プロローグ
卒業式に出なかった俺が、中学時代の一番最後のシーンとして思い出せるのは、放課後の教室で裕一と話をしたことだった。
夕暮れどきの校舎の、三年二組の教室の中には裕一と俺しかいなかった。
俺と裕一は特別仲の良い友達というわけではなかったけれど、なんとなく同じ輪の中にいることが多かった。それでも一対一で話したのは、このときが初めてのことだったように思う。
けれど以前からなんとなく感じていた。裕一が他の友達と話しているのを見ていると、こいつは俺と同じなんじゃないだろうかと、勝手に親近感のようなものを抱いていた。
だからこそこの日、二人だけでの会話は成立したのだと今も思っている。
明と裕一は窓辺の机にそれぞれ腰かけ、窓の外を眺めていた。橙色の夕日や、校庭を横切って帰って行く下級生たちの姿を見ていた。
「なぁ」
「ん?」
俺が話しかけ、裕一が返事をする。
裕一はかすかに笑っていた。
こいつはいつもそうだった。何か楽しいことがあるわけでもないのに、基本的にいつでも顔に微笑を浮かべている。それは優しげで、決して嫌な笑いではないけれど、俺はからっぽだと思っていた。
中に感情が何もない。
「お前、高校どこ受けたんだ?」
そう聞いたら、裕一はまたクスッと笑った。はにかむように弱々しく。
「宝石高校」
「へ……」
明は締まり悪く口を開いたまま、裕一を見つめた。
裕一はすました顔をしていた。口元が笑っているのに、目が笑っていない。
「知らない? わけないよな」
俺はドキッとした。どこの高校を受けたのかくらい、教師に聞けばすぐにでも教えてくれる。俺がそうしなかったのは、裕一の口から直接聞いてみたかったからだ。けれど裕一は先に、教師に聞きに行っていたらしかった。
俺がどこの高校を受けたのかを、すでに知っていたのだ。
「お前……いいのか?」
明は真剣に裕一の瞳を覗き込んだ。
少しばかり、身を乗り出していたかもしれない。
「そっちこそいいのかよ。まさかあそこがどんな高校かもわからずに受けたわけじゃないだろ」
そう言いながらも、裕一の顔から笑みは消えない。
俺はちょっとの間その横顔を眺めていたが、目を伏せた。
「……俺は、所詮捨て子だからいいさ。でもお前は家族がいるだろ。母親と、弟と妹が二人ずつ」
そういう家族というものが俺には、想像し難いものだった。施設の前に捨てられ、義務的に育てられてきた俺には、そういう愛情は理解できなかった。
まぁ施設とは言っても、そこで愛情を感じる奴だっている。
問題は俺の心の中にある。
「僕もいいんだよ。うちは貧乏だからな、食いぶちが一人減れば助かる。それに、あの学校には入るだけでうちに大金が入る。弟や妹たちはこれで、きっと大学まで何の苦労もなく行くことができるだろう」
裕一は肩をすくめて話した。
俺はその話を黙って聞いていた。
そうやって、弟や妹たちのために自分を犠牲にすることが優しさだとは思わなかった。例えば数年後、大学に入った弟や妹は、兄貴のことをどう思うのだろう。ヒーローのようにはたして誇らしく思うのだろうか。
けれどそもそも、こいつは本当に兄弟たちのためにあの学校に行くのか? 何か、もっと違う目的があるという可能性はないのだろうか。
いつも笑っているから心情が読めない。
ガタッ。
明が顔を上げると、裕一が机から降り、窓辺に立っていた。
橙色の夕焼けをその体で受け止めていた。
自虐的に苦笑を浮かべている。
「それに生きていたってどうせ、つまらないだろ?」
明は何かを言うのでもなく、微動だにせずに裕一のその姿を眺めていた。
けれど同感だった。それには大きくうなずけた。
だって今までの十五年間の人生の中で、一体何が楽しかったよ? 人と群れて、人に紛れて、人間らしいフリをして今まで生きてきたけれど、それの何が楽しいんだよ。悲しくない、寂しくない、怒りもない。けれどそれは、喜びも楽しみもないということに他ならなかった。楽しんでいるフリをして笑うことはできるけれど、心でそれを感じることはできない。周りにどれだけの人がいてもつまらない。
なぁ、やっぱりお前も同じだろ?
明は声に出すことなく、その背中に呼びかけていた。
裕一は振り返らず、ただ外に目を向けていた。窓の一つが開いていて、そこから吹く生暖かい風によって白いカーテンが揺れるのと同じように、このときはまだ黒かった裕一の髪が揺れていた。
それが、中学校最後の記憶。