婚約破棄されましたが、眠った義弟を名探偵にしてしまいました
「エレオノーラ・フォン・アルヴェイン! 私は今、この場をもって貴様との婚約を破棄する!」
アルベルト王太子殿下の声が、王宮の大広間に響き渡った。
百を超える魔石灯が煌めく豪奢な夜会には、国内の有力貴族ばかりか、外国の使節まで招かれている。そんな場所で、十八年も王族教育を受けてきた男が、浮気相手を腕に抱きながら婚約破棄を宣言したのだ。
王家の教育制度は、一度根本から見直した方がよいのではないだろうか。
「貴様には失望したぞ、エレオノーラ!」
——奇遇ですわね。わたくしもです。
「お前はセシリアに嫉妬し、卑劣な嫌がらせを繰り返した! すべて証拠は揃っている!」
「まあ。どのような証拠でしょう?」
「まずはこれだ!」
侍従が銀盆に載せて運んできたのは、一通の封書だった。灰青色の便箋に双頭鹿の封蝋、そしてわたくしによく似た筆跡。どれもアルヴェイン公爵家のものに間違いない。
「五日前、セシリアは貴様の手紙で旧東離宮に呼び出され、監禁された! 現場からは貴様の香水とブレスレットまで発見されている。寝室の扉には魔力痕も残っていた!」
「それは大変ですわね」
「他人事のように言うな! 貴様のことだぞ!」
もちろん承知している。ただ、わたくしには少々疑問があった。
便箋も封蝋も本物、香水はわたくしの専属調香師が作った『白月夜』で、ブレスレットも去年の祝賀会で紛失した品に違いない。ずいぶん熱心に証拠を集めたようだが、これではまるで、わたくしが犯人だと宣伝して回っているようなものではないか。
わたくし、犯罪を犯すにしても、もう少し頭を使いますわよ。
「エレオノーラ様……」
セシリア・ベルン男爵令嬢が、潤んだ碧眼をこちらへ向けた。柔らかな金髪に小柄な身体、思わず庇護欲をそそられる愛らしい容姿の持ち主である。
「わたし、ただエレオノーラ様とお友達になりたかっただけなんです。殿下を奪うつもりなんて、少しも……」
そう言いながら、彼女は殿下の腕をぎゅっと抱きしめた。豊かな胸まで押しつけているあたり、なかなか高度な友情表現である。
最近の社交界では、お友達の婚約者に抱きつくのが流行しているのかしら。わたくし、流行には疎くて(失笑)。
「しかも、セシリアは一晩中怯えていたのだ!」
殿下が得意げに胸を張った。
「夜十時から翌朝六時まで、東離宮の結界に閉じ込められていた。夜中には三度も水を飲んだほどだ!」
「まあ。ずいぶんお詳しいのですね?」
「当然だ! 翌朝六時、私が自ら救出したのだからな!」
わたくしは扇で口元を隠した。
その朝、殿下は予定されていた朝食会に一刻半も遅刻している。侍従からは急な公務だと説明されたが、なるほど、そういうことだったらしい。
王太子の醜聞を隠そうと奔走した侍従たちも、まさか本人が堂々と暴露するとは思わなかっただろう。今頃、どんな顔で聞いているのか少し気になる。
「とにかく、貴様の罪は明白だ!」
明白なのは殿下の思慮の浅さだけなのだが、この調子では何を申し上げても無駄だろう。
——さて、どうしたものか。
そう考えたところで、王族席の脇からガタンと物音がした。
「……レオン?」
殿下が振り向いた先には、銀縁眼鏡をかけた黒髪の青年が座っていた。
レオン・フォン・アルヴェイン。血の繋がりはないが、わたくしの義弟である。
公爵家の後継候補として迎えられた彼は、知的で端整な顔立ちをした青年だ。普段は書庫にこもって難しい顔で本を読んでいることが多いのだが、最近では公爵家の仕事よりも、セシリア嬢との逢瀬に熱心らしい。
婚約者が一人いるだけでも面倒なわたくしからすれば、彼女の何がそれほど魅力的なのか理解に苦しむ。
「レオン、どうした?」
「……少し、目眩が……」
レオンが眼鏡を押さえた、その瞬間……大広間の魔石灯が、一斉に消えた。
「きゃあああっ!」
「何事だ! 明かりを!」
悲鳴と怒号が重なり、椅子の倒れる音や硝子の割れる音が響く。突然の暗闇に誰もが混乱するなか、殿下の声だけが妙にはっきり聞こえた。
「全員動くな! これはエレオノーラの証拠隠滅に違いない! 扉を封鎖しろ!」
殿下は暗闇でも犯人がわかるらしい。王立騎士団が全員失業してしまいそうな才能である。
十秒ほどして非常用魔石灯が点くと、大広間には再び光が戻った。
まず目に入ったのは、椅子に座ったままぐったりと俯くレオンの姿だった。先ほどまで手にしていた杯はなく、数歩離れた絨毯の上に硝子片と葡萄酒の染みが広がっている。暗闇で取り落としたのだろうか。
そう考えかけたわたくしは、もう一つ妙なものを見つけた。
セシリア嬢が、わたくしより先にレオンを見ていたのだ。心配しているというより、何かを確かめるような目つきである。
そういえば、婚約破棄の騒ぎが始まる少し前、彼女はレオンに葡萄酒を渡していた。
殿下とレオン、二人の男性に愛を囁いていたセシリア嬢。そして今夜、殿下はわたくしとの婚約を破棄する予定だった……。
そこまで考えたところで、一つの可能性が浮かび上がった。
——なるほど。そういうことですのね。
もっとも、わたくしがここで真相を語ったところで、殿下が聞く耳を持つとは思えない。何しろ、わたくしは今夜の悪役である。殿下はわたくしの言葉より、セシリア嬢の涙を信じるに決まっている。
しかし、もしも殿下の側近であり、セシリア嬢の恋人でもあるレオンが証言したとしたら?
わたくしは眠り込んだ義弟を見つめ、扇の陰でそっと指を動かした。
アルヴェイン公爵家に伝わる秘術、《傀儡糸》。
本来は魔導人形や甲冑を遠隔操作するための術だが、人体に使えないわけではない。ただし人間の身体は人形と違って関節も筋肉も複雑で、扱いが非常に難しい。
試しに首だけ持ち上げてみると、レオンの頭がぐきりと真横に倒れた。
——いけませんわ!
慌てて肩と背中を支え、上半身を起こす。何度か不自然に揺れたものの、どうにか椅子へ座り直させることに成功した。
「レオン?」
殿下が声をかけた。わたくしはレオンの胸元に留められた黒曜石のブローチへ魔力を流す。これは公爵家製の共鳴石で、離れた場所から声を伝えるための魔道具だ。魔力の波長を合わせれば、持ち主の声に似せることもできる。さらに、自分にはサイレントの魔術を施し、口の動きだけを模倣させるようにレオンにコピーの魔術を重ねる。
つまり、今のわたくしならレオンが話しているように見せられるというわけである。
「……申し訳ありません、殿下。少々、気分が優れませんので」
「大丈夫なのか?」
「ええ。座っていれば治まるでしょう」
「そうか。無理をするなよ」
——成功した。アホで助かっ……いえ、わたくしの技術が素晴らしいに違いありません。騙されてくれて助かりました。
ただ、本人は完全に眠っているので、身体を操りながら推理を組み立て、さらに声まで出さなくてはならない。王太子妃教育でも、さすがにこんな芸当を求められたことはなかったので、非常に苦慮するところです。
「ところで殿下。この事件、少々妙ではありませんか?」
「何がだ?」
「義姉上を犯人とする証拠です」
「すべてエレオノーラのものだろう!」
「確かにそう見えます。しかし、一つ確認したいことがありまして」
レオンの顔を上げさせ、眼鏡を押し上げようとしたところ、指が少しずれて鼻に突き刺さった。
——あら、失敗。
「……眼鏡が少々ずれまして」
「本当に大丈夫なのか、レオン?」
「問題ありません」
問題は山積みなのだが、いちいち説明している暇はない。
「では、お尋ねします。その証拠は、本当に義姉上しか用意できなかったのですか?」
大広間がざわめくと共に、セシリア嬢の顔から、さっと血の気が引く。
ふふ。ここからが本番ですわ。
「まず、便箋です」
レオンの声でそう告げると、殿下は鼻で笑った。
「公爵家の紋章入りだぞ!」
「ええ。しかし、義姉上には王宮にも私室があり、同じ便箋が保管されています。香水の『白月夜』も、殿下が過去に注文した記録がありますね?」
「そ、それはエレオノーラへの贈り物で……」
「何本注文なさいました?」
「…………」
「ブレスレットは去年、王宮で紛失した品です。魔力痕についても、義姉上は三年前に東離宮の結界修繕へ参加しており、当時の魔力が残っていても不思議ではありません」
殿下が黙った。どうやら、証拠がすべて本物であることと、わたくしが犯人であることは別問題だと、ようやく気づいたらしい。
「だ、だが! セシリアが一晩中閉じ込められていたのは事実だ!」
ようやく本題に入れそうだ。
「本当に閉じ込められていたのでしょうか?」
「どういう意味だ!」
「殿下。五日前、東離宮の寝室へ薪と新しい寝具を運ぶよう命じましたね?」
「なっ……!」
これは婚約者の素行調査で判明した事実である。何しろわたくし、将来の王太子妃になるため、十年以上も教育を受けてきたのだ。
政治も魔術も諜報も礼法も、ひと通り叩き込まれている。刺繍より先に婚約者の浮気の証拠を押さえる方法を教わった女である。
改めて考えると、なかなか物騒な教育ですわね。
「夜間結界が作動する前から、殿下は東離宮にいらしたのでは?」
「な、なぜそう思う!」
「薪と寝具を用意したからです」
「それだけで何がわかる!」
「では質問を変えましょう。殿下は先ほど、セシリア嬢が夜中に三度、水を飲んだとおっしゃいましたね?」
「言ったとも!」
「ご本人から聞いたのですか?」
「も、もちろんだ!」
わたくしは少し間を取った。こういう時は、相手を急かさず、自分から余計なことを喋ってもらうのが一番である。
「ちなみに、セシリア嬢が閉じ込められていたのは、寝室でしたね?」
「ああ!」
「殿下が薪を運ばせたのも、寝室ですね?」
「そうだ!」
「寝具を新しくしたのも?」
「寝室だ!」
「では、その寝室で、殿下は何をなさっていたのです?」
「セシリアと一緒に——」
ぴたりと殿下の口が止まった。もう少しで自白してくださりそうだったのに、惜しい。
「……レオン。貴様、何を言わせようとしている?」
「事実関係を確認しているだけです」
「だから、その事実が問題なのだ!」
大広間が静まり返り、どこかで誰かが吹き出した。殿下の耳が真っ赤になっている。
「ち、違う! 我々は決してやましいことなど!」
「なるほど。では、男女が夜十時から翌朝六時まで、結界で封鎖された寝室に二人きり。しかも薪と寝具まで用意して、何を?」
「そ、それは……!」
「八時間ほど」
「時間を強調するな!」
「失礼。四百八十分ほど」
「長くなっているではないか!」
わたくしは扇の陰で必死に唇を噛んだ。ここで笑ってしまえば、すべてが台無しになる。
「つまり、セシリア嬢は監禁されていたのではありません。殿下と密会していたのです」
「違う!」
「では、違わない部分だけお認めになりますか?」
殿下は口を開けたまま固まった。広間のあちらこちらから「まあ、寝室で?」「八時間ですって」「朝まで?」と囁き声が聞こえる。
王宮の拡声術式は、今夜も絶好調ですわ。
「それにしても、殿下。こちらの香水瓶とともに押収されたカードには、『昨日の夜を忘れられない君へ』と書かれていますね」
「読むな!」
「『次は東離宮ではなく湖畔の別邸で』」
「レオン!」
「『あそこなら朝まで誰にも——』」
「読むなと言っているだろう!」
殿下が侍従からカードを奪い取った。
実を言えば、レオンの位置からカードの文字など見えない。わたくしが事前の調査で知っていた内容を喋らせただけなのだが、ご本人が慌ててカードを隠してくださったおかげで、内容の真偽は疑われずに済みそうだ。
ところが、そこで問題が発生した。
喋ることに集中しすぎたせいで、レオンの身体がゆっくり右へ傾き始めたのだ。
——しまった! 首だけでなく、腰と背中も支えなければ!
「レオン?」
殿下が声をかけた時には、すでにレオンの額が膝へ近づいていた。わたくしは慌てて傀儡糸を引き直したが、少々力を入れすぎたらしい。
レオンの上半身が勢いよく跳ね上がり、そのまま背もたれを越えかけた。
——いっけませんわあああ!
前へ引き戻すと今度は左へ傾き、慌てて右へ修正すれば反対側へ揺れる。二度ほど奇妙な動きを繰り返した末、どうにか直立姿勢へ戻すことができた。ふう。
「……レオン」
「はい、殿下」
「今の動きは何だ?」
「少々、目眩が」
「目眩でそんな動きになるか?」
「……独特な体質ですので」
我ながら無理のある言い訳だと思ったのだが、殿下はしばらく考えた末、「そうか、無理はするなよ」と頷いた。
——納得するんですの!? わたくし、今の動きには自分でも驚きましたわよ!
「さて、もう一つ確認したいことがあります」
レオンの声が再び広間に響くと、セシリア嬢がびくりと肩を震わせた。
「セシリア嬢。あなたは殿下のほかにも、親しい男性がいらっしゃいましたね?」
「……な、何のお話でしょう?」
「私です」
見事な沈黙だった。
殿下がぎぎぎ、と音でも立てそうな様子で首を回す。
「……レオン? 今、何と言った?」
「私も彼女と男女の関係にありました」
「はあああああっ!?」
大広間が揺れたかと思うほどの大声だった。王宮の拡声術式も、まさかこんな使われ方をするとは思っていなかっただろう。
「どういうことだ!」
「半年ほど前からです」
「半年!?」
「毎週水曜日に」
「曜日まで言うな!」
殿下、怒るところはそこではございませんわ。
「セシリア! どういうことだ!」
「ち、違うのです、殿下! わたし、レオン様にはそんなつもりじゃ……!」
半年もそんなつもりではなかったとは、恋愛というものはずいぶん複雑らしい。
「ですが、私は彼女を愛していました」
レオンの声でそう告げた時、胸の奥にわずかな痛みが走った。
三か月前、彼を問い詰めた時にも同じことを言っていた。セシリアを愛している、いずれ彼女は自分を選ぶはずだ、と。
公爵家の後継としての責任も、彼女が殿下と関係を持っていることも、すべて承知の上だった。まったく、救いようのないお馬鹿さんである。
ただ、そのお馬鹿さんが今こうして利用され、薬を盛られて眠らされていることには、少々腹が立った。
「しかし、私は一つだけ知りませんでした。今夜、殿下が義姉上との婚約を破棄する予定だったことです」
セシリア嬢の顔色が変わった。
「私が知れば、当然あなたに問いただしたでしょう。そして殿下にも話していたかもしれない。あなたにとっては、それが困る理由があった」
「ち、違います!」
「だから私を眠らせたのですね?」
「……何を、おっしゃっているの?」
「先ほど、あなたは私に葡萄酒を渡しました。飲んでしばらくして身体に異変が起き、暗転の直後には意識を失っていた」
わたくしはレオンの足元へ目を向けた。彼の座席から数歩離れた場所で杯が割れているのは、少々不自然だ。
暗闇で誰かが蹴った可能性もあるが、もし杯を持ち去ってから落としたのなら、薬の入った葡萄酒を処分することもできる。
「私がその場で急に卒倒して騒ぎになれば、殿下の婚約破棄宣言が中断してしまう。だから暗闇の混乱に紛れて私を眠らせ、杯を片付けようとなさったのですね?」
「証拠は!?」
セシリア嬢が叫んだ。
そう、問題はそこだ。推理がどれほど筋道立っていても、それだけで犯人と断定するわけにはいかない。
わたくしは壇上脇の柱を見た。
そこには大広間の照明を一斉に落とすための非常遮断装置がある。火災や魔力暴走が起きた際に使うもので、整備時には装置に触れた痕跡を確認できるよう、青銀粉という特殊な粉が塗布されている。
魔力に反応して布や皮革へ移り、数時間は完全には落とせない仕組みだ。
「セシリア嬢。右手を見せていただけますか?」
「……どうして?」
「少々、確認したいことがありまして」
「嫌です!」
まだ何を確認するかも言っていないのに、ずいぶん警戒するものだ。
「近衛騎士殿。宮廷魔術師をお呼びください。それから、彼女の手袋を確認していただきたい」
騎士が近づくと、セシリア嬢は慌てて後ずさった。その拍子に右手が見えたのだが、白い手袋の指先には、薄い青色が付着していた。
見つけた!
「その青い粉、非常遮断装置に使われている青銀粉ではありませんか?」
「ち、違います! これは別の……!」
「調べれば分かります」
「わたしは何もしていません!」
彼女は必死に否定したが、これ以上追い詰めれば、かえって口を閉ざしてしまうかもしれない。
ならば、もう少し別の角度から揺さぶってみよう。
「では、一つ質問を」
わたくしはレオンの顔を上げさせ、セシリア嬢へ向けた。
「先ほど、暗転が終わって私が話し始めた時、あなたはなぜあれほど驚いたのですか?」
「……!」
「私が話せるはずがないと思ったからではありませんか?」
「違う……」
「薬を飲んで眠ったはずの私が、なぜ起きているのか、不思議だったのでしょう?」
「違うわ!」
「では、なぜ私が眠っていたと?」
「だって……!」
セシリア嬢が叫んだ。
「ちゃんと眠らせたのに!」
殿下が口を開けたまま固まり、セシリア嬢自身も、自分が何を言ったのか理解するまで数秒かかったらしい。
わたくしは扇の陰で、小さく拳を握った。
いただきました。自白ですわ。
「……セシリア?」
殿下の声が震える。
「今、何と?」
「ち、違うのです、殿下! わたしはただ、レオン様に少し眠ってもらおうとしただけで……!」
「なぜだ!」
「だって、邪魔をすると思って……!」
「何の邪魔を!?」
「それは……!」
セシリア嬢はとうとう泣き出したが、今度は誰も駆け寄らなかった。
わたくしはレオンの右腕を持ち上げる。ここまで散々な目に遭わせてしまったのだから、最後くらい格好よく決めさせてあげたい。
「セシリア・ベルン嬢」
大広間の視線が一斉に集まった。
「公爵家の品を使って義姉上に嫌疑を向け、殿下との密会を監禁事件に仕立て上げ、邪魔になる私に薬を盛った。そして、その過程を隠すために大広間の灯りを落とした人物——」
レオンの人差し指を、真っすぐセシリア嬢へ向ける。
「犯人は……あなただ!」
——決まった!
そう思ったのも束の間、レオンの指がなぜか殿下を指していることに気づいた。
違う違う、そっちではありませんわ!
慌てて糸を引き直し、どうにかセシリア嬢へ向ける。
「……レオン?」
殿下が不満そうに眉を寄せた。
「今、一瞬、私を指差さなかったか?」
「……」
「気のせいか?」
「……連帯責任です」
「なんだと!?」
しまった。余計なことを口走ってしまった。
もっとも、まったく間違いというわけでもないので、訂正はしないでおこう。
その後の調査は早かった。
絨毯に残った葡萄酒からは眠り花を加工した薬が検出され、セシリア嬢の手袋に付着した青銀粉も、非常遮断装置のものと一致した。
公爵家の便箋は王宮にあるわたくしの私室から持ち出され、封蝋は過去に殿下へ送った手紙から流用されていた。香水については、殿下がわたくしへの贈答用に注文した際、余分に購入していた品だったという。
ブレスレットも王宮の遺失物保管庫に届けられた後、何者かによって持ち出されていたことが確認された。
セシリア嬢は近衛に連行され、殿下は失意のどん底に沈んだ。
そして、わたくしがようやく帰ろうとしたところで、殿下が声をかけてきた。
「エレオノーラ。今夜の婚約破棄についてだが……」
「はい」
「私は騙されていた。セシリアがあんな女だとは思わなかったのだ」
「それはお気の毒ですわね」
「だから、その……やり直せないだろうか?」
わたくしは十八年間かけて磨き上げた、公爵令嬢として最高の笑顔を浮かべた。
「無理に決まっておりますわ」
「なっ……!」
「殿下は国賓まで招かれた夜会の席で、わたくしとの婚約破棄を宣言なさいました。正式な手続きについては、明朝、公爵家の法務官から王宮へ書類を提出させます」
「ま、待て! 私は騙されていたんだぞ!」
「存じております。ですが、騙されたことと、殿下がわたくしを公衆の面前で断罪なさったことは別問題ですわ」
そもそも、証拠の出所すら精査せず、愛人の言葉を鵜呑みにした王太子を、この先何十年も支えていくなど御免である。
わたくしは優雅に一礼した。
「それでは殿下、ごきげんよう」
これで自由の身だ。
明日からは婚約者のご機嫌取りも、浮気相手の素行調査も、理不尽な王族教育も必要ない。好きな本を読み、好きなお茶を飲み、好きな時間に眠れるのだと思えば、足取りも自然と軽くなる。
そんな晴れ晴れとした気分で踵を返した瞬間、背後からどさりと鈍い音がした。
「レオン!?」
振り返ると、レオンが椅子から半分ずり落ちていた。腰は座面から外れ、片腕だけが肘掛けに引っ掛かり、頭は背もたれの横へ傾いている。
……あ。傀儡糸を緩めるのを、すっかり忘れていましたわ。
「誰か、医師を!」
「レオン様が倒れたぞ!」
大広間は再び騒然となった。
宮廷医師が駆けつけ、レオンの脈と瞳孔を確認すると、怪訝そうに首を傾げた。
「眠り花を使った鎮静薬ですな。かなり深く眠っています」
「だが、彼は先ほどまで普通に話していたぞ!」
殿下が叫んだ。
「事件の真相をすべて言い当て、犯人まで突き止めたんだ!」
「……不思議ですな。この薬が効いた状態で意識を保つなど、普通は考えられませんが」
それを聞いた貴族たちが、何やらざわめき始めた。
「まさか、眠りながら推理を?」
「意識すらない状態で、あれほどの名推理を披露したというのか?」
「天才というのは、いるものなのね……」
わたくしは嫌な予感がした。
「眠りの名探偵だ!」
「なるほど、眠りの名探偵レオン様か!」
「なんて素晴らしいお方なの!」
待ってくださいまし。あの推理をしたのは、わたくしですわよ?
もちろん、そんなことを口にできるはずもない。
結果として、その夜からレオンは『眠りの名探偵』と呼ばれるようになった。どうしてこうなったのかしら。
*****
三週間後——アルヴェイン公爵家の執務室に、一通の手紙が届いた。差出人は、元義弟のレオンである。
あの事件の後、彼は公爵家の後継候補から正式に外され、生家であるハーグ子爵家へ戻っていた。セシリア嬢との関係を巡って以前から話は進んでいたので、本人も特に異議を唱えなかったらしい。
多少は反省したようだが、その後の様子までは知らない。
「エレオノーラ」
父がわたくしを呼んだ。
「レオンから手紙が届いた」
「まあ。お元気ですの?」
「元気ではあるようだが、少々困っているらしい」
「何に?」
「探偵の依頼が殺到しているそうだ」
思わず父の顔を見返した。
「……はい?」
「宝石の盗難、遺言書の紛失、密室状態の書庫から消えた重要書類。最近では殺人事件の相談まで持ち込まれたらしい」
なるほど。噂というものは、事実よりもずいぶん大きくなって広まるらしい。
「本人は何と?」
父が無言で手紙を差し出した。
『アルヴェイン公爵閣下
先日の王宮での出来事以来、私のもとには不可解な事件の調査依頼が相次いでおります。
しかし、私にはあの事件を解決した記憶がございません。薬の影響で意識を失っていたはずなのに、周囲の者は私が真相を暴いたと証言しております。
特に気になるのは、あの夜の推理に、私自身が知り得なかった情報が含まれていることです。
つきましては、エレオノーラ義姉上に一度お話を伺いたく存じます』
読み終えたところで、わたくしの指が止まった。
まずい。どうやらレオンは、あの夜の出来事を不審に思い始めているらしい。
もっとも、まさか自分が眠っている間に義姉から操られていたなど、夢にも思うまい。いくらなんでも、そこまで辿り着くことはないだろう。
「エレオノーラ、どうした?」
「いいえ。何でもございませんわ」
「顔色が悪いぞ」
「気のせいです」
わたくしは何食わぬ顔で手紙を畳んだ。
「実はな、レオンが来ている」
「……はい?」
「お前に直接、話があるそうだ」
その時、執務室の扉が静かに開いた。
「お久しぶりです、義姉上」
現れたのは、黒髪に銀縁眼鏡の青年。王都で噂の『眠りの名探偵』、レオン・ハーグその人だった。
「……お久しぶりですわね。お元気そうで何よりです」
「おかげさまで。もっとも、最近は眠れない日が続いておりますが」
「眠りの名探偵なのに?」
思わず笑いそうになったが、寸前でこらえた。本人にとっては深刻な問題なのだろうし、そもそも原因の一端はわたくしにある。
レオンは鹿爪らしい顔をして眼鏡を直すと、真っすぐこちらを見つめた。
「義姉上。一つ、質問してもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「あの夜、私は薬で意識を失っていました。しかし周囲の話では、義姉上は私が倒れた時も、推理を始めた時も、ほとんど驚いていなかったそうです」
「……そうでしたかしら」
「ええ。むしろ楽しそうだったと聞いています」
どなたですの、そんな余計なことを報告したのは。
「それだけではありません。私が発言するたび、義姉上は扇の陰で指を動かしていたそうですね?」
「……何かの見間違いでは?」
「そうかもしれません」
レオンが微笑んだ。
昔はわたくしと顔を合わせるたび、不機嫌そうに眉を寄せていたのに、いつの間にこんな笑い方を覚えたのだろう。
「ですが、もう一つ妙なことがあります。あの夜の推理には、私が知らないはずの情報が含まれていました」
「……」
「殿下の密会の記録、香水の発注数、三年前の東離宮の結界修繕。それから、殿下が恋文に書いた文章まで」
レオンが一歩近づいた。
「そのすべてをご存じだった人物が、一人だけいるのです」
これは、非常にまずい。
「義姉上。あの夜、私に何をなさいました?」
どうやら、想像以上に鋭い男だったらしい。
落ち着くのよ、エレオノーラ。ここで認めてしまえば、すべてが終わってしまう。
「な、何のことかわかりませんわ」
「そうですか。では、今度の事件に同行していただけますか?」
「……なぜ?」
「私が本当に名探偵なのか、確かめていただきたいのです。義姉上は私の能力を誰よりよくご存じでしょう?」
レオンは穏やかに微笑んでいるが、その目は少しも笑っていなかった。
「お断りいたしますわ!」
「残念です。では、王宮での件について、もう少し詳しく調べることにします」
「…………」
「特に、公爵家の傀儡術について」
思わず扇を握る指に力が入った。この男、完全に疑っておりますわね!?
わたくしはしばらく考えた末、精一杯優雅な笑顔を浮かべた。
「……一度だけですわよ?」
「ありがとうございます、義姉上」
レオンが嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、なぜだか少しだけ調子が狂う。以前なら、こんなに素直な顔を見せる人ではなかったのに。
この男、絶対に性格が悪くなっている。いや、もともと悪かったのかもしれないが、少なくとも以前より格段に扱いづらくなったことだけは確かだ。
こうして、わたくしの平穏な第二の人生は、始まる前から盛大に崩れ去った。
王都で大人気の『眠りの名探偵』。
その正体が、眠っている間にわたくしから操られていただけの元義弟だなどと、誰が想像できるだろう。
しかも、その元義弟はどうやら秘密に気づき始めており、わたくしを事件調査へ引っ張り出そうとしている。
婚約破棄を機に、ようやく自由な生活を手に入れたはずなのに。わたくしは目の前で微笑むレオンを見つめ、心の底から願った。
お願いですから、次の事件くらい、起きたまま解いてくださいまし!




