビールを入れていた袋がカラオケボックスの中をヒラヒラと飛ぶ。
それを何とはなしに眺めていると、つつつと新澤さんが寄って来てつんつんと僕の肩をつつく。
「どうしました」
「空の缶二つは私と米森さんのだと分かったわけですけれど――まだ中身がある缶のどっちが、比嘉さんの分なのでしょうか……?」
ううむ。
これはなかなかに難しい。自分のこととなるとなおさらだ。
新澤さんの出番が大幅カットになったのが悔しい。