☆8月30日★ その2
「たっだいま~!」
玄関からキッチンまで届くように、雅人が大きな声を出す。
「はいはい、お帰りなさい」
雅人の予想通り、キッチンから母さんがひょこんと顔を出した。
だけど雅人は、そんな母さんには目もくれず、一目散に階段を駆け上がって行ってしまった。
「あらあら、忙しないわねぇ」
エプロンで手を拭きながら、楽しそうにそんな事を呟く母さんに、ただいまと声を掛ける。
「はい、叶人おかえり~」
そう言いながら、母さんは僕の事をギュッと抱きしめた。柔らかくて暖かい母さんからは、ほんのりとカレーの匂いがした。
僕達の大好物だ。
その時、どたどたと階段を駆け降りる音を鳴らしながら、雅人が再び一階に下りてきた。その両手には、沢山の黒いボールを抱えている。
そのまま居間に駆けこもうとする雅人を、母さんは引き止めるように抱きしめた。
「雅人おかえり~」
「ただいまって言ったじゃん。離してよ~、もうすぐジャグレン始まるんだから~」
「ジャグレンの前に、手洗いとうがいを済ませて来る事~」
そう言って母さんは、雅人を持ち上げたまま洗面所へと連れて行こうとする。
「分かったよ、自分で歩けるから、離してよ」
そこで母さんから解放された雅人は、ボールを居間に投げ入れると、洗面所へと駆けていった。
「叶人もね」
「うん」
僕も一先ずランドセルを置いて来る為に、部屋へと続く階段を上った。
「それにしても、重くなったわね~」
階段の下から、そんな母さんの一人言が聞こえてきた。
部屋に入り、ランドセルを机の上に置いた所で、下から、叶人、急げ~と言う雅人の声が聞こえて来た。
急いで階段を駆け下り、洗面所で手洗いうがいを済ませ、テレビの前で手を拱いている雅人の隣に座る。
『大道戦隊! ジャグレンジャー!!』
僕が座るのと同時に、テレビからタイトルコールが飛び出した。
隣の雅人を見ると、瞳をキラキラと輝かせながらテレビを見つめている。
だけど、それは僕が雅人の右側に座っているから、彼の本物の瞳を見る事が出来るのだ。
雅人の左目は、幼い頃、川で溺れた僕を助ける為に潰れてしまった。
あの日は二人で、森で探検ごっこをしていた。僕はその時、銀色に輝く綺麗な蝶を見つけて、雅人に見せたらきっと喜ぶだろうと思って、夢中で追いかけていた。もうちょっとで捕まえられそうになった時、川縁の石にべっとりついた苔に、足を取られてしまい、そのまま川の中へと転落してしまった。
前日に降っていた雨の所為で、水嵩は高く流れは急だった。足の届かない川で、泳げない僕に成すすべはなかった。更に最悪な事に、突然何が起こったのか分からず、僕はその時パニックを起こしてしまっていた。
水が次々に身体を押し流していく。僕は水面に何とか顔を出し、息を吸うだけで精一杯だった。
流されている最中目に飛び込んできた、川沿いに生えてた木に必死で飛びついた。だけど、そこから岸に上がれるだけの力は残っていなかった。
水の冷たさと共に、絶望がひしひしと迫って来る。
その時、逆側の川岸から、川に飛び込む雅人の姿が見えた。
直感した。
雅人は、僕を助ける為に飛び込んだのだと。
激しい流れの中、雅人はそのまま一度僕のいる対岸まで泳ぎ切り、急いで僕を岸に引っ張り上げた。
命からがら岸に横たわり、飲み込んだ水をゲーゲーと吐き出しながら、ふと雅人の方を見ると、その左目からは止め処なく血が流れていた。
僕は堪らず雅人に駆け寄った。
雅人は左目を押さえながら、泣きじゃくりながら謝る僕に向け、びしょ濡れだなって、笑った。
すぐに病院に駆け付けたけど、雅人の左目が、再び光を宿す事は無いとお医者さんは言った。
僕を助ける為に川に飛び込んだ時、流れて来た小枝か何かが、目に刺さってしまったらしい。
母さんも父さんも、無事で良かったと呟くだけで、僕を怒る事は無かった。
手術の後、雅人の左目に巻かれた包帯を見ながら、僕は再び大声で泣き出してしまった。
そんな僕に向けて、雅人はニカッと笑って、叶人、病院では静かにしなきゃ駄目なんだぞと言うだけだった。
雅人の左目には、今はもう眼帯はついていない。
その代わりに、少しだけ表情の乏しい義眼が輝いている。
雅人はあれから、大切な物を左目の目蓋にこすりつける仕草をするようになった。雅人曰く、左目の義眼は僕を助けた際の勲章の為、自分の認めた大切なものは、勲章に挨拶をする必要があると言う事だった。
僕はと言えば、あの一件以来、危険な場所へと出歩く事は無くなった。クラスメートと未だに冒険を楽しんでいる雅人には申し訳無いが、僕にとってはトラウマ以外の何物でも無かったからだ。
だから、他の双子達とは違い、僕と雅人は、見た目だけで区別がつく。
『怪人! 罪も無い人々を襲うなんて許せん! 私の新必殺技で朽ち果てるがいい!!』
「おお! 今日はブラックだ!!」
テレビ画面から飛び出してきたヒーローの声に呼応するように、雅人が興奮の声をあげた。
『必殺!! セブンイリュージョン!!』
ブラックは、自ら持っていた3つのボールを一度空中に投げ飛ばした。そして、どこか分からない場所から突然飛び出してきた、新たな4つのボールと共にお手玉を始める。
雅人が言うには、これはボールジャグリングの中でも基本の動作らしい。ただ、ボールの数が増えればその難易度も格段に上がるのだと言う。
ブラックはそのボールをほぼ同時に7つ、リング状にして敵に投げつけた。なんとその7つのボールは七色に光り出し、リング状の虹を纏いながら敵に激突した。
「すげぇ!!」
雅人の興奮の声が更に輪を掛ける。
怪人は虹のボールを食らって、空の彼方へと吹っ飛んで行った。そのまま悪の幹部が、怪人に何だか不思議な術を掛ける。
当然のように、怪人は巨大化した。
ジャグレンジャーも5人結集して、巨大ロボットを呼び、後はいつもの展開だった。
あっと言う間の30分が過ぎ、雅人は伸びをして、今日も面白かったなぁと呟いた。
その時、僕達は急に後ろから抱きかかえられて、そのまま空中に持ち上げられた。
「ただいま~」
手の主は、帰ってきた父さんだった。
暫く振り回された僕達は、母さんのご飯よコールで漸く父さんの腕から解放された。
最近は、父さんも僕達との時間を大事にするように、早く帰ってくる。日が落ち切らない内にご飯を食べ、一緒にお風呂に入って、ゲームで遊んだり、学校の話なんかをして、楽しく過ごす。
すると気がつけば、あっという間におやすみの時間だ。
ずっと、こんな日が続けばいいのに……。
ベッドの中で毎日、眠りに着く前に、そう強く願った。
だけど、明後日には、もうカレンダーを捲らなければならない。そうすれば、儀式の日は目の前だ……。
考えても仕方の無い事、だけれども、考えずには居られない事……。
雅人は、どう思ってるんだろう?
僕は、今こそあの時の恩返しをする時なんじゃないのかと、ずっとずっと思っていた。雅人がそれを望んでないにしても、それが一番の答えなんじゃないか、と。
だけど、そこで決断が出来る程、僕は強い人間じゃ無かった。だけど、そんな弱い人間が淘汰されていく方が、自然の摂理に沿っている気もしていた……。
ベッドの中、おやすみを言った後なのに、上手く眠れない日々が続いた。
日々が楽しく、幸せなのに、それが苦しい……。
もし恋をしたら、こんな感じなのかな、なんて経験の少ない頭で考えながら、目だけはしっかりと閉じ、眠る努力をする。
夜は過ぎ、朝が訪れるまで、僕の頭は微かでも確かに眠りにつく。
儀式まで、後一週間……。