神無山
パキン、と乾いた音と共に、黒い彼の前に置かれていた何か―――猫のものらしき小さな白い骨が折れた。
「―――おや。どうしたんだろう……ボクのかわいい妹に、何かあったみたいだ」
「みたいですねぇ。寿命?」
「……ふふ。いいや、寿命などボクの妹にあるわけがない。あるとすれば―――」
黒い彼の肩に留まって相槌を打っていた鴉の体を突然掴み、自らの目と鼻の先に持ってくる。今にも喰い殺しそうな彼の残虐な瞳の色に、鴉は声もない様子でただ、震える。
「ボクの大嫌いな、天命―――世界の、意志だよ」
そう言って突如飽きたように彼は鴉を解放したが、解放されてもしばらく、鴉の体は震えたままだった。
「―――あんたやな」
どこまでも灰色の風景。見慣れた―――否、見飽きたそれに変化が訪れたのは、前の魔女オルティアが死んでから10日程経ってからだった。
声を掛ければゆらりと、赤い青年が少年を見て―――そしてにこりと笑う。緋色の外套、赤い髪、そして蒼い瞳。魔女から聞いていた、彼の特徴と相違ない。……彼から受ける印象は、緋の悪魔という呼び名からは程遠いけれど。
「わいはこの山の番人みたいなもんや。そやからあんたがここを通るんやったら、先にわいを倒さなあかんで」
少年がそう言って両の腰にむき身のまま提げていた半月刀を構えると、赤い彼はゆっくりと自らの剣を抜いた。
「……手加減は、期待しないでくださいね。余裕が無いので」
「構わんよ。あんたからや、打ち込んで来ぃ」
青年の逡巡は一瞬で、次の瞬間彼は剣を思い切り少年の頭目掛けて振り下ろしていた。間一髪、両手の剣を使って受け止めるが、いくら青年が細いとはいえ体格差は歴然だ。少年は舌打ちした後後ろに跳んで距離を取る。
「なるほどな。確かにあんた強いわ」
「……確かに、と言うことは、貴方は僕を知っているんですか?」
「わいが素直に、教える思うんかあんた。甘いわ」
今度は少年から彼に飛びかかる。彼は下から彼の剣を振り上げ、少年の剣を片方弾き飛ばした。
「―――ッ」
剣を奪われ、少年が驚いて目を見開いたとき―――
赤い彼は、雪のなかにどさりと倒れ込んでいた。
「……あんた、死にたいん?」
少年の呆れた声に、ベッドを占領していた彼は苦笑した。確かにそう言われても反論できない。
特に着込むでもなく、山へと足を踏み入れたのは紛れもなく彼なのだから。
「わいはここに10年おるさかい慣れとるけどな、あんた山の寒さ知らんでここに来たやろ。生きとる方が不思議なくらいやで。幸い、凍傷にもなってへんみたいやしな」
慣れた手付きで彼を介抱する少年は、呆れた声で続ける。
「ま、そんな状態でわいから剣一本取ったんや。緋の悪魔って名前は伊達じゃないみたいやな」
「……そうですか? 僕はこれ以上、強くなりようがありませんし……強さなら、君の方が上でしょう」
「そりゃ、わいは魔女のなり損ないやからなぁ。そこらの雑魚にやられるほど弱かったらあかんやろ。―――やなくて、」
少年はほい、と器を差し出してきた。
「とりあえず食えや。今あんたを死なしたら、わいがトリに怒られてまうねん」
「……トリさんに?」
「言うたやろ? わいは魔女のなり損ないや。そやからモノとトリとはちょくちょく連絡取り合っとんねん。あぁそや、わいんとこ来たでーって連絡せなあかんのやった」
少年は言いながら自らの白髪を一本抜くと、それにふっと息を吹きかけた。途端に髪は小さな―――
「……猫?」
「そや。わいの分身」
得意そうに言った少年の手には、小さな白猫が乗っている。
「ほな、モノとトリのとこまで伝令頼むで。緋の悪魔到着やでー、ってな」
了解した、と言うように猫はにゃあ、と一度鳴いて、少年の手から飛び降りた。
「……え?」
跡形もなく消えた猫に彼が声を上げるが、少年は事も無げに言う。
「わいの猫はそこらの猫とちゃう、魔女の猫や。一瞬で魔女の家まで行くのなんてわけないわ。それよりあんた、食わんの?」
「あ。すみません、いただきますね」
「不味いかもしれへんけどな」
少年の言葉とは裏腹にそれはとても美味しく彼には感じた。あるいは―――ざっと、一週間ぶりの食事だったせいかもしれないが。
「ところで―――貴方のお名前を、伺っても良いですか?」
「あれ、わい言うてへんかった?」
彼が首肯すると、少年はひょいと椅子から降りて先程の剣を抜き、
「わいは白の魔物、ジューノ=パーシキヴィや。カッコええやろ?」
ビシッと剣先を彼に向けてウインクした。
「……貴方は……」
彼が何とも言えずに絶句していると、何をどう思ったのか少年は頬を赤らめて乱雑に剣を戻し、椅子にどかっと座った。
「なんや反応悪いで、あんた。カッコ悪かったんなら笑うてくれな」
「あぁ、いえ……カッコ良かったですよ。僕には真似できません」
そう苦笑すると、少年はまだ赤い頬を叩きながら首を傾げた。
「何で? やればええやん。わい緋の悪魔ってカッコええと思うし」
「いやぁ……キャラじゃないですよ。僕、赤って嫌いですし」
「……赤い目のわいに対して喧嘩売っとるやろ、あんた」
半眼で問いかけられて、彼は慌てて首を振った。
「貴方のそれは綺麗ですから良いんです。でも僕のこの髪は……父親を殺した、罪の証ですから」
「何や暗いなぁ……。罪は罪、あんたはあんた。別もんやで? てゆーか、おもろないやん、そんなん。毎日目にするもんなんやで? 好きでおったが絶対ええわ」
そや、手ぇ出してみぃ、と言われ、少年に向かって手のひらを差し出すと、少年は彼の手のひらに自らの白くて小さな手のひらを重ねてニィ、と笑った。
「これでもわい、一時は魔女の後継の一人やってんで? あんたの記憶、わいが預かっとったるわ」
「え、ちょっと、待っ……」
「待たん」
楽しげな少年の声を最後に、彼の意識はぷつりと途切れた。
白猫が足にすり寄ってきたのに気付いて、知識の魔女はふっと笑みを頬に浮かべた。
「―――モノ。彼は無事、テトラのところに着いたらしい。山のことだけは見られないからな……助かる」
「本当!? やったぁ、今日はお祝いだね!」
「この阿呆が。今祝ってどうする」
「モノ阿呆じゃないもん! トリのばーか!」
「モノにだけは言われたくないな」
呆れ顔でそう返す知識の魔女に対して、託宣の魔女はぷぅっと頬を膨らませた。
「だってトリ、世界はまだ望んでないんだよ? 彼が山を越えることを」
「―――なんだと?」
一段低くなった知識の魔女の声にちらりと白猫を見ながら、託宣の魔女は続ける。
「テトラも聞いてね。世界はまだ彼が山を越えることを望んでない。彼はまだ、山を越えちゃいけないの。なのに彼はテトラの所に着いた―――」
「……どういうことだ、モノ。これから何が起こる?」
「まだ分からない。吉と出るか凶と出るか……でもまだ、彼が邪魔にはなってないよ。世界はまだ、彼を殺そうとはしてない。今はね」
無邪気なモノの笑顔に溜め息を吐き、トリは白猫に向き直った。
「テトラ、聞いていたな?」
聞いてたでー、とこちらも能天気な返事が返ってくる。
「しばらく様子見に徹しろ。私もモノもしばらく忙しいが、何かあったらすぐに連絡を」
何やおもろないわー、とふてくされた声が返ってきて、知識の魔女は目を三角にした。
「余計な真似はするなよ。世界もだが、彼の父親が何をしてくるか……」
でもわい、もう喧嘩売ってもうたで?
あまりにもあっけらかんと付け加えられて、知識の魔女は自らの耳を疑った。
「……何をした?」
緋の悪魔の記憶、預かっとんねん。ガキの頃の。
「この馬鹿……!」
「待ってトリ。テトラ、いつからいつまでの記憶?」
生まれてからしばらく……10年くらいやと思うけど。
「なら、こっちから連絡するまで返しちゃダメ。トリ、悪霊封じをテトラに教えて。それでひとまずは大丈夫」
「……仕方ない。頼むぞ、テトラ」
任しときぃ、と猫が鳴いて、ふらりと姿を消した。知識の魔女トリや託宣の魔女モノよりもある意味魔女らしいなり損ない。味方にするのは心強いが、敵に回すと最悪の相手だ。気分屋な奴に彼を任せるのは多少不安が残るが、少なくとも今は、奴は彼を気に入っているらしい。
「まぁ……最悪は免れたか」
知識の魔女はひとつ頭を振って、また情報の整理を始めた。
いくつか補足を。
1 ジューノ=パーシキヴィとテトラは同一人物です。
2 テトラはアルビノの少年です。
冒頭に出てきた黒い彼と鴉はまた後ほど出てきますのでしばらくお待ち下さい。