7
タッタッタッタッ。ガチャン!
「雅紀!」
明は勢いよく走り、勢いよく食堂のドアを開けた。だが、中をいくら見渡してみても、そこに雅紀の姿はもうなかった。
もうすぐ昼休みが終わるという時間だったので、人自体が少ない。食堂内を掃除するモップを持ったおばちゃんと、いすに座って話をしている女子が二人、それに部屋の隅でぽつんと座っている女子が一人いるだけだった。
なんだ、急いで報告しようと思ったのに、もう教室に帰ったのか……。
明は息切れをしながら、額に浮かんだ汗を払った。
俺ももう教室に帰ろうかと思ったのだが、ふと一人だけで、部屋の隅のテーブル席に座っている女子が目に入った。よく見れば、その女の子は細田だった。
「なんだ、細田じゃんか。こんなところで何やってるんだ?」
近寄って話しかけると、細田の肩はビクッと大きく揺れた。ずっとうつむいていたために、俺の接近には気がつかなかったようだ。
上げられたその顔に、明ははっとした。
「細田? お前、大丈夫か? 顔が真っ青だぞ!」
千乃は言われて初めて気づいたかのようにびっくりして、慌てて手で顔を覆い隠した。
「おい、細田?!」
明はテーブルに手をつき、顔を覗き込もうとするが、千乃はそれから逃れるように顔を背ける。
気づいていた。一瞬だけ見えた細田の目の下に、涙の筋が光っていたことに。直感的に、それを言ってはダメだと思ったけれど。
「ごめん……。何でも、ないよ……」
指の間から漏れた細田の声は、やっぱり涙声だった。
明は心配そうに細田のことを頭上から見下ろしていた。
「何でもなくないだろ。どうしたんだよ。なんか不安なことでもあるのか?」
言いながら、こんな学校にいる時点で、不安なことなんか腐るほどあるだろうと思った。
けれど言った後で、そういえば、と気づく。そういえば細田は、俺と一緒でピストルが撃てなかったんだ。それなら不安に思うのは当然だ。こんな俺でさえ多少なりと不安を覚えているのだから、人間らしい細田なら俺の何倍も怖くなっていて当然だろう。
明はそこにあったいすを掴むと、それを引いてそこに座り込んだ。
千乃は震える手をわずかにどかして、驚いたように目を丸くし、明を見た。
明はどんな言葉を使えばいいのか迷いながらも、なんとかさりげなく聞こえるような言葉を選んでいた。
「あのさ……話ぐらいなら、聞くぜ? 俺もお前と一緒で、引き金を引いても弾が出なかった仲間なんだし。そういうの、不安に思ったり怖くなったりするのは仕方ないんだろうし」
千乃は目を瞬かせた。
明はうまく、千乃を見れなかった。
変なことを言っただろうか……。同じチームとはいえ、やっぱり女子と話すのは苦手かもしれない。それでも細田は大人しいし、話しやすいとは思うんだけど。
「……がう………」
千乃が小さな声で何かをつぶやいたので、明は顔を上げた。その小さな声を聞き取ろうと、耳をすませる。
「違う……の。私、撃てなかったんだけど……そうじゃなくて、怖くて……引き金が引けなかったの……」
細田は声を震わせて、涙をぬぐいながらつぶやいた。
今度は明が目を丸くして千乃を見る。
そのとき近くで、チャイムの音が鳴った。千乃はスピーカーの方を見上げ、いすから立ち上がる。だが、すぐに明はしっかりとその腕を掴んだ。
千乃は驚きの表情を浮かべる。
「待てよ。まだ話は終わってない、だろ?」
明は真っ直ぐに、立ち上がった千乃を見上げていた。
千乃は戸惑う。弱々しく顔を歪めた。
「でも、チャイムが……」
「授業ぐらい、サボればいいよ。死ぬ覚悟でこの学校に来た生徒に対して、教師もそれぐらいで怒ったりはしないからさ」
実を言うとそれはすでに、確認済みの事実だった。試したのは俺ではなく、雅紀だったが。
「それより細田、今の話をちゃんとしよう。今日この後、六時間目には実戦なんだ。そんな気持ちのままでいたら死ぬかもしれないんたぞ。死ぬのは、嫌だろ?」
細田の顔が強張るのを見た。
良かった、と思った。ここで死ぬのは怖くないとか言われたら、もうそれ以上俺には何もできなくなってしまう。けれど死に対する恐怖心があるのなら、生きたいと思うのなら、ここでは逃げられないはずだ。
千乃はゆっくりと、いすに腰を下ろした。
内心ほっとする。ほっとしてから、そんなことにほっとしている自分に、頭の中で首を傾げた。
「石村君、私……」
青い顔のまま、目の下には涙の筋がついたまま、それでも細田はそこに座っていた。
明の表情が緩んだ。
「なんで撃たなかったんだ?」
辺りは静かだった。さっきまでそこでしゃべっていた女子二人はチャイムが鳴ってから姿を消し、掃除をしていたおばちゃんは食堂の、洗い場の向こう側に消えた。実質、細田と二人っきりだった。だからどうということはないけれど、落ち着いて話ができると思った。
「怖かったから……」
細田の小さな声が静かに響く。他に何の音もない食堂では、その声も聞き取りやすかった。
「怖い?」
けれどそれは俺には、理解し難いことだった。撃てなくて怖いのならわかる。でも、怖いから撃てないというのは、どうにも想像できない。
「わかってる……わかってるの。撃たなきゃ死んじゃうってことは……この学校に来たってことは、そういうことを覚悟しなきゃいけないってことは………。でも、目の前で動いていて、生きていて、命としてそこにあるものを、殺すなんてこと私には……」
細田の瞳からぼろぼろと涙がこぼれた。
明は絶句した。
命……。あれを、シープを、命と呼ぶのか。不気味で、この世のものとは思えないような姿で、人を殺すような化物を、命だと? それでも殺せないと?
「でも、あれは……」
「わかってる。わかってるよ、それでも殺さなきゃ……ダメなのは……。石村君の言う通り、私もやっぱり、死ぬのは嫌だから……。でも、でも……どうしたらいいのか、わからない。今日が本番なのに、また撃てなかったら……でも撃っちゃったらあの子は……」
死ぬ。
ぽた、ぽた、ぽた。
白いテーブルの端っこに、雫の粒が落ちるのを見ていた。
それは信じられないくらい純粋で、まっさらだった。きれいなくらい透明で、この子は俺が絶対に持ち得ないものを持っているのだと、今さらながら思った。
「私が……私なんかが、何かを殺していいわけない! 命を奪う権利なんかないのに!」
細田が叫んだ。
そんなものは俺だって、持っているわけがない。そう言おうと思った。けれど立って言ってやろうと腰を浮かしかけたところで、気づいた。
待て、細田が今言っていることはなんだ? 何の話だ? ……誰の、話だ?
「だってみんな、そう言ってた! この世のゴミだって! 生まれて来たことがそもそも間違いなんだって! 言ってた………」
細田の顔が悔しげに歪んでいる。
俺はうまく息もできないほどの何かが、のどをつかえた。悲しみでも、恐怖でもなく、それなのに全身が震えるようなこの感覚は、何なんだと思った。
「誰がそんなこと言ったんだよ」
自分で聞いていてもいつもより、自分の声は低かった。
細田は両手で顔を覆って、嗚咽を漏らしていた。悲しみがそのまま、溢れるように。
「みんな……みんなだよ。……中学のクラスの子も……お母さんとお姉ちゃんも………誰も、私なんかいらなかったんだ。……生きてる価値がない。だから……」
こんな学校に入れられたんだ。
細田はその言葉を最後まで言わなかった。けれど言わなくても、はっきりと聞こえていた。
明はギリッと奥歯を噛んだ。
この学校には必要な書類を郵送するだけで入ることができる。出ることはできないが、入ることはいとも容易いのだ。そしてそれは、よく考えれば本人じゃなくてもできることだった。そうして親に送られてくる生徒も少なくないと雅紀に聞いていた。俺はそれを聞いても、そうなんだなぁ、ぐらいにしか思わなかった。考えていなかった。そうして送られてきた本人が、何をどんな風に思うのか。
明はギュッと手を握り締めて、拳を作った。
悔しいと思った。俺なんかとは違って人間らしくて、これ以上ないほど生きる価値のある細田が、そんな風に虐げられること自体が。わかっていない。外の奴らは何にもわかっていない。
明は目を細める。
無能な人間には、有能な人間の価値がわからないのだ。
「細田、撃てよ」
千乃は顔を上げた。泣きはらした目で、うつむいている明を見る。
明も顔を上げて千乃を見た。
「あいつらは、シープは、人を殺す化物だ。あっちが悪で、こっちが正義。それは間違いないことだ」
人間を基準にしたクソみたいなルールだが、シープの正義を無視した都合のいいルールだが、それでも細田が少しでも迷わずに撃てるなら事実はどうでもいいと思った。
「愛とか……正義とか、てきとうな名目をつけて撃てよ。シープが本当は何なのか、学者でもわからないんだから、高校生の俺にわかるわけもないけど、撃っても……いい奴らなんだぜ」
細田は首を振った。涙を流しながらそれでも、それでいいとは言ってくれなかった。
「じゃあ……」
明は頭をかいていた。その手がぴたりと止まる。
「憎いとか、大嫌いだって思って撃ってみろよ」
千乃の目が見開かれた。信じられないというように、息を呑んでいた。
嫌だった。俺は基本的に冷たい奴だし、自分に関係のない人間はどうなろうが知ったことではないと思う人間だ。でも、だからこそ、同じチームになった細田は、もうどうでもいい他人などではなくて、一秒でも長く生きていて欲しいと願う人物の一人だった。
そのためなら、シープなどという得体の知れない化物はいくら死んでも構わないと思った。
明は軽くため息を吐く。
「恨めばいいだろ。嫌いになれば、何にも関係ない相手に八つ当たりすれば、いいだろ。そこまで正しい人間である必要なんかない。自分の命のために、誰かを犠牲にしてもいいんだよ」
俺は、細田にこそその権利があると本気で思った。
明はまた口を開く。
「どうせもう、帰る家なんかないんだろ? もう、逃げられないんだろ? だったら戦うしかないだろ。何を犠牲にしたって、生きるしかないだろ」
細田は涙を流していた。震えていた。それでも大きく、ゆっくりと細田はうなずいた。
明は少しだけ口元を緩めて笑った。
撃たなければならない。何があっても、生きるために。
………ん? 何かおかしくないか? 細田はともかく、俺は死んでもいいと思ったから、この学校に来たんじゃなかったのか……?