☆9月2日★ その7
「ちょっとトイレ行ってくるわ~」
里美は観覧車を降りてすぐ、待っていた雅人達の横を駆け抜けて行った。
「なんだあいつ? そんなに我慢してたのか?」
雅人が僕にそんな事を呟くが、僕は何て言っていいかわからずに、そうかもねと適当な同意の言葉を出した。
少しして戻って来た里美に、由香里が近づいて行く。少し遠くで何か里美に言っている由香里と、軽く謝っているような仕草をしている里美。恐らく、突然のサプライズに対する嬉しい抗議だろう。
「里美と二人で、何の話してたんだ?」
雅人が軽い調子で聞いて来る。
「雅人と由香里の事だよ」
嘘は言っていない。
「なんだ、俺らと一緒か」
雅人はそう言って笑った。
「もうすぐ沈んじゃうね」
改めて合流した由香里が、目線を空に向けて呟いた。
彼女の目線を追いかけると、先程までの太陽は山の向こうになりを潜ませ、菫色の空は夜の色へと変化していた。
「あ~、今日は遊んだなぁ!」
里美が気持ちよさそうに叫ぶ。
「それにしても、今日は本当ラッキーだったよな。叶人のお陰だ」
雅人はそう言って、ポケットから黒いボールを取り出して、自分の左目蓋に擦りつけた。
ステージに上げられた僕は、そのお礼と言う事で、好きなヒーローの武器を一つサイン付きで貰える事になったのだ。折角だからと、僕はブラックのボールをリクエストして、それを雅人にプレゼントした。
「俺、一生大事にする」
雅人が僕を見ながら、嬉しそうな笑みを見せる。
雅人がボールを目蓋に擦りつけ、愛おしそうに微笑む姿を見て、僕も嬉しくなった。
元々は、僕の所為で失ってしまった左目なのに、雅人はそれすらも大切だと言うように振舞うのだ。その心意気が、愛おしかった。
「んじゃ、そろそろ帰るか」
雅人が慈しむように擦りつけたボールを鞄にしまい、名残惜しそうにそう言った。
僕達は同意して、出口へと向かった。
一度振り返り、観覧車をもう一度見上げる。薄日を背にしたまま、未だに悠然と動いているその姿を見ながら、ふと先程の里美の声がフラッシュバックする。
『叶人君……、今日が……、終わっちゃうよ……』
その言葉が、僕の心の深い所に、一つ雫を垂らし、波紋となって広がる。
ポケットから、ショーの終わりにジャグレンジャー達と4人で撮った写真を取り出した。
笑顔で写っている僕達の写真は、まるで何年も昔に撮った、遠い過去の記憶のように感じられた。
今日が、終わってしまう……。
沈み行く夕陽は、いつもと変わらない。だけど、今日と言う日が、堪らなく愛おしく感じる。
それは僕が、今日のこの日を素晴らしく過ごせたと言う証。
精一杯楽しむことが出来たと言う証。
だから、本来なら悲しむ事も沈む事も、無いはずなのに……
「叶人ぉ!!」
気づけば遠く離れてしまっていた雅人が僕を呼ぶ。
観覧車に心の中で別れを告げて、僕は駆け足で皆の元へと戻った。
電車に揺られている間にすっかり夕陽は沈み、バスに揺られている内に辺りには星が煌めき始めた。
今日は天気がいいからか、星が綺麗に見えた。
バス停に到着した所で、由香里達とはお別れだ。
「それじゃ、またな」
雅人が二人に、そう声を掛ける。
由香里は暗い顔で無理矢理に笑顔を作り、里美はいつものように、ん、また、と雅人の言葉に返事をした。
僕は二人に、何て言葉をかけていいのか分からなかった。だけど、何か言わなきゃいけないと思って、必死に頭を巡らせてから、言葉を出した。
「二人共、今日は楽しかったよ。ありがとう」
二人の顔を見つめながら。
そんな事しか言えない自分を歯がゆく思いつつ、二人が笑ってくれたから、よしとする事にした。
固く握手を交わし、僕達は両親が待つ家へとそれぞれ歩きだした。
「叶人、後でちゃんと言うけど、変な心配はしなくていいからな?」
雅人が家に着く直前に、そんな事を呟いた。
「それって、どういう意味?」
僕の問いかけに雅人は、まだ秘密、と笑わずに、真剣な面持ちでそう言った。その真っ直ぐな眼差しに、思わず言葉が詰まる。
雅人は一体、どういう意図で僕にそんな事を言ったのだろう。
僕のそんな思考は、すぐに雅人のただいまぁと言う言葉と、ドアを開ける音で停止した。
「お帰り」
「お帰りなさい」
家に帰り着いた僕達を、父さんと母さんは二人揃って出迎えてくれた。
「疲れたでしょ? さぁ、先にお風呂に入ってらっしゃい」
「今日はお父さんが一緒に入るぞ!」
そう子供のようにはしゃぐ父さんと一緒に、僕達は荷物を置いて浴室へと向かった。
身体の隅々まで綺麗に洗って、久しぶりにお風呂の中で遊んだ。
お風呂から上がると、母さんが僕達の好きなハンバーグを用意して待ってくれていた。
「今日は夜更かししていいから、一杯お話しようね」
母さんはとても楽しそうに言って、僕達はご飯を食べながら、テレビを消して沢山の話をした。
食事が終わった所で、母さんがリンゴを切ってくれた。
4人で温かな時間を穏やかに過ごし、こんな幸せな時間があっていいのかとすら思ってしまった。
そんな時間を壊すように、11時半を知らせるアラームが、セットしていたのだろう時計から鳴り響いた。
一瞬だけ哀しそうな顔をした父さんが、テーブルの上のそれを止める。
「もうこんな時間か、早いなぁ……」
父さんはそう呟いて、僕達の方を向いた。
「部屋は、どっちの部屋にする?」
「俺の部屋がいい」
父さんの問いかけに、雅人がすぐに声を出す。
「叶人は、それでいいかい?」
父さんが僕にそう尋ねたので、いいよ、と返した。
父さんは頷いて台所に向かい、僕達の3日分の食糧の入った箱を持ってきた。それを父さんが一度雅人の部屋に運び込む。
その間に僕は、母さんから一本の瓶を手渡された。
母さんは何も言わなかった。
ただ笑顔で、本当に温かな笑顔で、僕の手にそれを握らせた。
すぐに父さんが戻ってきた為、中身を確認せずにそれをポケットに突っ込んだ。
11時45分。
父さんと母さんと、僕と雅人。
4人で居間で対峙していると、父さんが僕を力強く抱きしめた。
「叶人、お前の事を愛している。心から愛しているよ。お前は小さい頃から、とても優しくて、周りに気を遣う事が出来る素敵な子だ。お前は、本当に素晴らしい子だ。父さんも母さんも、お前のような息子がいる事を、心から誇りに思う」
父さんの温かな声が、僕の心に沁み渡ってくる。
父さんは僕を離すと雅人へと向き直った。そして僕は、母さんの腕の中にいた。
「ああ、私の可愛い叶人。愛しているわ。もしもあなたが、自分は愛されて無いんじゃないかなんて事を考えているのなら、そんな事は一切無いからね。母さんも父さんも、本当に心から、あなたを愛しています。私の叶人、可愛い叶人……。あなたは私の誇り。私のところへ生まれて来てくれて、そして沢山の素晴らしい思い出を、本当にありがとう」
母さんの柔らかな声と、その想いに、僕は嬉しさと共に、申し訳無さで一杯になって、涙が次から次へと溢れて来た。
こんなに想われていた、こんなに愛されていた、なのに、僕はまだ何の恩返しも出来ていない。
雅人も父さんに抱きしめられながら、溢れ出るものを抑えきれないでいた。
いつまでも、いつまでもこうしていたいのに、時間は無情にも過ぎ去ってしまう。
僕達がどれだけ泣きじゃくっても、母さんも父さんも、穏やかな笑顔のままだった。
まるで最期の思い出を、笑って迎えようと堪えているように……。
そろそろか、と言う父さんの呟きに、僕達は肯き、雅人の部屋へと移動した。
12時の直前に、母さん達の笑顔を残り香に、その扉はゆっくりと閉められ、ガチャリと、重い鍵のかかる音がした。
これから3日間、この扉が開く事は決して無い……。




