旅なのか、観光なのか、それが問題だ。
旅行に行くとなると、どこに行こうか、何を見ようかといった具体的な目的をついつい念頭に置いてしまうことにふと気がついた。これは自分の中で旅=観光という認識が定着してしまった結果だが、旅と観光は必ずしも一致しないのではないだろうか。
旅は自宅を離れて遠い余所の地へ行くということであり、観光は景色・名所・史跡などを見物して回るということを意味する。観光は具体的な目的地を設定するものだが、旅にはもう少し広い意味、ふわっとした射程を持っているように思える。
さすらいの旅といって、あてどなく各地を彷徨うということをやっている人もいるのかもしれないが、現代では少数派だろう。そういえば昔に「さすらいくん」という漫画を読んだことがある。旅というのは孤独を伴うものだということを、この作品で知ったように記憶している。
旅をする、住み慣れた環境を離れ遠い余所の地へ行くという行動の原動力は何だろうか。それは、見たこともないものを目にしたい、普段とは違った生活に浸ってみたいという欲求のように思える。大袈裟に言えば、未知の世界に飛び込んで自分の世界を広げたいという願望である。
このように考えると、具体的な目的地を定めてそこに一直線に進む観光というのは、旅とはだいぶ毛色が違うことが分かると思う。旅の中に観光が含まれる場合もあるだろうけど、旅=観光と認識してしまうのは、旅が持つ豊穣な意味合いを取りこぼす結果になりそうだ。
旅をすることの醍醐味は、何かを自分なりに発見することにあるのではないだろうか。自分なりというところが肝で、発見するのは自分しか知らない場所、誰も見たことがないものでなくても良い。ありふれた場所や景色であっても、それらを自分なりの見方で捉えることができれば、旅は有意義なものになるだろう。言わば、旅は個性を磨くために行うものということである。
この点、観光地というのは多くの人に知られている場所であり、事前情報も多い。現地に行かないと分からないこともあるだろうけど、大体のことはネットや雑誌で事前に把握可能となる。こうなると、観光地に行くということは、未知のものを求めるというよりは、事前に仕入れた情報と実際に見たものの答え合わせをしにいっているような印象を受ける。
今は誰もがスマホという名のカメラを持っている。観光地で記念撮影をしてSNSに上げるという行為は、空気のように現代人の生活に染み付いているが、この行動によってもたらされるのは、自分がどこに行ったとか、誰と一緒だったとか、何を食べたかといった現場報告のようなものである。そこに当事者の個性はない。ちょっと見渡せば自分と同じような写真を撮っている人がすぐに見つかるし、ネット上には同じような写真が溢れかえっていることに気が付くはずだ。
もちろん、観光地で自分なりの発見することもあるが、観光地としてパッケージ化されているとあらかじめ用意された風景を見るだけで満足していまい、そこから少し踏み込んだ見方をすることが難しくなるのではないかと思う。だから観光地ではみんな同じような行動を取ってしまうのだ。
大事なのは、何を見るかではなく、どう見るかということだと思う。自分が有名な場所にいるという証拠写真を撮るよりも、その場所で自分が何を感じたかということを発信する方がずっと意義があると感じる。
ものの見方というのは、目線や捉え方に気をつけてみたり、注意深く周囲を観察したりすることで鍛えることができるものであり、旅というのはそういったことを実践する格好の舞台なのだと思う。
別の言い方をすれば、ものの見方が変わらないのであれば、たとえ宇宙旅行で別の星に行っても対して意味はないということになる。
観光産業というものを否定するつもりはないけれど、それに慣れすぎると自分の個性を磨く機会を失ってしまう可能性があるので注意したいものだ。
旅というのは、当人が何かを主体的に発見するものであって、ここを見てくださいと用意された場所に行くのはどうにも趣に欠けると感じる次第。
大型連休などで同じ場所にたくさんの人が詰め掛け、疲れるばかりで趣も何もあったものじゃないという事態は、旅というものの意味を改めて捉え直すことで多少解決するのではないかと期待したい。終わり




