6
「あっ、マジでいた……」
明はその姿を一目見ただけで、思わず屋上のドアの後ろに隠れた。
天気は曇っているけれど、屋上には春の風が吹き、校舎裏から飛んで来た桜の花びらが舞っている。そんな中で一人、夕霧は座っていた。
他に人はおらず、一人で座ってフェンスの向こう側を眺めている。その後ろ姿はどこか、少しだけ寂しげに見えた。そのフェンスの端に腰かけている彼女の、オレンジ色の三つ編みが二本、足下に垂れ落ちていて、わずかな風に揺れる。
やっぱり、きれいだ……。
明はこっそりと顔を出して、その後ろ姿に見蕩れていた。
一人でいても背筋がしゃんと伸びていて、美しい。誇り高く、見える。こんなときでさえ。
明は胸の辺りを手でおさえた。心臓がバクバクいっている。顔が引きつる。緊張していた。
でもまぁ、話しかけたって死ぬわけじゃない。それぐらいで、人間は死んだりしない。けれどここでこのチャンスを逃してもまだ次があるなんて、そんな保障はどこにもない。
俺は今日、死ぬかもしれないのだから。
そう思うと明は、ドアの後ろから出ることができた。緊張していたせいか、足を思い切りドアにぶつけてしまい、大きな音が鳴ったけれど。
ゴガンッ。
「痛っ」
さっと、すぐに夕霧は振り返る。痛そうに左足を抱えている明を見ると、不機嫌そうに目を細めた。
「あっ、えっと……こんにちは?」
明ははにかみながら夕霧に声をかける。迷って、迷って、出てきた挨拶は疑問形だった。
手に汗をかいていた。体が妙に熱いと思うのに、頬に当たる風は妙に冷たく感じる。自分がちゃんと立っているのかよくわからないし、頭の中は軽いパニックだった。
「何?」
夕霧は明に、うっとうしそうな目を向ける。
うわぁ、夕霧が俺を見てる……。ゴミを見るような目だけど、でも間違いなく他の誰でもない俺を見つめている……。
明の顔は赤くなった。
屋上に足を踏み入れ、ゆっくりと夕霧に歩み寄りながら、明は口を開く。
「あの……その、ちょっとだけ話をしないか?」
後悔した。何かもっと、まともな言葉を用意しておけば良かった。
夕霧は威嚇するような目で明をにらみながら、それには何も答えなかった。
それは強くて、かっこいい瞳だった。琥珀色のそのきれいな瞳に、見蕩れるなという方が無理な話だ。
女子とどんな風に会話をすればいいのか、裕一に聞いておけば良かったと思った。俺は男ばかりだったけれど、あいつは中学の頃も男女問わずに仲良くしていたから。いつも人の輪の中心で笑っていたから。でも偽物っぽい笑顔だったけど今は、どうなのかなぁ……。
明はふと、横を向いた。
黒いフェンスの向こう側には果てしない、鮮やかな緑色の野原が広がっている。それはすぐそこなのに、とてつもなく遠かった。
あそこは学校の敷地外だから出ることはできない。
こういうときは本当に、牢屋の中に入ったんだなぁ、と思ってしまう。
「夕霧は、なんでこの学校に入ったんだ?」
考えたというよりは、つい口から出てしまったような言葉だった。この学校にいる人間になら、誰に対して言ってもおかしくはなく、けれど聞かれた当人は大概顔を曇らせてしまうような、そんな質問。そう思うとやっぱり、俺と雅紀は異常なのかもしれない。
夕霧は腕を組んで、足を組んでいた。不機嫌そうに明をにらむ。
つい呼び捨てにしてしまったことに、俺は遅ればせながら気づいて、それを怒っているのだろうかと思った。
けれど夕霧は、怒っているというよりは悲しげにつぶやいた。
「あなたには関係ないでしょ」
冷たいほどの視線を明に向ける。人を拒絶し、一歩も踏み込ませまいとする瞳だった。
おっしゃる通りだ。
「それは……その通りだな」
夕霧の言うことを素直に認めて、俺は黒いフェンスの穴に指を差し込んだ。遠くを眺める。ぼんやりと。
夕霧はほんのわずかだけ気にかけるように、明の横顔を見ていた。
一陣の風が吹き、目を逸らす。
「………」
夕霧は足下に置いていた、風呂敷に包まれた弁当箱を手に取って立ち上がる。
長い三つ編みが揺れる。
「あなたの目的が何かは知らないけれど、警戒心なく人と関わろうとするのは賢明とは言えないわね」
わずかに振り向いた夕霧の目が、少し切なげだった。
場違いとわかっていても、キュンと胸が高鳴る。
「俺は………」
夕霧が目を細めて明を見る。
明は口をつぐんだ。
俺は……俺は、何て言うつもりだったんだ?
自分でもよくわからず、視線を逸らした。
夕霧は顔を少し歪める。
「あなたって変な人。でも、どんな人間でも必ず、この学校に入ったことを後悔するわ」
「えっ……」
明は目を丸くする。
夕霧はそれで話は終わりだというように、明に背中を向けた。オレンジ色の髪をたなびかせて、姿勢よく歩いて行く。
このままじゃ行ってしまうと思った。何か、何でもいいから呼び止めなければいけないと、思った。
そうして出てきた言葉が、これ。
「あっ、あの……一目惚れって信じますか?!」
そう口に出して言ってしまった後で、自分が今、何を言ったのかようやく理解する。顔がかーっと熱くなる。
夕霧は怪訝そうに振り向いた。眉間にしわが寄っている。
そして一言、明に向ってつぶやいた。
「死ね」
異性にそんなことを言われたのは生まれて初めてのことだった。
夕霧が去って行ってしまい、明は一人だけ、そこに取り残された。
その姿が完全に見えなくなってから、黒いフェンスに背中を預けて寄りかかる。まだ少し赤い顔のまま、曇った空を見上げる。
何と言うのか……あまりにもかっこ良すぎて、好き……かもしれない。
明は揺れる息をゆっくりと吐いた。空を見つめたまま、口元が自然と緩んでしまう。
「好き……かな」
そう小さくつぶやいた。