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ああ、ホモの世界に光が満ちる

誰がいつ、幼馴染は女の子だと決めた……?


 「おはようマーラ! 今日も絶好の登校日和だな!」

 

 「あぁおはよう。相変わらず朝から元気だな」

 

 格子戸を開けると大きな声で挨拶されるのはいつもの事である。

 

 玄関先にいたのは魔羅が良く知る人物だった。

 

 ふわふわした栗色の髪。さらさらで弾力のある肌。ちっこい体はリスのような小動物を思わせ、その小さな顔には愛くるしい笑顔が満面に浮かんでいる。くりくりとした瞳は世の中の汚れを知らない童女のようで、見慣れた魔羅でもときどき見入ってしまうくらい澄んでいる。

 

 弓削万里ゆげばんり。魔羅の親友であり、幼馴染でもある。横に並んで歩くと絶対に同年代には見えないと巷で有名である。それは万里が童顔だからであって、自分が老け顔だからで決してない……そう信じたい魔羅であった。

 

 「にへへ。それは当然だ。大好きなマーラと朝から一緒にいられるのだから、笑顔になるのは至極当然。自明の理というやつだ!」

 

 「へいへい……友達としてその気持ちは受け取っておく」

 

 「相変わらずつれない態度だなぁ……もう少し頬を染めるなり何なりしてくれれば僕はもっと元気になれるというのに」

 

 今以上に元気になられても対応に困ると魔羅は鼻で息をつくと、さっさと歩き始めた。

 

 「話すのは歩きながらでもできるだろ。ほら、さっさと行こうぜ」

 

 「うむ!」

 

 魔羅たちが通っている公立男根おとこね高等学校、通称男高おとこうはここから結構な距離があり、徒歩だと到着するのにだいたい一時間ほど必要になる。もう少し近くに高校があれば良いのだが、生憎と山頂に我が家のある反勃家に最も近いの男高なのだった。


 あと名前で勘違いされることが多いのだが、男高は男子高ではなく共学である。

 

 ちなみにバスで向かうという手段もあるがそれは選択肢から除外されている。昼食をゆで卵一つで我慢している苦学生の魔羅にはバス代なんて払える金額ではないのだ。

 

 「なぁ万里。前から言ってるけどよ、わざわざ俺の家まで迎えにこなくてもいいんだぞ。お前の家からだと学校とは逆方向になるだろ? 俺が行く時に声かけるから、それまで家で待ってろよ」

 

 「何を言うかと思えば、だな。僕は好きでマーラを迎えに行ってるんだ。僕は好きな人を待つより、迎えに行くタイプなんだ。幼馴染なんだからそれくらいわかるだろう?」

 

 「そりゃまぁ、わかるが……あと好きな人言うな」

 

 抱きついてこようとする友人の頭を掴んで無理やり引き離す魔羅。それでも決して掴んだ裾を離そうとしないのは流石と言うべきか。万里は幼い頃から魔羅の事が大好きで、毎日一緒にいたと言っても過言ではないくらい親密な関係だった。あくまで友人として、だが。

 

 抱きつきを拒絶された事に頬を膨らませていた万里だが、何かを思い出したようでくいくいと魔羅の裾を引っ張った。

 

 「なぁなぁマーラ、知ってるか? 明日僕らのクラスに転校生がやってくるみたいなんだ」

 

 「へぇ。それはまた急なお話で。その話は天子から?」

 

 「うむ。天子のやつが昨日の晩にメールをくれたんだ。マーラは携帯電話を持ってないからメールで伝えられないって嘆いていたぞ?」

 

 天子というのは、フルネームで大縣天子おおあがたてんこ。魔羅たちのクラスメイトであり、魔羅とは中学校から続く友人である。有益無益関係なく様々な情報を集めてはそれを語りたがる凄まじくおしゃべりな少女で、その情報収集能力と熱意は馬鹿馬鹿しいくらいに高い。ただ、人の嫌がりそうな情報は自分からは口にしない為、悪質なゴシップ記者のように周りから嫌われてはおらず、むしろその行動範囲の広さからかなりの交遊関係を持つ人物だ。ちなみに、彼氏持ち。

 

 「携帯電話ねぇ……持っているだけで金を取られるとか悪魔の機械だろあれ……」

 

 多くの人が楽しそうに扱っているあの機械が魔羅には悪徳業者からの刺客にしか見えないと言うと、万里はひくひくと口元をひきつらせて笑っていた。魔羅自身でも今の世の中、携帯電話は持っておくべきなのは理解している。理解してはいるのだが、手が出なかった。所持しているだけでなけなしのお金が搾りとられていくと考えただけでげんなりしてしまうのだ。

 

 「それにしても転校生か……どんなやつなんだろうな」

 

 男だろうか。それとも女だろうか。俺個人としては女子の方がとても嬉しいと考えていると、魔羅は隣から針のような視線を感じた。

 

 「……マーラ、何か破廉恥な事を考えているだろう。僕にはわかるぞ」

 

 「破廉恥なんて言いがかりだな。男として至極健全だと思うぞ」

 

 「マーラの健全はつまり性欲全肯定で不純異性交遊万歳って意味だから信用できない。まったく僕という生涯の伴侶がありながら他の人に目が行くなんてマーラはどうかしてるよ……」

 

 「勝手に人さまの伴侶になってんじゃないよ。俺にだって相手を選ぶ権利はある」

 

 「ないよ! 岩タイプみたいな外見のマーラに相手を選ぶ権利なんてあるわけないだろう!」

 

 「おまっ!?酷い! なんて残酷な事を言うんだお前は! 岩タイプには恋愛の自由が許されてないとでも言わんばかりの発言だぞそれは!」

 

 「あの、さ……だからマーラは僕のお嫁さんって事で最終結論だ。その……大切にするからな?」

 

 「なにとち狂ったことを口走ってるんだお前は……」


 言葉のナイフで繊細なハートを滅多刺しにされて涙ぐむ魔羅の隣で、万里は自分の言葉に照れているのか恥ずかしげに頬を朱に染めながら体をくねらせている。その姿に軽く怒りを覚えながら、今なら殴っても万人に許される気がすると魔羅は思った。万人が駄目でも、岩タイプの同士なら必ずや同意してくれるだろう。とも。

 

 空を仰ぐ。降り注ぐ陽光が温かく、今が春だと実感させてくれる。きっと万里もこの春の陽気にやられて頭がお花畑になったのだろう。殴れば直るだろうか。

 

 「ってあれは!」

 

 「どうかしたのか?」

 

 視界に映ったのは道端にキラリと輝く小さな物体。万里に返事する時間も惜しみ、急いで飛び込んでその物体を確認すると予想通りに五百円玉だった。

 

 「お、おぉぉぉぉぉこれこそ神の施しか。これで今日の昼飯がゆで卵から定食にランクアップする! お金を落とした人にはごめんなさい。ありがたく五百円使わせて頂きます!」

 

 「ま、マーラ……あんまりそんな姿勢でいると……」

 

 「うどん定食にしようか。いや日替わり定食も捨てがたい」

 

 「そんな四つん這いで……僕を誘うみたいにお尻をふりふりされると……」

 

 「ちょっと待ってくれ万里。俺は今日の昼飯を決めるのに急がし――――」

 

 降って湧いた幸運に、魔羅は冷静さを失っていた。四つん這いの姿勢のまま昼食のメニューを何にしようか考えていると、急に誰かに尻をがっしり掴まれた。誰かといってもこの辺りには自身と万里しかいない。

 

 「……どうした万里。急に尻なんて掴んで? あぁそうか。昼飯は歩きながらでも考えられるよな。悪い悪い」

 

 確かにこんな姿勢のまま考える事でもなかった。冷静さを失っていたとはいえ、恥ずかしい姿を晒してしまった。冷静さを取り戻した魔羅はさっさと立ち上がろうとして……無理だった。

 

 「なぁ。尻を押さえつけられたままだと立ち上がれないんだが」

 

 むにっと。

 

 ズボン越しに、妙に弾力のある生温かい物が魔羅の尻に押し付けられた。


 嫌な汗が一筋、額から零れる。

 

 「はぁはぁ……マーラぁ……」

 

 「何を……しているのですか万里さん……?」

 

 「マーラが悪いんだからな……あんな風にお尻を振って僕を誘惑して、こんな朝から、それもこんな外でなんて……あんっ! で、でも、マーラに誘惑されたら僕……我慢なんてできるわけないだろぉ! あふぅっ」

 

 尻に押し付けられた物体がむくむくと大きくなっていく感触が布越しでもわかった。まるで水を吸って大きくなるスポンジのように急速に御立派になっていくそれは、同様に魔羅の中の恐怖をむくむくと膨れ上がらせる。


 後ろを振り向くのが、怖い。


 できることならこのまま四つん這いのままでも駆け出して逃げ出したい魔羅だったが、がっしりと臀部を掴まれたままではそれすら不可能だった。外見からは想像もできないような膂力で魔羅の尻はホールドされ、否が応にも押し付けられた物体の感触を味あわされていた。

 

 (落ちつけ俺。まだ慌てるような時間じゃない。そう、深呼吸だ。呼吸を整えてから振り向けば、どんな光景が目に映っても冷静に対処できる)

 

 「ひっひっふー。ひっひっふー! よし!」

 

 意を決して背後を振りかえると、尻に股間を押し当てている万里の姿があった。


 親友の股間はしっかりとエレクチオンしており、冗談やそういった類のものでは残念ながらなかった。

 

 「ですよねー!!」

 

 予想通りすぎて魔羅の瞳から我知らず涙が零れた。

 

 「どっせい!」


 魔羅は四つん這いの姿勢から無理やり両足を空中に浮かせ、呆けたように目をとろんとさせた親友の腹部に思いっきり叩きつけた。

 

 「あふん」

 

 勢いよく吹っ飛んで道路を転がる万里を確認してから、魔羅は蹴った反動を利用して立ち上がって走りだした。


  「ケホッ、待つんだマーラ! まだ夫婦の営みは終わってないんだぞ!」

 

 「そんなもの始まりもしないわ!」

 

 (ちくしょう! 本気で蹴りつけたはずなのに大してダメージを負った様子がない。流石は男高の柔道部最強というべきか)


  胸中で悪態をつきながら、魔羅は背後に迫る親友の事を分析する。

 

 弓削万里。友達が少ない魔羅の、幼少からの大切な親友で幼馴染。外見に似合わず男高が誇る全国大会常連の柔道部に所属しており、二年生ながら部内最強を誇るつわものである。道を歩けば誰もが振り向くような可愛らしい外見で、小学校、中学校、高校と一緒の学校で過ごしてきた魔羅は親友がよく告白されている事を知っている。インテリそうなイケメンや、スポーツマンっぽいイケメン、金持ちなイケメン、身の程を知らないブサメン等々……多くの男たちに告白されていたのを目撃したこともある。そして彼らへの返事はことごとくNoだった。理由は好きな人がいるからの一点張りで、無理やり関係を迫ろうとする輩は万里に返り討ちにあって病院送りにされている。

 

 (分かっている。分かってはいる。あいつが好きなのは俺だ。小さな頃からあいつは俺に対して好きだ好きだとよく口にしていた。その気持ちは嬉しくはあるし、断る事で万里を傷つけたくはない……だけど、だけどなぁ!)

 

 「マーラ、潔く僕の愛を受け取ってくれ!」

 

 「俺は男で、お前も男だろうがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 


 そう、弓削万里は男だった。


 男である。男性である。マンである。染色体はXYである。決してXXではない。


 外見は美少女に見えようが、男なのだ。実のところ魔羅が幼い頃は万里が男であると知らず淡い恋心さえ抱いていたのだ。初恋の相手と言ってもいい。そしてその初恋の相手が自分と同じ性別であると知った時の絶望感といったら…………。そしてその相手から自分に、本来は異性に向けるべき感情を向けられていると知った時の言葉にならない気持ちは説明できるものではない。


  (ちくしょう! それもこれも、俺を蝕む呪いが悪いんだ!)


 あの悪夢の日。シヴァ様にかけられた呪いはあれから変わらず今も魔羅の人生をむちゃくちゃにしている。


  男尻だんじりという名の、我が身を苛み続ける呪い。


 どういった仕組みか分からないが、シヴァ様によると魔羅と相性が良い(精神的にも肉体的にも)同性には、魔羅の尻が大層魅力的に映る呪いだという。それこそ無理やり押し倒してぬっぷししたくなるくらいに。

 

 だからこそ魔羅は己を鍛えた。たとえ衆道しゅどうに狂った相手が襲ってきても撃退できるように。魔羅も悪いとは思っているのだ。相手も好きで自分の尻を狙っているのではなく「男尻」の呪いが原因で襲ってきているのだから。


 だが想像してほしい。欲情に狂った同性が自分の尻を狙って襲ってくる光景を。蹴っても殴っても荒い息を繰り返してにじり寄ってくる同性を。


 道路で。


 学校で。


 公共施設で。


 公園のトイレで。


 どんな場所でも油断できず、周りの視線を過敏とさえ呼べるくらいに気を配る毎日。


 幼い頃に見知らぬ男から無理やり襲われた時の事は、魔羅にとって今でも夢に見るくらいに恐ろしい心的障害トラウマだ。その時は父親が助けてくれて事なきを得たが、あと少しでも遅れていれば魔羅の菊はものの無残に散らされていただろう。

 

 今では魔羅も唐突に襲ってくる男たちを簡単にいなせる程度には成長している。しかし問題はそれだけではなかった。男尻の呪いは、魔羅と万里の友情の間にも入り込んでいたのだ。


 昔から甘えたがりで魔羅にべったりだった万里だが、中学校に入学した頃から様子がおかしくなっていた。いきなり尻を撫でてきたり、背後から抱きついてきたり、さっきのように露骨に股間を押し付けてくる事もあった。他の人物がこんなことをしてきていたらきっと交遊関係なんて破滅して絶対に疎遠になる自信が魔羅にはあったが、万里が相手だとそうはいかない。   


 (万里は、呪いが恐ろしくて引きこもる俺をずっと説得して更生させてくれた親友で、恩人なんだ。嫌いになれるわけがないだろう?)


 絶対に嫌いになれない、大切な人間なのだった。

 

 「大丈夫。優しくするから! 先っちょだけだから!」

 

 「うるせーよ!! 何が先っちょだけだ!」

 

 そんな恩人も、こんなに変わってしまった。だがいつか自分が呪いを克服すればこんな歪な関係を正せると魔羅は信じている。信じたい。そう切に願った。

 

 「あ、わかった。わかったぞマーラ! そんなに心配しなくてもゴムならちゃんと用意してブフゥ!」

 

 「それ以上いけない!」

 

 危険な発言を最後まで言いきらせる訳にはいかず、道路の端に転がっていたコンクリートブロックを背後の変態に投げつける事で回避する。だがそれもわずかな時間稼ぎにしかならないようで、顔面に直撃したにも関わらず数秒もするとむくりと起き上がり恐怖の鬼ごっこは再開された。鼻血すら出ていない親友の頑丈さに驚き、僅かにだが足を止めてしまった事を魔羅は悔んだ。

 

 「ってそんなことで感心している暇なんてない! くっそ、少しでも距離を離さないといつ追いつかれるか分かったものじゃない」

 

 これまでの経験上、学校に到着する頃には万里が冷静さを取り戻す事は分かっている。つまり学校に到着さえすれば魔羅は後ろの貞操を守る事ができる。


 後方からは切なそうに魔羅の名前を呼ぶ声が聞こえていたが、無視。


 後ろを振り返る暇すら惜しいのだ。というか、朝方からそんな声を出さないでほしいと切実に思う。この辺りは山の中腹なので民家はほとんど見当たらないから良いものの、これが住宅街だと奇異の目で見られる事は必須。しかも万里は外見だけなら間違いなく美少女として通用するので、周りからすると関係を迫る女の子から逃げる男という構図が完成する。どんな恥さらしだと思わないでもないが、万里が普通に男の容姿をしていたら、関係を迫る男から逃げる男という構図が出来上がるわけである。


 (そっちの方が不味い気がする……)


 げんなりしていると、背後にあった万里の気配がさっきより近づいていた。馬鹿な事を考えていたせいでスピードが落ちていたのが原因だろう。


 (なんてしょうもないミス! このままじゃ俺の腹の中がパンパンにされてしまう可能性が高い。いや、尻をパンパンされると表現した方がいいのか)


 その光景を僅かにだが想像してしまい。魔羅はぶんぶんと頭が取れるんじゃないかと心配になるくらいの速度で首を振った。

 

 (アッー! だけは避けたい……それだけは避けなければ……何か、何か手はないか)


 周囲を見回す。あるのは山の麓まで続く道路に、転落防止のガードレール。身を隠せるような場所はない……絶望的だ。現状を打開できそうなものが見当たらない。


 「にへへへへへへ。恥ずかしがって逃げるなんて可愛いなぁマーラは! 初めて同士だけど、ちゃんと僕がリードするから心配しなくていいだぞ? ちゃんとそれ用の雑誌で勉強してるんだからな?」


 「だー黙れ黙れだまれー!」


 「ツンデレなマーラ可愛いよ可愛い……はぁはぁはぁ」


 (やばいやばいやばい)


 すぐ背後から変態の荒い息遣いが聞こえる。禍々しい気配がすぐそこまで迫ってきている。このままではいけない。あまりの恐怖に歯がガチガチと鳴り始めた。

 

 (何か……何かあるはず……そうだ、ガードレール!)


 車の転落防止のために設置されたガードレール。その先にあるのは、コンクリートで補強された急斜面。これを利用できさえすれば…………。


 「つーかまーえた!」


 「許せ万里! これはお前の為でもあるんだ!」


 「え?」


 魔羅は背後から飛び掛かってきた万里の頭を掴むと、その勢いのままガードレールに叩きこんだ。そのあまりの威力にガードレールは万里の顔型にへしゃげ、さすがの万里もがっくりと膝を屈した。


 魔羅自身はと言うと、ガードレールを飛び越えて足場を失っている最中である。急な斜面だと思ってはいたが、まさかここまで直角に近い斜面だとは想像していなかったのだ。


「いやぁ参った参った。HAHAHA! …………いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 脳裏に浮かぶのはこれまで遭遇してきた自分の過去の記憶。まるでDVDを超高速で逆再生しているかのように過去のシーンが流れ去っていく。そのあまりの速度が逆に遅く感じる事が恐ろしかった。


 人間は命の危機に直面すると、凄まじい思考速度で過去を振り返る事がある。人それを走馬燈という。知りたくもなかった走馬燈の実態に触れ、魔羅は心の中で泣いた。


 「嫌だー! 死にたくなーい!!」


 とんでもない速度で風を切る音が聞こえる。ばたばたと短い髪が狂乱し、重力に引かれて落下していく感覚を怖気と共に感じた。血の気が引くとはまさにこのことだ。足場がないのがここまで恐ろしいとは。


 「ぬぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」


 両腕を動かし、体勢を変える。直角に近い斜面に足をつけ、駆け下りるように落下……ではなく落下するように駆け下りる。地面に足がついているより空中に浮いている時間の方が長いが、決して落下しているのではない。断じてない。


 (そんなことより気をつけないといけないのは……!)


 足元にある、斜面を補強しているコンクリート。正方形の形をした凹凸のあるブロック状のコンクリートを敷き詰めているので非常に足場が不安定で、少しでも足を踏み外すと確実に転倒する。そして現状で転倒するというのはまさに地獄へ一直線と同義……一瞬たりと気を抜けない。


 尻を掘られるよりましだ。そう自分に言い聞かせながら、魔羅は麓まで駆け下りる覚悟を決めた。


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