☆9月3日★ その1
☆9月3日★
ドアが閉じられてから少しして、母さん達が階段を下りていく音が聞こえて来た。
止め処なく溢れていた涙の跡を手で擦りながら、雅人のベッドへ腰を掛ける。
一度深呼吸をしてから目を開けて、改めて雅人の部屋を見渡してみた。
僕の部屋と同じ間取りだが、内装は随分違っていて、僕の部屋よりも格段に物が多かった。
ズボンのポケットには、さっき母さんから貰った瓶が入っている。多分これは、僕達が選択を終えた後に、飲むように持たされたものだ。
ポケットの中からそれを出す事はせず、僕は改めて一度溜息を吐いた。
もっと心の奥底から、恐怖に浸食されると思っていたのに、心中は随分と穏やかだった。
雅人を見ると、僕が腰掛けているベッドの下に手を伸ばし、何かを引っ張り出そうとしていた。
「雅人?」
僕の問いかけに、雅人は反応を示さない。
少しして、雅人がベッドの下から取り出したのは、大きな二つのリュックサックだった。
そしてベッドに飛び乗り、僕の隣で胡坐をかいた。その目はこちらを真っ直ぐと見つめている。真剣な眼差しが向けられた後、雅人はゆっくりと口を開いた。
「叶人、眠くないか? 大丈夫か?」
「うん、大丈夫だけど?」
時間は遅かったが、不思議と目は冴えていた。
「そうか、そりゃよかった。実はな、お前に言わなきゃいけない事があるんだ」
さっき、帰り際に呟いていた事だろうか?
「何?」
「とっても大事な事だから、よく聞いてくれよ……。俺はな、この運命に立ち向かってみようと思うんだ……」
雅人の唇が、にやりと歪む。
「どういう事?」
「逃げようって事さ」
僕が雅人の言葉をオウム返しする前に、雅人は僕の口を片手で押えこんで、もう片方の手を自分の唇の前に置き、人差し指を立てた。
静かに、のジェスチャーだ。
僕が頷くと、雅人はそっと手を離した。
「今からこの部屋を脱出する。そして、この国からもだ……」
「そんな、どうやって?」
「それはおいおい説明する。一先ず、この部屋を出る事が最優先だ」
「でも、見つかっちゃうよ?」
「大丈夫だよ。もう血の一週間に入ってるんだから、外出は禁止されてるだろ? それに夜の間に移動すれば、闇に紛れる事が出来る。家の窓にさえ気を付ければ、何とかなるはずだ」
雅人は不敵な笑みを崩さない。そして僕に、逃げ道を記した地図を見せてくれた。
「この道筋通りに逃げれば、まず見つからない。俺が先導するから、ついて来てくれ」
「それでも、もし……」
「大丈夫だって、大丈夫」
雅人の瞳の奥には、確かに光が灯っていた。
僕が雅人の双子だからこそ見えたかもしれないその微かな光は、だけども僕が雅人を信じるには十分な光だった。
雅人と二人で、生きていけるかもしれない。
そんな希望が、微かに見えた。
「分かった」
僕が頷くと、雅人がにこやかに笑う。
「よし、じゃあ、まずは食糧をこっちに移す」
雅人の指示通り、まずは二人の3日分の食糧を、リュックサックの中に移した。
3日分と言ってはいるが、恐らく一週間は過ごす事が出来るだろう量が箱には入っていた。空腹にならないようにと言う、母さん達の配慮だろう。
片方に詰め込めるだけ詰め込むと、リュックサックはすぐにパンパンになった。
雅人は静かに窓を開くと、もう一つのリュックサックの中に隠してあったのであろう縄梯子を、そっと窓の外へ垂らした。
そして食糧の詰まった方を僕に持たせ、自分のリュックサックにも入り切らなかった残りの食糧を詰め込んだ。
箱の中身は全てリュックサックの腹の中に収まり、僕達は出発する事にした。
時計は0時40分。
部屋の隅の目覚まし時計を雅人は引っ掴むと、それも自身のリュックサックの中へ詰め込んだ。
雅人に倣うように、僕も渡された物を背負う。
想像していたよりも重たく両肩に襲いかかったそれは、これから僕達が行う行為への代償に感じた。
窓に足を掛け、僕が先に縄梯子を下りる。
多少軋みはしたが、切れる事は無さそうだ。それよりも、重力に引っ張られるリュックサックの重みに耐える事の方が辛かった。
「ゆっくりでいいからな」
雅人が小声で応援してくれる。
暗闇の中を、一歩一歩確実に縄梯子を踏んで行く。
漸く地面に足が到着した時、安堵の為か膝から崩れ落ちてしまった。
流れ落ちてくる汗を拭いながら上を見ると、雅人は僕が地面に降り切ったのを確認してから、するすると慣れた動作で降りて来た。
同じ双子でこうも違うのかと思うと、日頃運動能力の違いに甘えていた事を思い知る。
「よし、行くか」
あっさりと下まで降りて来た雅人は、小声で耳打ちをした。
そのまま静かに家を後にしようとした時、ふと窓から、家の中の様子が目に入ってきた。
そこには、父さんの胸に顔を埋めながら泣き叫んでいるであろう母さんと、そんな母さんを強く抱きしめながら、目元を拭う父さんの姿があった。
雅人の姿を見失ってはいけないと思い返し、すぐさま逃げるように闇の中へと足を向けた。
雅人の背中を追いかけるように、背中の重みに負けじと精一杯走る。
住宅地の窓を避け、汗だくになりながら夜の街を駆ける。
何度も汗を拭い走っている最中、しきりに、さっきの二人の姿が脳裏をよぎる。
何度も何度も蘇ってくる光景に、知らず、涙が止まらなくなってしまう。
迸る感情の波に、全てを持って行かれそうになる。
僕達の前では、明るい精一杯の笑顔を見せたくせに。
一緒に泣いてくれても良かったのに……。
僕達に隠す事なんて、無かったのに……。
そんなの、ずるいじゃないか!
嬉しさと悔しさが、激しく交錯して行く。
父さん達は、自分の感情を押し殺して、僕達の前で最後まで笑ってくれたのだ。
視界がぼやけ、雅人の背中が闇に溶けそうになる。
流れ出る汗なのか涙なのか分からない物を、がむしゃらに手と袖で拭いながら、僕は懸命に走った。
足は縺れて、肩の痛みはどんどん増していく。だけど、こんな状況じゃ無くても、僕は走らずにはいられなかったかもしれない。
走り抜けた先に希望がある事を信じて、僕は歯を食いしばりながら、雅人の背中を追いかけ続けた。
腹が立つほど、星が綺麗だった。




