第08話 撤退
一体誰なのか、男が答えを求める。視線を向けられた透は、その問いには答えずに話題をズラした。
「そんなことより、早く戻ったほうがいいんじゃないか?」
透は短く言った。変声のスキルを通した、自分のものではない声。指導官の男に向けて、最低限の言葉だけを選んで。
「……」
指導官の男は黙ったまま、しばらく透を見つめてから頷いた。正論だった。出現するはずのないモンスターがこの場所にいた。ならば、戻り道に同じことが起こらないとは限らない。疲労した子どもたちを抱えた状態で、悠長に話し込んでいる余裕はないのも確かだと思ったから。
「……そうだな。訓練は終了。全員、ここから脱出することを最優先にする」
指導官の男は子どもたちに向けて宣言した。子どもたちの間から安堵の息が漏れる。当然だろう。先ほどまで死の恐怖に晒されていた。帰れるとわかっただけで、どれほど安心したことか。
「あんた、俺たちと一緒に戻ってもらえないか」
指導官の男が透に向き直って言った。お願いの形だが、声には切実さが滲んでいた。まだ正体は明らかになっていない。けれど、先程の戦闘能力は圧倒的であり頼りになる。質問には答えてくれなかったが、こちらを気遣う様子は見せてくれている。だから頼ろうとした。
無事に戻って、落ち着いてから正体を問い詰めるつもりなのだろう。
透は無言で頷いた。無事に戻るところまでは見届けたい。気配を消して、隠れながら付いていくことも考えたが、向こうからお願いされたので乗っかることにする。
「ありがとうございます。俺が先導する。お前たちは警戒しながら付いてこい。一番最後尾を、あんたに任せます」
指導官の男は小さく息を吐いてから、子どもたちに隊列を指示する。
先頭に指導官。来た道を把握している彼が先導役。中央に子どもたちを挟み込む。そして最後尾に透。もっとも戦闘力が高い者に殿を任せる。
透としても、異論はない。後ろから全員の安全を見守る位置だ。気配探知で周囲を警戒しながら彼らに同行した。
***
来た道を戻る。
薄暗い洞窟の通路を、一行は黙々と歩いていった。誰も口を開かない。指導官も子どもたちも消耗が激しくて、話をする余裕がないのだろう。足を動かすことで精一杯。それでも、確実に前へ進んでいる。
子どもたちが何度か後ろを振り返った。透の方をチラチラと見ている。話しかけてくる者はいない。仮面で顔を隠した正体不明の人物に、声をかける勇気がないのか。単純に疲れ果てているのか。おそらく、その両方だろうと透は予想した。
透も終始無言のまま、最後尾を歩き続けた。
気配探知のスキルを発動しながら、周囲を常に警戒している。前方、後方、左右の通路。壁の向こう側。天井の上。足元の地面の下まで。広げた探知の範囲内にはモンスターの反応は感じない。今のところ、安全だ。
歩きながら、透は考えていた。
ボックスの中に帰還アイテムがある。拠点に戻る効果を持つアイテム。毎晩のダンジョンでは何度も使ってきた。あちらの世界では、使うとダンジョンから脱出して眠りから覚める。そういう効果だった。つまり、現実世界に戻ることが出来る効果だ。長い間、お世話になってきたアイテム。
けれど、今は現実世界のダンジョンにいる。こっちの世界で帰還アイテムを使ったら、帰還先はどこに設定されているのだろうか。アパートの自室なのか。それとも、全く別の場所に飛ばされるのか。使った経験がないから、どうなるのかわからない。
仮にここで使ったとして、正体隠匿の問題もある。帰還アイテムのような代物をこの場で取り出せば、余計な疑念を生みそうだ。これって、探索士たちの間で流通しているアイテムなのだろうか。
指導官の男は帰還アイテムのことを一切口にしていない。持っていないのか、こうなることを想定していないから持ってきていなかったのか。貴重なアイテムなのか。そもそも存在を認知していないのか。いずれにしても、自分が持っているものを明らかにしないほうが良さそうだと透は考えて黙っていた。
このまま歩いて戻る。それが一番確実で、一番目立たない選択だろう。
通路を曲がる。分岐を越える。狭い道を抜ける。ダンジョンの景色が次々と流れていく。なるほど、現実のダンジョンはこういうものなのか。透は、そんな感想を抱きながら彼らと歩き続けた。
結局、帰り道にモンスターは一体も現れなかった。あの場所に集中していたのか、それとも運が良かっただけなのか。いずれにしても、無事に戻れそうだ。
***
通路の先に、明るい光が見えてきた。
外の光だ。ダンジョンの入口が近い。
先頭の指導官がその光に気づいた瞬間、足取りが速くなった。子どもたちもそれに続く。疲れきった体に残った最後の力を振り絞るように、みんなが出口を目指していた。
光の中に踏み出す。
無事に帰還できて、子どもたちの肩から力が抜けていくのが見えた。その場にへたり込む者。立ったまま深く息を吐き出す者。目元を袖で拭う者。初めてのダンジョンで命の危険に晒された子どもたちにとって、無事に戻ってこられたことがどれだけ大きいか。
指導官の男も膝に手をついて、荒い呼吸を繰り返している。緊張が解けたのだろう。それでも子どもたちの様子に意識を向け続けているあたり、責任感の強い人だと透は思った。
そんな彼らの様子を眺めつつ、透はボックスを開いた。中から、先ほどの戦闘で手に入れた魔石とドロップしたアイテムを取り出す。大量だった。地面に放出すると、山のように積み上がっていく。
何をしているのかと、積み上がったそれに指導官と子どもたちの視線が集まる。
「これ、返すよ」
子どもたちと指導官の視線が透に向けられる。どういうことだと、疑問の表情で。
「……返すって、それはあなたが倒して手に入れたものじゃ?」
子どもたちの一人——日和が、困惑した顔で言った。モンスターを倒したのは透なのだから、戦利品はあなたのもの。それを返す、と言っているのが理解できない、という表情だった。
透にとって、これらに価値はなかった。三十二年分のダンジョン攻略で蓄えた装備とアイテムがボックスの中に山ほどある。今さら魔石を手に入れたところで荷物になるだけだ。それに、探索士の資格を持たない人間がダンジョン産のアイテムを持っていても現実世界では使い道がない。売ることもできない。宝の持ち腐れだ。
それよりも、探索士の学校であれば有効に活用してくれるだろう。魔石にしろアイテムにしろ、必要としている人たちの手にあった方がいい。せっかく手に入ったものなのだから、役に立つ場所に置いておきたかった。
だから、返す。ただそれだけのことだった。
日和の問いかけには答えず、透は彼らに背を向けた。来た道を振り返る。ダンジョンの入口が、暗い口を開けてそこにあった。
「ま、待て!」
指導官の男が声を上げた。正体を確認したいのだろう。せめて名前だけでも聞き出したい。その切迫した声色から、意図は十分に伝わってきた。
けれど、応じるわけにはいかない。
透は猛スピードで走り出した。ダンジョンの闇の中に飛び込む。一瞬で姿が消えた。指導官も、子どもたちも、追いかけることなど到底できない速度だった。
***
ダンジョンの内部を駆け抜ける。全力で走る。通路を折れて、分岐を超えて、十分な距離を確保する。
気配探知を広げた。追手はいない。立ち止まる。周囲の気配を改めて確認する。近くに人の気配はない。ここまで戻ってきたら、彼らに見られることもないだろう。
モンスターの反応もなし。ここで良さそうだな。
ボックスから帰還アイテムを取り出した。
拠点に戻る効果。別世界のダンジョンでは、使えば眠りから覚めて自室のベッドの上に戻ってこられた。では、現実世界のダンジョンで使ったらどうなるか。
拠点がどこに設定されているかが問題だ。アパートの自室に戻れれば一番いいが、確証はない。ダンジョンの入口付近に飛ばされて、さっきの彼らとばったり鉢合わせなんてことになったら目も当てられない。
まあ、最悪そうなったら気配遮断で姿を消して、なんとかするか。
透は帰還アイテムを発動させた。
視界が一瞬で塗り替わる。
見慣れた天井が目に入った。見慣れた壁。窓から差し込む午後の日差し。透の部屋だった。アパートの自室に立っている。
現実世界では、拠点はここに設定されていたらしい。帰還アイテムの効果は拠点への転移。別世界のダンジョンとは違う形だったけれど、結果的にちゃんと帰ってくることができた。
バレずに終わったかな。
仮面を外す。外見変化を解除して、声質も元に戻す。装備をボックスの中に仕舞い込む。鏡を確認する。いつもの自分の顔が映っていた。
窓の外を見る。穏やかな午後。住宅街は静かで、通りに人影はない。何も変わっていなかった。自分がダンジョンに行って帰ってきたことなど、この世界の誰も知らない。
透は部屋を出て、庭に向かった。裏手に回ると、途中まで掃除していた排水溝がそのままの状態で待っている。置いていった道具もそのまま。
何事もなかったかのように、透は道具を拾い上げた。落ち葉を掻き出す作業の続きに戻る。
誰も、彼がダンジョン帰りであることに気づくことはなかった。




