矢針寧の場合
彼には、名探偵を敬愛した時代があった――。
「――ですからね、所詮『名探偵』なんてものは幻想なんですよ。推理小説に出てくるようなトリックはえてして非現実的なもので、都合のいいように設定をいじられた小説の中でしか存在しえない。だから推理小説的な事件なんてものは存在しないし、当然、そこでしか居場所が与えられない『名探偵』なんてものも存在しない――できないんです」
俺はマイクをスタンドに戻し、適当に一礼して舞台袖へ引っ込んだ。司会役の「それではこれで、矢針寧さんの講演を終わります」という声の後に、まばらな拍手がパラパラと聞こえてきた。
「やあ、そこの君」
さて今日の夕飯は何にしようか、意外と長引いたからどこかで食べて帰るかなどと思いながら、帰り支度をするために控え室に戻ろうと廊下を歩いていると。
変な人間に、行き遭った。
「君だよ君。聞こえてるかい?」
変な雰囲気の人間だった。
真っ黒な長髪を後ろで無造作にくくった、端正な顔立ちの人間だった。見た目からは男か女かもわからない。着ているものは容貌と正反対の薄汚れた茶色のロングコートで、しかしその汚い服が秀麗な容姿になぜかよく似合っていた。
「君のことだよ、矢針寧くん。聞こえてるだろう?」
……なぜ、俺の名前を知っているのだろう?
そいつはつかつかと歩み寄ってきて、俺の目の前でひらひらと手を振った。俺はパシンとその手を払いのける。
「やっぱり聞こえてるじゃないか。あれ、それともいま手を振ったから視覚情報で初めて気づいたのかな?」
本気で不思議そうに言うそいつ。俺はコホンと一つ咳払いをして、
「……最初から聞こえてる。ただ――」
あまりに変な雰囲気だったから反応し損ねたんだ。
と言おうと思ったが、相手がいくら変な人間でもさすがに失礼かと思い、
「――俺の知り合いに、こんな奴がいたかなと思っただけだ」
と続けた。
言い換えてもやはり失礼な気がしたが、そいつは特に気にする様子もなく、
「うん、きみの知り合いにこういう人間はいないから安心していいよ、矢針くん」
と笑って返してきた。
「しかし、さっきの君の講演を聞いたんだけどね――」
……。
こいつが何を言いたいかは大体想像がついたので、俺はくるりと奴に背を向ける。
大体今日の講演を聞きに来ている奴は筋金入りのミステリマニアと相場が決まっている、大方俺の『名探偵なんていない』発言に憤慨して追いかけてきたんだろう。
そういう予想が立ったので、そのまま立ち去るつもりだったのだが。
「――ああ、待った待った。別に私は、君の講演内容にケチをつけようってんじゃないんだよ」
……どうやらハズレだったようだ。しかしそうでなくとも『ミステリマニアの前でそういうことを言わないほうがいいよ』などという余計なお世話の可能性が高いので、少し歩く速度を緩めたものの、やはり立ち去るつもりだった。
その言葉を聞くまでは。
「ただ、昔は『名探偵』という存在に心底あこがれ、自分もいつかはそうなりたいと思った人間に何があったのかと思ってね」
俺の歩みが、完全に止まった。
あれは、俺が八歳の時だった。
俺と父と母、そして姉の四人は、夏休みということもあって、親父の友達が経営しているペンションに泊まりに行った。
そのとき俺はミステリ、それも名探偵の出てくる本格物が大好きで、小さかった俺はそのミステリっぽい山荘に人目を憚らず歓声を上げたものだった。
まさかそのペンションが、本当に惨劇の舞台となるとは思いもよらずに。
一日目は何事もなく過ぎた。
二日目の朝。
俺が朝起きると、部屋で父が倒れていた。
首から上がなくなった父が倒れていた。
父の友人はごく常識的に『警察を呼ぼう』と言ったが、居合わせた客の一人が、自分は名探偵だと名乗り、警察に連絡することを禁じた。
そしてその自称名探偵は、犯人はペンションの宿泊客の中にいると宣言した。
いま思えば、あそこで母と姉を連れてペンションから逃げておけばよかったのだ。しかし当時の俺は、『名探偵さん』が事件を解決してくれると信じて疑わなかったのだ。
そして三日目の朝。
今度は母が、胴体を真っ二つにされて死んでいた。
さすがに俺も、限界だった。殺人鬼のいる場所に居座るよりは山道を歩いた方がマシだと思い、姉と一緒にペンションを出ようとした。それを止めたのが、あの自称名探偵だった。
『犯人はもう分かった。あとはデータを少し集めるだけだ』
けれども。
二度あることは、三度ある。
『名探偵さん』を信じて四日目の朝を迎えた俺は、
七つの部品にバラバラにされた姉を見つけた。
『やはり思った通りでした』『この人の殺され方で犯人が分かりました』『僕の手にかかればこんな事件赤子の手をひねるより簡単に解決できます』
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるな。
その日を境に、俺は名探偵を何よりも憎むようになった。
「――ほほう。久しぶりに来てみたら、そんなことがあったのか矢針くん。見ない間にいろいろ経験してきたんだね」
……え?
俺は……この男に、話したのか?
あの事を?
「正確に言うと話してもらったわけではないんだけどね……まあ同じようなものかな。それより」
目の前のそいつは、茶色いコートの内側に手を入れて。
一通の、白い封筒を取り出した。
「どうぞ」
気がつくと、俺はその封筒を受け取っていた。
「――これは?」
上質そうな紙でできた封筒。裏返すと、丁寧な字で『塔野昭一』と書かれていた。
「私はついでがあったからちょっと立ち寄っただけなんだけどね。古い友人に頼まれては仕方ない」
そいつは肩をすくめながら言う。なぜか様になっていた。
「じゃあ私はそろそろ行くよ。実を言うと時間が押しててね、遅れると怒られてしまうんだ」
そいつは穏やかな口調でそう言い、くるりと俺に背を向けた。
そしてつかつかと廊下を歩き、
あっけなく、角を曲がって消えてしまった。
「……なんだったんだ、今の」
そいつがしたように肩をすくめ、俺は封筒を開けて中身を取り出す。
そこには――。
矢針さんより名無しさんの方が目立ったような気がする今回。目立たせたかったのは矢針さんなんだけどな……。