緋桂柊の場合
彼女には、名探偵を創った時代があった――。
『――もしもし。太田克洋です』
「あぁ、太田さん! お久しぶりです」
『お久しぶりです。緋桂さんがなかなか原稿を送ってくれないからですね』
「それは言わないでくださいよ、太田さんに会う間も惜しんで原稿を書いてたんじゃないですか」
『口が減りませんね、あなたも』
「お互い様ということで」
『ですね。――で、本題に入ってもいいですか?』
「どうぞどうぞ」
『単刀直入に聞きます。原稿、上がりましたか?』
「……」
『なんですその沈黙は』
「いや冗談ですよ、実は一時間ほど前に書きあがりました。締め切り厳守でしょ?」
『締め切りは一週間前に過ぎてます』
「……それはともかく。今から原稿送りますんで」
『はいはい』
「どうでした」
『……いくつか気になった点があります。まず一つ目。作中に登場する「青屋敷事件」という単語は……』
「あー、やっぱばれちゃいましたか。太田さん、本格ミステリ好きですもんね」
『常識です』
「でもまあ、あの作家さんも某『神』の処女作を作中に登場させてますし、いいんじゃないですか?」
『でも彼は当時から有名でしたからね……それに、あの事件だって実際に起こったことですし』
「へいへい。じゃあそのくだりはカットしましょう」
『では二つ目。というか、これが一番重要なんですが――推理作家緋桂柊と言えば、どの作品にも必ず超人的な名探偵が出てくることで知られていたはずです』
「一部のコアなマニアの間で、でしょ?」
『一部だろうが全部だろうが関係ありません。……でも、今回の原稿に出てくるのはいたって平凡な刑事じゃないですか。名探偵はどうしました』
「……いいじゃないですか、名探偵ばっかり書かなくても」
『……』
「……書けなくなったんですよ」
『はい?』
「書けなくなったんです、『名探偵』が」
『……どういうことです』
「そりゃあ無理ってもんですよ、あんなことがあって、それでも名探偵を書き続けるなんて」
『あんなこと、とは?』
「――先月。旅先で、本物の『名探偵』に会ったんです」
『本物、ですか』
「ええ。前回、少しだけその話、しましたよね?」
『「推理小説っぽい事件に遭った!」とか何とか』
「それです。詳細は省きますけど、山の中のでっかい洋館みたいなとこに行ったら変な人がいていきなりその家を吹き飛ばしました」
『……よくわかんないんですけど』
「分からなくても大丈夫です。あとで『七芒堂事件』で検索してみてください。山ほど情報が出てきます」
『……そうですか。それで?』
「いや、そこに件の『名探偵』さんがいたんですよ。高校生くらいのちっちゃい子だったんですけどね……名前なんて言ったかな……確か紅白歌合戦みたいな名前だったはず……」
『ああ……心当たりがあります。眼帯してる子ですよね?』
「おや。太田さんもご存じでしたか」
『いや、知り合いの編集者があったことがあるって言ってたんです。何でもお前ホントに三次元の人間かよという感じのキャラで、話聞いてて「あ、この人で小説一本書けるわ」って思っちゃったんですけど』
「はいはいその人です。……会っちゃったんですよ」
『それはまあ、何と言いますか、ご愁傷様ですと言うか……それで、どうして名探偵が書けなくなるんです?』
「だって仕方ないです。あの子を見てたら、私の書いてたのは名探偵でもなんでもないって思いますよ」
『……そうですか。まあ、名探偵以外に挑戦するのもいいかもしれませんね。ただ――』
「ただ?」
『また書けるようになったら連絡してください。僕はあなたの書く名探偵が好きなんですよ』
「……ありがとうございます。善処します」
『では。――って、あ、ちょっと待ってください。あなたに手紙が来てるんです』
「……? ファンレターじゃないですか?」
『どうも違うみたいです。「緋桂柊さま」差出人は……「塔野昭一」となっていますね、あとで送ります』
「いや、電話越しでいいですので読んでください」
『分かりました――』
しかし、今回は小ネタばかりですね。特に編集者の名前が……。太田克史にしようかとも思ったのですがさすがにまずかろうと一字変えました。
でも、会話文のみの小説は、思ったより大変でした。