私が泣かない妻だった理由を、あなたは知らない
私が泣かない妻だった理由を、あなたは知らない
十一月の乾いた風が吹き抜けるたび、中庭の隅にある古い温室のガラスが、カタカタと微かに軋んだ。
庭師たちが鉄の支柱を外す鈍い音が、冷たい土の上に響いている。
ヴィオラ・ヘイゼル伯爵夫人は、二階の寝室の窓辺に立ち、解体されていく小さな温室を静かに見つめていた。
二十六歳の彼女がこの屋敷に嫁いで、四年になる。
温室の屋根を覆っていた蔦は引き剥がされ、曇ったガラスが一枚、また一枚と外されていく。白く塗られた鉄の骨組みが、冬の薄い空の下に剥き出しになっていた。
その奥には、大きな陶器の鉢に植えられた白山茶花がある。
亡き母が、嫁入りの日に持たせてくれたものだった。
「知らない土地でも、花は咲くものよ。寂しくなったら、この子の世話をなさい」
母はそう言って笑った。
その母も、今はもういない。
ヴィオラが窓枠に指を置いた時、背後の扉がノックもなしに開いた。
「ヴィオラ、まだ支度ができていないのか」
入ってきたのは夫のエドガーだった。
仕立てのよい濃紺の上着を身にまとい、磨き上げられた革靴を履いている。三十歳という若さで王立農務局の要職に就く彼は、いつでも理知的で、迷いのない足取りをしていた。
「申し訳ありません。すぐにコートを羽織ります」
「頼むよ。今夜の晩餐会には閣下のご親族も多くいらっしゃる。急に決まった宴だが、君なら完璧に差配してくれると信じているからね」
エドガーは鏡の前でタイの歪みを直した。
昨晩、ヴィオラが磨いておいた銀の懐中時計を取り上げ、満足そうに蓋を閉じる。
「……あの、エドガー様」
「何だい?」
「中庭の温室ですが」
ヴィオラは窓の外へ視線を戻した。
「本当に、取り壊してしまうのですか」
「ああ、あれか」
「母の形見の白山茶花もありますし……あそこは、私にとって大切な場所なのです」
エドガーは窓の外を一瞥した。
「あの温室はもう古いだろう。ガラスも曇っているし、柱も傷んでいる。あそこを取り壊して、来客用の馬車回しを広げるんだ。今度の叙勲が済めば、我が家を訪れる客も増えるからね」
「ですが、私は……」
「山茶花なら、庭師に別の場所へ移してもらえばいい」
「そういうことではなくて」
ヴィオラは言いかけて、唇を閉じた。
エドガーが少し困った顔をしたからだ。
「ヴィオラ。君があそこを気に入っているのは知っているよ。だが、屋敷全体のことを考えてほしい。君だって伯爵夫人なのだから」
その言葉に、ヴィオラは俯いた。
伯爵夫人なのだから。
この四年間、何度聞いたか分からない言葉だった。
「それに」
エドガーは彼女の肩に、ぽんと軽く手を置いた。
「君は昔から、本当に物分かりがよくて強い女性だ。つまらないことで泣いたり、理屈の通らない我が儘を言ったりしない。僕がどんなに無理な頼み事をしても、いつも笑顔で受け止めてくれる」
その声は優しかった。
少なくとも、エドガー自身は優しく語りかけているつもりだった。
「君のような、決して泣かない妻を持てて、僕は本当に誇らしいよ」
泣かない妻。
その言葉が、ヴィオラの胸の真ん中に冷たい鉛の塊のように落ちてきた。
エドガーは微笑んでいる。
心から妻を褒めているのだろう。
彼にとって、ヴィオラが涙を見せないことは、彼女が傷ついていない証拠なのだ。
「……ええ」
ヴィオラも微笑んだ。
頬の筋肉が凍りついたように強張っていたが、エドガーは気づかなかった。
「私は、泣きませんものね」
「そうだろう? 君なら分かってくれると思っていたよ」
エドガーは満足そうに頷いた。
「さあ、馬車が来る前に階下へ降りよう」
扉が閉まる。
廊下を遠ざかっていく靴音が聞こえなくなるまで、ヴィオラはその場を動かなかった。
やがて、窓の外からガラスの割れる音がした。
温室の屋根に残っていた一枚が、作業中に砕けたのだろう。
ヴィオラは目を閉じた。
泣かないのではない。
ただの一度だって、平気だったことなどなかった。
*
結婚して四年。
小貴族の娘だったヴィオラは、名門ヘイゼル伯爵家に嫁いだその日から、よい妻であろうと努力してきた。
家政を覚え、使用人たちの仕事を把握し、親族の好みを記憶し、夫の出世に役立つ人脈を整えた。
エドガーの母が突然客人を連れてきても、食卓に不足がないようにした。
親族が晩餐会の席次に不満を述べれば、何時間でも頭を下げた。
義母が自分の失敗をヴィオラの責任にした時も、夫の立場を考えて黙っていた。
『田舎出の娘に、名門の家政が務まるのかしら』
『四年も経つのに跡継ぎの一人も産めないなんて』
そんな言葉を浴びせられるたび、胸の奥が小さく裂けた。
一度だけ、ヴィオラはエドガーに訴えたことがある。
結婚して間もない頃だった。
義母から人前で叱責され、部屋へ戻っても手の震えが止まらなかった夜。
「エドガー様。お義母様に、あのようなことを言われるのは……少し、つらいのです」
エドガーは書類から顔を上げた。
そして、困ったように眉を下げた。
「すまないね、ヴィオラ。母上も悪気があるわけじゃないんだ」
「ですが……」
「君はしっかりしているから、適当に聞き流せるだろう? 母上も年を取って、少し気難しくなっているだけだよ」
そう言って、彼は再び書類に目を落とした。
話は終わったのだ。
ヴィオラはその時、初めて知った。
自分がつらいと告げると、夫は困るのだと。
そして、夫を困らせないことこそが、よい妻の務めなのだと。
それから彼女は、夫の前で泣かなくなった。
泣いてしまえば、彼が誇りに思う「物分かりのよい、強い妻」ではなくなってしまう。
いつか呆れられ、見放されてしまうかもしれない。
そんな恐れが、いつも胸の底にあった。
だから、ヴィオラは泣く場所を探した。
誰も近づかない、中庭の隅の古い温室だった。
ガラスの継ぎ目から冷たい風が入り、床には湿った土の匂いが漂っている。
冬は指先がかじかむほど寒く、夏は息苦しいほど暑かった。
けれど、そこには誰もいなかった。
誰からも伯爵夫人らしい振る舞いを求められず、誰の機嫌も取らなくてよかった。
ヴィオラは白山茶花の鉢のそばにしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
声を殺して泣いた。
義母の言葉が悲しかった日も。
徹夜で宴の準備を整えたのに、夫から労いの一言もなかった夜も。
子どもを授からないことを責められ、自分でもどうしようもない苦しさを抱えた日も。
あの温室でだけ、ヴィオラは泣くことができた。
泣き終えると、隅に置いた水桶で顔を洗った。
目元の赤みが引くまで待ち、鏡代わりのガラスに自分の顔を映して、何度も微笑む練習をした。
そうして、何事もなかったように屋敷へ戻る。
「ヴィオラ、今日も忙しかっただろう」
夫がそう声をかければ、いつものように答えた。
「いいえ。私なら大丈夫です」
そのたび、エドガーは嬉しそうに笑った。
「本当に君は強いね」
ヴィオラも笑った。
泣かない妻でいれば、夫は喜んでくれたから。
あの温室は、花を愛でるためだけの場所ではなかった。
ヴィオラが息をするための、たった一つの逃げ場だった。
そして今、その場所が壊されようとしている。
彼女は三日前、夫に温室の取り壊しを思いとどまってほしいと頼んだ。
昨日も、もう一度頼んだ。
そして今日、最後に頼んだ。
けれど、エドガーは一度も理由を尋ねなかった。
大切な場所だと伝えても、彼は聞かなかった。
ヴィオラは窓辺から離れた。
もう、この屋敷には泣ける場所がない。
それなら。
「……もう、いいのね」
小さく呟いた声は、誰にも聞かれなかった。
クローゼットから毛織りのコートを取り出し、袖を通す。
ポケットには、今朝早くに署名した一枚の書類が入っていた。
伯父に宛てて送った離縁の申し入れは、すでに承認されている。
あとは夫に届けるだけだった。
ヴィオラは鏡の前に立ち、いつものように口元を持ち上げた。
伯爵夫人らしい、穏やかな微笑み。
四年間で、すっかり上手になってしまった顔だった。
*
その夜の晩餐会は、非の打ち所のない成功を収めた。
料理の品書きも、季節の花の飾りつけも、客人の好みに合わせた席次も、すべてが完璧だった。
エドガーは上機嫌だった。
「ヴィオラ、今夜は見事だったよ。大臣もたいそう満足しておられた」
「それは何よりでございます」
「やはり君に任せて正解だった。僕の妻が君で、本当によかった」
ヴィオラは静かに頭を下げた。
「お役に立てたのでしたら、嬉しゅうございます」
その声は、いつもと変わらなかった。
帰りの馬車でも、彼女は穏やかに微笑んでいた。
エドガーは今後の昇進について語り、屋敷の改装計画について話した。
ヴィオラは時折相槌を打った。
「新しい馬車回しができれば、来年はもっと大きな宴も開けるだろう」
「そうでございますね」
「君にも、また忙しくしてもらうことになるが」
「……ええ」
ヴィオラは窓の外を見た。
夜の街道を、枯葉が風に追われて転がっていく。
「エドガー様」
「何だい?」
「これまで、ありがとうございました」
「ん?」
エドガーは笑った。
「どうしたんだ、改まって。こちらこそ、今夜は助かったよ」
ヴィオラも微笑んだ。
それ以上、何も言わなかった。
*
翌朝、エドガーは心地よい疲労感とともに目を覚ました。
時計の針は午前八時を回っていた。
いつもなら、サイドテーブルにはヴィオラが用意した温かなハーブティーが置かれている。
彼女自身がカーテンを開け、柔らかな声で「おはようございます」と告げる時間だった。
だが、今朝は違った。
隣の枕に、人のいた気配がない。
ハーブティーもない。
「ヴィオラ?」
返事はなかった。
エドガーはガウンを羽織り、寝室を出た。
ダイニングには朝食の支度もなく、執事のトマスが銀のトレイを抱えて立っていた。
老執事の顔色は青ざめていた。
「旦那様……」
「どうしたんだ、トマス。ヴィオラはどこだ? 昨夜は遅かったから、まだ休んでいるのかい?」
「奥様は……今朝、始発の乗合馬車でお発ちになりました」
「……は?」
エドガーは眉をひそめた。
「どこへ? 実家か? 急な用事でもあったのか」
「行き先は、お聞きしておりません」
「何だって?」
「奥様は、嫁入りの際にお持ちになった小さなトランク一つと、白山茶花の鉢をお持ちになりました。それ以外のお荷物は、すべて置いていかれました」
「山茶花……?」
エドガーの頭に、昨日の温室が浮かんだ。
トマスはトレイを差し出した。
その上には、白い封筒が一通置かれていた。
「こちらを、旦那様にと」
エドガーは封筒を取り上げた。
中には、几帳面な妻の筆跡で書かれた手紙と、離縁を申し入れる書類が入っていた。
妻の署名と、実家の後見人である伯父の承認印がある。
「……何の冗談だ」
声が掠れた。
「離縁だと? ヴィオラが?」
彼は急いで手紙を開いた。
『エドガー様。
四年間、お世話になりました。
あなたはいつも、私を「泣かない強い妻だ」と褒めてくださいましたね。
その言葉を聞くたび、私は嬉しく思おうとしていました。
あなたが喜んでくださるなら、強い妻でいなければならないと、そう思っていたのです。
けれど、私は強い人間ではありません。
本当は、何度も泣きました。
あなたの前で泣かなかったのは、悲しくなかったからではありません。
あなたの前では、泣いてはいけないと思っていたからです。
私には、泣く場所が必要でした。
あの温室だけが、私が誰にも気兼ねせず涙を流せる場所でした。
けれど、その最後の場所も、もうなくなってしまいました。
私はこれ以上、泣かない妻でいることができません。
どうか、離縁をお認めください。
温室の白山茶花を一鉢だけ、連れていくことをお許しください。
さようなら。
ヴィオラ』
読み終えても、エドガーはしばらく動けなかった。
泣く場所。
温室。
離縁。
それぞれの言葉が、頭の中でばらばらに浮かんでは消える。
「……何を言っているんだ」
彼は手紙を握りしめた。
「泣く場所が必要だったって……」
悲しかったのなら、言えばよかったではないか。
つらかったのなら、自分を頼ればよかったではないか。
夫婦なのだから。
そう考えた瞬間、昨日の妻の声が蘇った。
『本当に、取り壊してしまうのですか』
『あそこは、私にとって大切な場所なのです』
彼女は言っていた。
一度ではない。
三日前にも、昨日にも、そして今朝も。
それなのに自分は、何と答えた?
『君だって伯爵夫人なのだから』
『君なら分かってくれると思っていたよ』
エドガーの指先から、血の気が引いた。
「……トマス」
「はい」
「ヴィオラは……本当に、泣いていたのか」
老執事はすぐには答えなかった。
やがて、静かに頷いた。
「はい」
「いつだ」
「何度も、でございます」
「何度も……?」
「大奥様がおいでになった日も。旦那様が急に宴の準備をお命じになった夜も。奥様は、よく温室へ向かわれておりました」
エドガーは首を横に振った。
「そんなはずはない。ヴィオラはいつも笑っていた。つらいことがあっても、平気だと……」
言いかけて、口を閉じた。
平気だと、誰が決めたのだろう。
妻がそう言ったからか。
それとも、自分がそう信じたかっただけなのか。
トマスが低い声で続けた。
「私ども使用人は、奥様がおいでになる間、温室へ近づかないようにしておりました」
「なぜだ」
「……泣いておられましたので」
エドガーは息を呑んだ。
「中から、時折お声が聞こえてまいりました。奥様はいつも、私どもにお気づきになると、どうか誰にも言わないでほしいとおっしゃいました」
「なぜ……」
「旦那様に、ご心配をおかけしたくないと」
トマスは目を伏せた。
「そして、一度だけ……こうもおっしゃいました」
エドガーは顔を上げた。
「『私は強い妻でなければ、いけないのです』と」
部屋が静まり返った。
遠くで時計が時を刻んでいる。
エドガーは、自分の声を思い出していた。
『君は本当に強いね』
『君なら分かってくれるだろう』
『君のような、決して泣かない妻を持てて、僕は誇らしいよ』
何度言っただろう。
彼女が疲れた顔をしている時も。
義母から叱責された後も。
徹夜で書類を整えた翌朝も。
自分は、その言葉を褒美のように与えていた。
妻はいつも微笑んだ。
だから、自分は満足した。
「……僕は」
エドガーは椅子の背に手をついた。
「僕は、あいつに……」
言葉が続かなかった。
妻は、夫の前で泣けなかった。
四年もの間。
自分は一度も、それに気づかなかった。
いや。
気づこうとしなかった。
妻が泣いていないことにしておけば、自分はよい夫でいられた。
母の無礼を止めなくても。
妻に無理をさせても。
その苦しさを見なくても。
「……温室は」
エドガーが呟いた。
「温室は、まだ残っているか」
トマスは悲しげに首を横に振った。
「今朝から、最後の撤去作業が始まっております」
エドガーは弾かれたように駆け出した。
*
スリッパのまま、霜の残る中庭を走った。
冷たい土が足裏を痛めつけたが、構わなかった。
庭の隅では、作業員たちが瓦礫を片付けていた。
白い鉄の骨組みは倒され、砕けたガラスが冬の薄い朝日を受けて光っている。
蔦は枯草と一緒に積み上げられ、床に敷かれていた古い石も剥がされていた。
温室だった場所には、冷たい土が剥き出しになっている。
「待て!」
エドガーが叫ぶと、作業員たちが驚いて振り返った。
「作業を止めろ!」
「旦那様?」
「もう、壊すな!」
作業員たちは顔を見合わせた。
年嵩の庭師が、困ったように帽子を取った。
「申し訳ございません、旦那様。もう、ほとんど終わっております」
エドガーは辺りを見回した。
温室は、もうなかった。
昨日までそこにあった小さな建物は、白い鉄とガラスの破片になっていた。
母の形見の山茶花が置かれていた場所には、四角く土の色が違う跡だけが残っている。
エドガーは、そこへ歩み寄った。
足元に、古びた木の腰掛けが転がっていた。
片脚が折れ、泥に半分埋まっている。
妻が温室の隅に置いていたものだ。
そういえば、何度か見かけたことがある。
あんな古いものを、なぜ捨てないのだろうと思っていた。
腰掛けのそばには、小さな水桶があった。
縁が欠けた、何の変哲もない桶だった。
エドガーはそれを見つめた。
妻は、ここで泣いていたのだという。
泣き終えた後、この水で顔を洗っていたのだという。
自分に、泣いたことを知られないために。
エドガーは腰掛けを起こそうとした。
けれど、折れた脚は元には戻らなかった。
泥のついた木片を手にしたまま、彼は立ち尽くした。
ふと、昨日の妻の顔が浮かんだ。
『私は、泣きませんものね』
そう言って、微笑んでいた。
あの時、彼女の目は少しも笑っていなかった。
なぜ、気づかなかったのだろう。
いや、違う。
見ていなかったのだ。
妻がどんな顔をしているのか。
どんな気持ちで笑っているのか。
自分にとって都合のよい言葉を返してくれる限り、何も確かめようとしなかった。
エドガーは、ゆっくりと膝をついた。
冷たい泥が寝間着を汚した。
「……ヴィオラ」
名前を呼んだ。
返事はなかった。
「君は……」
何を言えばよいのか分からなかった。
謝りたい。
迎えに行きたい。
温室を建て直すと約束したい。
もう二度と泣かせないと、そう言いたかった。
だが、今になって温室を建て直したところで、彼女がここで流した四年分の涙は消えない。
何より、妻は温室が欲しかったのではない。
自分の前でも泣けるような、そんな暮らしを望んでいたのだ。
エドガーはようやく理解した。
妻が求めていたのは、立派な屋敷でも、伯爵夫人としての誇りでもなかった。
悲しい時に悲しいと言っても、嫌われないこと。
つらい時に助けてほしいと願っても、困った顔をされないこと。
ただ、それだけだった。
夫婦ならば、当たり前に与え合うはずのものだった。
「……僕の胸で、泣けばよかったのに」
掠れた声が漏れた。
そして、エドガーは自分の言葉に愕然とした。
違う。
彼女が泣かなかったのではない。
自分が、泣けない場所にしてしまったのだ。
夫である自分こそが、妻にとって一番涙を見せられない相手だった。
「ああ……」
喉の奥から、声が漏れた。
「ああ、ヴィオラ……っ」
エドガーは両手で顔を覆った。
堪えきれない嗚咽が、冷たい庭に響いた。
指の隙間から涙が零れ、足元の泥を濡らしていく。
妻は、ここで何度泣いただろう。
何度、誰にも知られないように顔を洗っただろう。
何度、自分のために笑顔を作っただろう。
その一度一度を、自分は誇らしく思っていたのだ。
エドガーは泣き続けた。
誰も、彼に近づかなかった。
作業員たちは遠巻きに立ち尽くし、老執事も屋敷の扉の前で目を伏せていた。
冷たい風が、壊れた温室の跡を吹き抜ける。
彼が今ようやく知った涙の冷たさを、妻は四年間、たった一人で耐えていた。
砕けたガラスは、もう元には戻らない。
そして、その涙を拭ってくれる人も、もうここにはいなかった。
*
その頃、ヴィオラは街道を走る乗合馬車の中にいた。
車輪が石を踏むたび、座席が小さく揺れる。
窓の外には、冬枯れの畑がどこまでも続いていた。
膝の上には、小さな白山茶花の鉢がある。
昨夜のうちに、庭師が根を傷めないよう丁寧に包んでくれたものだった。
白い花が一輪、まだ咲いている。
ヴィオラはその花びらに、そっと指を添えた。
行き先は、母の故郷だった。
伯父が暮らす小さな町で、しばらく身を寄せることになっている。
その先のことは、まだ決めていない。
伯爵夫人ではなくなった自分に、何ができるのかも分からない。
離縁が正式に認められるまでには、まだ時間がかかるだろう。
きっと、楽なことばかりではない。
それでも。
窓の外を見つめていると、胸の奥に、今まで感じたことのない静けさが広がっていった。
もう、誰かの顔色をうかがって笑わなくてもいい。
悲しい時には、悲しいと言っていい。
疲れた時には、休んでもいい。
そう思った途端、目の奥が熱くなった。
一粒の涙が、頬を伝った。
ヴィオラは慌てて顔を伏せかけた。
泣いているところを、誰かに見られてしまう。
そんな恐れが、四年間の習慣となって身体に染みついていた。
けれど、途中で手を止めた。
もう、隠さなくてもいいのだ。
ヴィオラは顔を上げた。
窓の外には、淡い冬の陽が差している。
涙がもう一粒、頬を流れた。
今度は、拭わなかった。
向かいの席に座っていた年配の婦人が、心配そうに声をかけた。
「お嬢さん、大丈夫?」
ヴィオラは少し驚いた。
大丈夫かと尋ねられたのは、いつ以来だろう。
「……いいえ」
そう答えた自分の声に、ヴィオラ自身が驚いた。
四年間、誰に何を聞かれても「大丈夫です」と答えてきた。
けれど、今日は違った。
「少しだけ……悲しいのです」
婦人は何も問い詰めなかった。
ただ、鞄から清潔なハンカチを取り出して、そっと差し出した。
「そう。なら、泣いてもいいのよ」
その一言で、ヴィオラの目から新しい涙が溢れた。
彼女はハンカチを受け取り、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
泣きながら、笑った。
誰かを安心させるためではない。
誰かに褒めてもらうためでもない。
自分の心が、そうしたかったから。
膝の上の白山茶花が、馬車の揺れに合わせて小さく揺れた。
母が言っていた。
知らない土地でも、花は咲くものよ、と。
ヴィオラは花を見つめ、濡れた頬をそのままに、冬の光へ顔を向けた。
これから先、また泣く日があるかもしれない。
けれど、もう涙を隠すための温室はいらない。
彼女はようやく、どこででも泣いていい自分になれたのだから。




