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第01話 彼の普通な一日

 凪原透(なぎはら とおる)は、静かに目を開けた。


 天井が見える。見慣れた自分の部屋の天井。窓のカーテンの隙間から朝日が差し込んでいて、時計を確認すると午前六時を少し過ぎたところだった。


 彼は、ゆっくりと体を起こした。首を回し、肩を回し、手を握って開く。指先の感覚、関節の動き、筋肉の張り。一つ一つ確認していく。


 ベッドから降りて、部屋の中央にスッと立った。


 拳を握る。腕を振る。蹴りを繰り出す。


 空気を切り裂くような動きを連続で、何度も、何度も。とんでもないスピードで体を動かしている。けれど、音は一切しない。足が床を叩く音も、拳が空を切る音も。異常なほど静かだった。隣の部屋に響いたら困るから。アパートの壁はそこそこ厚いけれど、透は音を出さないように気を使っていた。周りにバレないように。


 普通の人間なら三十秒で息が上がるような運動量を、十分ほど続けた。呼吸は乱れていない。汗すらかいていなかった。


「うん」


 問題なし。今日も体は正常に動いている。


 これは透の毎朝のルーティーンだった。幼い頃から、もう三十年近く続けている習慣。眠っている間に、あの世界でどれだけ成長したのか。それを確かめる作業。


 それから顔を洗って、歯を磨いた。鏡に映る顔は、三十二歳にしてはそれなりに若く見える。


 朝食の準備に取りかかる。ご飯を炊いて、味噌汁を作って、卵焼きと焼き魚。サラリーマンをやっていた頃は、朝はコンビニのおにぎりで手早く済ませていた。けれど今は違う。時間はたっぷりある。


 三年前に会社を辞めた。出世の話が出てきて、周囲の目が変わり始めているのを感じたから。目立ちたくなかった。普通の人間として、普通に生きていたかった。だから、あっさり辞めた。資産も十分に溜まっていたし。


 今はアパートの管理人をしている。それが凪原透の仕事だった。


 朝食を食べ終えて、片付けを済ませる。作業着に着替えてから道具箱を確認して、今日のスケジュールを頭の中で組み立てた。共用部の清掃、屋根の点検、あとは庭の手入れ。いつも通りの一日になるだろう。


 箒を手に、アパートの周りを掃いていく。春の陽気で気持ちのいい朝だった。


 エントランスの前で、スーツ姿の女性とすれ違う。


「おはようございます、朝倉さん」


「管理人さん、おはようございます。いつもありがとうございます」


 彼女は二階に住んでいるアパートの住人。娘の日和と二人暮らしで、毎朝この時間に出勤していく。今日も元気そうで何よりだと、透は軽く頭を下げて彼女を見送った。


 その後も、何人かのアパートの住民と挨拶を交わして見送りながら、掃き掃除を終える。今度は庭に回って、伸び始めた雑草を刈り始める。しゃがみ込んで、黙々と手を動かす。


「凪原さん! おはようございます!」


 後ろから、明るい声が飛んできた。振り返ると、制服姿の女の子が庭の方まで駆けてきていた。朝倉さんの娘の日和だ。中学三年生。わざわざ庭の方にまで回ってきて、挨拶してくれる。立ち上がり、透は彼女の方に向けて手を上げた。


「おはよう、日和ちゃん。気をつけていってらっしゃい」


「はーい!」


 手を振って走っていく背中を見送った。元気のいい子だった。三年ほど前にこのアパートに越してきてから、いつもああやって挨拶をしてくれる。透にとって、心地よい日常の一コマだった。


 午前中は共用部の清掃と、屋根の防水点検を済ませた。電気設備のチェックもやっておく。必要な資格は自分で取った。業者に頼めば、そこそこの費用で済ませることができる。


 別に、管理を委託して負担を減らすことも可能だった。作業量と費用を計算したら、委託したほうが安く済む。けれど、なるべく自分で可能な作業は自分でしていた。


 そもそも透は、こんなに真面目に働く必要もなかった。投資で十分な資産がある。贅沢をしなければ、一生働かなくても暮らしていける程度には。


 けれど透は、毎日欠かさずこの仕事を続けていた。普通に働いて、普通に暮らす。それが大事だった。ちゃんと仕事をしている、ごく普通のアパート管理人。そう周りに見てもらえること。それが透の求めているもの。


 昼食を取り、午後も仕事を続ける。疲れは一切なかった。この程度の作業では体力を消耗しない。それだけの体を、透は持ってしまっている。けれど有り余った体力を活用したりして、目立つような事は一切しないつもりである。質素に、普通に暮らす。それが彼の目標だった。


 夕方になり、玄関先で掃除道具を片付けていると、聞き慣れた声が聞こえた。


「ただいま、凪原さん!」


「おかえり、日和ちゃん。今日は早かったね」


 いつもと比べて帰りの早い彼女。


「明日から試験期間だから、いつもより早く帰されたの」


「そうなんだ。じゃあ、勉強頑張らないと」


「うん! 頑張って、良い点取るよ」


 にっこり笑ってから、日和は階段を駆け上がっていった。その足音が二階の廊下に消えるまで、透はなんとなく見送っていた。


 今日の管理業務はこれで終わりだ。スーパーに向かい、食材を買い込んで帰宅した。一人暮らしにしてはかなり多い量だったけれど、透にはこれぐらいが丁度いい。夕食を作り、黙々と食べた。


 食後、風呂に入る。湯船に浸かりながら、今日一日を振り返った。特に変わったことは何もなかった。明日もきっと、同じような一日になるだろう。


 風呂から上がり、軽くストレッチをして、それから瞑想。目を閉じて呼吸を整える。心を静かにして、体の隅々まで意識を巡らせる。どんどん感覚が研ぎ澄まされていく。周囲の状況を把握して、襲撃があれば即座に反撃できる状態。


 午後十時。ベッドに入った。


 規則正しく、淡々とした日常。この先もずっと同じように続いていくのだと、透は思っていた。それでいい。こういう生活がいい。


 だが、彼の一日はまだ終わりではない。


 むしろ、ここからが本番だった。


 目を閉じる。意識がゆっくりと沈んでいく。


 次に目を開けた時、そこがどこなのかを透は知っている。



***



 目を開けると、薄暗い洞窟の中だった。


 ひんやりとした空気が肌に触れる。足元は硬い岩盤。天井からは微かに水滴が垂れていて、水の落ちる音だけが静寂の中に響いていた。


 透は立ったまま、周囲に意識を巡らせた。モンスターの気配はない。スタート地点はいつもセーフゾーンだった。この場所にモンスターが侵入してくることはない。


 だが、完全に気は抜けない。ここはもうダンジョンの中なのだから。


 ここで死んでも、元の世界に戻るだけ。とはいえ、死ぬのは気分のいいものではない。


 前回の攻略で使った武器と防具を装備したまま。フード付きのローブに、杖。魔法特化の構成だ。透は腰のポーチからボックスを取り出した。手のひらに収まるぐらいの小さな箱。見た目に反して、中には何百倍もの容量がある。ダンジョン内で手に入れた特殊なアイテムだった。


 ボックスの蓋を開き、中身を確認していく。


 今回は、どう攻略していこうか。


 透は少し考えてから、物理構成で行くことに決めた。前回が魔法だったから、今回は近接で。武器の熟練度は満遍なく上げておきたい。色々と対処できるように。


 ボックスの中から、身長と同じぐらいの大きな斧を取り出した。常人には持ち上げることすら不可能な重量。それを透は片手で軽々と引き抜いて、ブンッと振り回してみせる。空気が唸りを上げた。当たればどんなモンスターだろうと一溜まりもないだろう。


 この武器の熟練度を、もう少し高めておこう。


 武器に合わせて防具も変えていく。ローブを脱ぎ、鎧に換装した。物理防御が高く、魔法抵抗もそれなりにある。ステータス異常の大半も防いでくれる、高レアリティの装備だった。


 それからボックスの中をもう一度見渡す。隙間が減ってきていた。アイテムが増えすぎて、余裕がなくなりつつある。中のアイテムを消費するか、新しいボックスを手に入れる必要があるな。どちらにせよ、そろそろ対処しないといけない。


 道中でボックスをドロップするモンスターを見つけたら、優先して狩ろう。新しいボックスを手に入れたい。


 そんな事を考えながら、透はセーフゾーンから一歩を踏み出した。


 走った。ノンストップで、ひたすら走った。


 薄暗い通路を駆け抜け、次の層へ進む階段を探す。この辺りに生息しているモンスターは無視して進んだ。戦っても得るものがない。わざわざ相手をする必要がないから。


 けれど、向こうから仕掛けてくるやつもいる。


 横穴から飛び出してきた四足の獣に、透は足を止めずに斧を一振りした。重い一撃が獣の胴体を捉え、吹き飛ばす。岩壁に叩きつけられた獣は、そのまま動かなくなった。


 透の敵ではなかった。そのまま走り抜ける。


 猛スピードで層をスキップしていく。階段の位置は毎回変わるけれど、見つけるコツは分かっている。空気の流れ、壁の色の微妙な違い、足元の傾斜。長年の経験が染み付いていた。


 十層、二十層、三十層。立ち塞がるモンスターを一撃で蹴散らしながら、透は駆け続けた。


 五十層ほど進んだところで、ようやく足を止めた。


 ここから先は、少し厄介だった。


 罠が増えてくる。床に仕込まれた圧力板、天井から降ってくる石柱、触れた瞬間に発動する魔法陣で大量のモンスターが召喚されたりする。透の命を脅かすほどの危険ではないけれど、面倒ではあった。一度発動させてしまうと、攻略が長引いてしまう。


 ここで過ごす時間と、現実世界の時間の流れは大きく違っていた。ダンジョン内でどれだけ長い時間を過ごしたとしても、現実世界では一晩が過ぎるぐらいで戻ることができる。だから時間を気にせず、ゆっくり攻略することも可能ではある。


 だが、長引かせるつもりはなかった。効率よく進めて、さっさとクリアして元の世界に戻る。そのためには、罠を踏まないように注意しながら進む必要があった。


 先ほどと比べて進むスピードが遅くなった。周囲を警戒しながら、一歩一歩確かめるように足を進める。モンスターと遭遇する頻度も上がっていた。


 だが、透は気にしなかった。罠を見抜き、回避し、モンスターを斧で叩き伏せる。その繰り返し。淡々と、機械的に、ダンジョンを進んでいく。


 モンスターを倒すたびにドロップしたアイテムを拾い、ボックスに放り込んでいく。


 新たに拾った物は後で整理しないといけないな、と思いながら。


 入手したアイテムは、自分で使うぐらいしか使い道がなかった。だが十分な性能の武器と防具、特殊なアイテムを既に持っている透にとって、この程度のアイテムを使うタイミングはない。


 ここで入手した物を現実世界に持ち帰ることは可能だった。それは確認済みだ。向こうの世界で売れば、金になるかもしれない。


 けれど、透は探索士の資格を持っていない。売りに出せば身元を確認される可能性が高い。入手先を探られるだろう。資格も持っていない人間が、それをどうやって手に入れたのか。色々と疑われるだろう。そうなるとアパートの管理人として築いてきた、普通の人間としての生活が崩れかねない。だから、せっかく手に入れたアイテムも表舞台に出す予定は一切ない。


 とはいえ、ドロップしたアイテムをその場に放置するのも勿体ない。結果として、ボックスの中にアイテムがどんどん溜まっていく。使われることもなく、ホコリをかぶったまま。


 あれ、どうにか処分しないとマズイよな。


 そんな事を考えているうちに、周囲の空気が変わった。


 強力なモンスターが出現し始めた。


 まずは巨人。透の身長の何倍もある巨体が、通路を塞ぐように立っていた。地面を踏みしめるだけで洞窟が揺れる。透は正面から走り込み、振りかぶった斧を巨人の脚に叩き込んだ。膝から崩れ落ちた巨体に、追撃の一振り。頑丈だけど、急所を仕留めたら簡単だ。それで終わり。


 続いて、厄介な虫の群れ。数が多いし、酸や毒を撒き散らしながら群がってくるのが面倒。鎧のステータス異常耐性が毒を弾いてくれた。酸は避けつつ、斧を横薙ぎに振るう。まとめて吹き飛ばした。


 黒いモヤのような霊体が現れた時は、それも面倒だった。物理攻撃が通りにくい相手だ。けれど、斧に纏わせた闘気で無理やり斬り払う。霊体は悲鳴のような音を立てて消えていった。


 そしてドラゴン。単純に強い。炎を吐き、爪を振るい、尾で薙ぎ払ってくる。透は炎を斧の腹で受け流し、懐に飛び込んだ。首元に斧を叩き込む。重い手応え。力を込めて強引に攻撃。ドラゴンはゆっくりと倒れていった。


 今回は物理で戦うと決めた。だから全て接近戦で片付けた。一人で、黙々と。


 誰と話すわけでもなく、誰に見せるわけでもない。ただ一人で戦い続けて、先に進む。いつもと同じだった。


 そして、ようやくゴールに辿り着いた。


 最奥の広い空間。その中央に、球体の物体が浮かんでいた。淡い光を放つそれは、ダンジョン攻略の完了を示すもの。ここに到達すれば、今回は死なずに元の世界へ戻れる。


 透は球体に手を伸ばし、そっと触れた。


 眩い光が眼の前に広がった。視界が白く染まり、意識が引き上げられていく。


 そして、透は目を開けた。


 いつもの天井が見える。見慣れた自分の部屋の天井。窓のカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。時計を確認すると、午前六時を少し過ぎたところだった。


 体を起こす。首を回し、肩を回し、手を握って開く。


 そしてまた、透の普通の一日が始まる。

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