第11話 訓練の影響と正体不明の男※学校側視点
「——ガルゴス、ですか」
国立探索士高等専門学校。その校舎にある会議室で、先日の事件に関する報告が行われていた。長テーブルの上座に立つのは矢島——先日の実地訓練を担当した指導官である。各幹部の手元には、矢島が作成した報告書が配布されていた。
「はい。訓練の最中に出現しました。報告書の三ページ目に、確認された個体と出現状況の詳細を記載しております」
矢島の声は落ち着いていた。だが、その落ち着きが逆に事態の深刻さを際立たせていた。平静を保っていなければ報告にならない——そういう種類の内容だった。
幹部の一人が報告書をめくる手を止めた。白髪交じりの男だった。眉間に深い皺を刻んだまま、矢島を見据える。
「一年生の訓練に使用するダンジョンは、初級ランクのはずだな」
「はい。その初級ランクのダンジョンは、過去の調査で危険度は低いとされており、ガルゴスの出現記録は一切ありませんでした」
「それが、出たと」
「はい」
短い沈黙が落ちた。
ガルゴス。そのモンスターの名は、この場にいる全員にとって軽い言葉ではなかった。この場にいる者たちだけではない。ガルゴスという名は、探索士業界に身を置く者なら誰でも知っている。知識として知っているだけでなく、骨に刻まれた記憶として。
ダンジョンが世界に出現したのは2010年。今からわずか8年前のことだ。
当時、人類はダンジョンについて何も知らなかった。モンスターの生態も、ダンジョンの構造も、魔石の性質も——すべてが未知だった。それからしばらく時間が経過し、魔石の有用性が明らかになってきた頃。各国は競うようにダンジョンへ足を踏み入れ、そして多くの犠牲を払った。
とりわけ、猛威を振るったのがガルゴスというモンスターだった。
特に中国とロシアで甚大な被害が出た。まだ対処法が確立されていなかった時代、両国は大規模な部隊をダンジョンに投入した。勇んで突入した者たちがガルゴスの群れに飲み込まれ、犠牲者は数十万に達したという。
両国は初動の失敗を隠蔽するかのように、ダンジョンの入口をコンクリートで封鎖した。ガルゴスを外に出さない目的も兼ねていたとされている。それでも侵入を試みるものが後を絶えず、公式な数字は発表されていないが、累計で数千万人もの犠牲者を生み出したなんて噂もある。
あの時代を経験した者たちにとって、ガルゴスの名は特別な重みを持つ。この業界には一つの常識が浸透していた。
——ガルゴスを見かけたら、戦わずに生き残ることを最優先にしろ。
だからこそ、初級とランク付けされたダンジョンにガルゴスが出現するなど、誰も想定していなかった。矢島も。この会議室にいる幹部たちも。
「突然現れた原因の見当はついているのか」
幹部の一人が尋ねた。
「現時点では不明です。調査の見落としか、ダンジョン内部の環境変化か、あるいは我々が把握していない要因によるものか。いずれにせよ、再調査が必要です」
矢島はそう答えた。わからない、という言葉を飾らずに述べる姿勢に、この指導官の誠実さが表れていた。
***
対応方針の協議に移った。
最優先事項は明白だった。まずは訓練に使用したダンジョンの利用を中止。そして再調査を徹底的に実施すること。なぜ現れないはずのガルゴスが出現したのか、原因究明を急がなければならない。
「初級にランク付けしてある他のダンジョンについても再調査を進めるべきだろう」
幹部の一人がそう提言した。同様の事態が他のダンジョンでも起こり得るのか。洗い出す必要がある。
「全国の初級ダンジョンとなると、数が多い。調査要員の確保が課題になるな」
「探索士の数は依然として少ない。それでもやるしかないだろう」
議論が重なる。白髪交じりの幹部が腕を組んだまま、苦い声を漏らした。
「ダンジョンが現れてから、まだ8年しか経っていない」
テーブルの端に座っていた女性幹部が、静かに口を開いた。
「わかっていないことの方が多い。今回の件は——それを、改めて教えられたということです」
誰も異議を唱えなかった。全員が、同じことを思っていた。
そして、犠牲者が出なかったことへの安堵も、会議室にいる全員が共有していた。
生徒が一人でも命を落としていたなら、再調査と状況の見直しだけで済む話ではなかった。
ダンジョン不要論が再燃し、世論が一気に傾いていた可能性がある。魔石の恩恵を享受している社会であっても、子どもが死ねば感情論が勝る。探索士育成のカリキュラム、特に実地訓練の在り方を根本から見直す羽目になり、この国の探索士育成の歩みが数年単位で後退していたかもしれない。
その最悪の事態を免れたという安堵は、会議室にいる全員が共有する感覚だった。
「だからといって、楽観はできんがな」
白髪交じりの幹部がそう付け加えた。犠牲者が出なかったのは結果論に過ぎない。次も同じ幸運があるとは限らない。だからこそ、再発防止が急務なのだ。
「ともかく、今回の件を教訓にして前に進むしかない」
上座の男が短く言い切った。
「萎縮している場合ではない。魔石の需要はとどまるところを知らない。エネルギー、医療、食糧、資源——あらゆる分野で研究が加速している。探索士の育成は、もはや国家の根幹に関わる事業だ。今回の事態を分析し、再発防止策を講じた上で、前に進む。それだけだ」
***
矢島が報告書の次のページを開いた。
「続きまして、第二の報告事項です。ガルゴスとの戦闘中に出現した、正体不明の人物について」
幹部たちの視線が再び集まった。報告書には「身元不明者の介入について」という見出しが記されている。
「戦闘の最中、仮面をつけた男が突然現れました。この人物は圧倒的な戦闘力でガルゴスの群れを殲滅し、生徒六名と私の命を救いました」
この報告にも、幹部たちは顔色を変えた。
矢島は淡々と経緯を述べた。帰還ルートでは殿を務め、安全にダンジョンの出口まで同行したこと。出口到着後、大量の魔石とドロップ品を生徒たちに渡したこと。そして、矢島の制止を振り切ってダンジョン内部へ戻っていったこと。
「その後、出入り口の監視を続けておりますが、男が出てきたという報告はいまだにありません」
「出ていない?」
「はい。ダンジョン内部に潜伏しているのか、特殊なスキルで監視をすり抜けたのか、あるいは出入り口を通らずに脱出する手段を持っているのか——いずれも不明です」
幹部たちの間に、困惑とも警戒ともつかない空気が漂った。
***
「矢島くん、率直に聞く。何者だ?」
幹部の質問に、矢島は一拍置いてから答える。
「わかりません」
会議室に沈黙が落ちた。
矢島は当時の状況を振り返りながら、推測できる範囲で説明していく。
「日本語を流暢に話しておりました。おそらく日本人の男性です。年齢は不明ですが、大人と思われます。ただし、確実ではありません」
「顔は?」
「仮面で隠れておりました。髪の色は黒。体型は筋肉質というわけではなく、しなやかな印象でした。太すぎず細すぎず。しかし、とんでもないパワーがありました」
モンスターと戦う場面では、矢島は何もできずに呆然と見ていた。それでも、敵を次々と倒していく正体不明の男。その光景。
「威圧感は、我が国で活躍しているトップクラスの探索士たちと同等か、それ以上でした。戦闘能力もおそらく同等。あの男の実力の底は——正直に申し上げて、私には測りきれませんでした」
重い言葉だった。矢島は元自衛官であり、現役の指導官だ。探索士としての経験も豊富で、実力者を見る目は確かなはず。その矢島が「底が測れない」と言っている。
「既知の探索士と照合は行ったのか」
「はい。該当しそうな人物は見当たりませんでした」
沈黙が降りた。報告書のページをめくる音だけが、しばらく会議室に響いていた。
***
「無断でダンジョンに侵入した人物、正体も不明、か」
ダンジョンへの無断侵入は、実のところそこそこある。魔石の価値を知っている人間が、資格も許可も取らずに潜り込むケースだ。大半は実力不足で早々に撤退するか、運が悪ければ命を落とす。だが、トップクラスの実力を持つ無資格者というのは聞いたことがなかった。
幹部の一人が報告書を机に置いた。
「他国のスパイという線は考えられないか。ガルゴスの群れを一人で倒し切るなんて実力を持つ人間が、素性を隠して動いている。国家的な思惑が絡んでいる可能性は?」
「他国のスパイが、わざわざ姿を現して生徒を助けるのか?」
「それはわからない。だがしかし、目的を隠すための偽装という見方もできるのでは?」
「捕まえて事情を聴くのが一番だが」
「探索士を派遣して捜索させますか」
提案は出た。だが、すぐに反論も続いた。
「そこまでのリソースを割く価値があるのか。相手の実力が報告通りなのであれば、派遣した探索士にも危険が及ぶ可能性がある」
「それに——」
白髪交じりの幹部が、報告書に視線を落としたまま言った。
「あの男は生徒を助けた側だ。敵対的な行動は一切取っていない。魔石とドロップ品まで渡してきている。捕縛に動いて、万が一こちらが返り討ちに遭えば目も当てられん」
もっともな指摘だった。正体不明の実力者に、こちらから喧嘩を売る形になるのは得策ではない。助けられた側が捕まえに行くというのも、道義的に据わりが悪い。
「では、放置するのですか?」
「放置するとは言っていない。ただ、積極的に捕まえに行くのは現時点では避けるべきだろう」
「実力の話に戻りますが」
別の幹部が口を開く。
「あれだけの戦闘能力があるということは、どこかで体系的な訓練を受けているはずだ。他国で探索士として活動していた人間が、何らかの事情でこちらに移ってきた可能性はないのか」
「調査はしましたが、海外の登録情報と照合しても該当者は見つかっていません」
「では、教育は受けたが資格を取得できなかった者という線はどうか。訓練課程を修了しながら、何らかの理由で登録に至らなかった人間——そういう例が、国内外にまったくないとは言えないはずだ」
「可能性としては否定できません。ただ」矢島はわずかに言葉を区切った。「資格を持たない人間が、あの実力を持っているとすれば——それはそれで、別の意味で厄介です」
議論は同じところを堂々巡りした。正体不明。目的不明。所在不明。現時点で男が出口から出てきたという報告もなく、今もダンジョン内部に潜伏しているのか、特殊なスキルで監視をすり抜けたのか、それすら判然としない。
***
長い議論の末、落ち着いた先は消極的な方針だった。
該当ダンジョンの監視を強化し、再び姿を現すのを待つ。同時に、情報収集を継続する。トップクラスの実力を持ちながら既知の探索士に該当しない人物——その条件に合う情報がどこかから上がってくる可能性はゼロではない。
「それしかないか」
「現時点では」
歯切れの悪い結論だった。だが、手がかりがない以上、打てる手は限られている。無理に動いて事態を悪化させるよりは、情報が集まるのを待つ方が賢明だ。少なくとも、今すぐ脅威になるような相手ではなさそうだった。助けてくれた人物なのだから。
「他に報告事項は」
「以上です」
矢島が一礼した。
会議は閉じられた。幹部たちが席を立ち、それぞれの持ち場へ戻っていく。報告書を手にしたまま、誰もが考え込んでいる様子だった。
初級のダンジョンにガルゴスが出現したという事実。そして、正体不明の実力者がダンジョンに出入りしているという事実。
その事実が、学校側に小さな棘のように残った。




