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空色の距離

プロローグ:灰色の東京と小さな光

東京の空は、今日もまた、鉛色に淀んでいた。高層ビル群の隙間から覗くその色は、ユキ(41歳)の疲労と、日々の閉塞感を象徴しているかのようだった。朝から晩までディスプレイとにらめっこする残業続きの仕事は、彼女の心身をじわじわと蝕んでいく。ノルマ、上司の罵声、同僚の冷たい視線。まるで、呼吸をすることすら許されないような、息苦しい毎日だった。


「もう、嫌だ…」


会社のトイレで、ユキは何度そう呟いただろう。鏡に映る自分の顔は、生気を失い、目の下には深いクマが刻まれている。このままでは、いつか本当に壊れてしまう。そんな予感が、常に彼女の心を締め付けていた。ふと、窓の外に目をやると、真っ黒な空が広がっている。あの空に吸い込まれてしまえたら、どんなに楽だろう。そんな恐ろしい考えが、頭をよぎることもあった。


一人暮らしの部屋に帰れば、待っているのは冷たい静寂だけ。コンビニで買った夕食を電子レンジで温める音だけが、虚しく響く。ため息ばかりの日々だった。そんなある日、ユキは指先が無意識に滑らせたスマホの画面で、一枚の空の写真に目を奪われた。それは、SNS「トリッダー」(現Xのようなもの)に投稿されたものだった。写真には、ただ空だけが写っている。しかし、都会の空とは違う、どこか懐かしく、そして心を揺さぶるような、不思議な魅力があった。投稿主は「ハル」(27歳)。彼のプロフィールには、簡素な自己紹介と、過去の空の写真がずらりと並んでいた。ユキは、その日から、彼のひそかなファンになった。彼の写真が投稿されるたびに、彼女の心に、微かな光が灯るのを感じた。


ハルは、高校時代のいじめが原因で不登校になって以来、ほぼ部屋から出ていない無職の青年だ。彼の世界は、部屋にあるたった一枚の窓から見える空だけ。朝、昼、晩、そして夜。毎日、その窓から空の写真を撮り、トリッダーに投稿する。フォロワーなどはおらず、ハルも趣味なだけなので満足していた。誰かに見てもらうためではなく、ただ、その日の空の記録として。それが、彼の唯一の日常であり、外の世界との繋がりだった。


ハルは父子家庭で育った。父親のナツオは、営業会社で誰からも好かれる優秀な社員で、給料もいい。その代わり、海外への出張が多く、数か月に数日しか日本にいない。ナツオが家にいる数日は、家の中が明るく活気づく。ハルは、そんな父親が自慢だった。彼の成功が、自分の存在を肯定してくれる唯一の光だった。しかし、ハルが引きこもりになった理由は、彼自身も漠然とした悲しみに囚われているだけだった。大好きな母親が突然いなくなり、父親は何も語らない。その空白が、彼の心を深く閉ざしていたのだ。ナツオは、ハルには母親の死を隠し通せていると思い込んでいた。そして、自身も深い悲しみから立ち直るために、海外で仕事に没頭する日々を送っていた。


ハルの家の隣には、同級生のモミジ(27歳)が住んでいた。実家のコンビニを継ぎ、店長として働いている。モミジは学生時代、自分はもっと優秀で、就職活動では引く手あまたと油断していたが、内定は一つももらえない。プライドはズタズタになり、「楽な仕事」だと自分に言い聞かせ、不本意ながらも実家を継ぐことになったのだ。ナツオからもハルの様子を気にかけるよう頼まれているが、何も語ろうとしないハルに、モミジはいつも不満や愚痴をぶちまけて帰っていく。


モミジ:「あんた、いつまでそうしてるつもりなのよ!いい加減、外に出なさいよ!ナツオさんも心配してるわよ!」


モミジの甲高い声が、ハルの部屋に響く。ハルは、ただ黙って、窓の外の空を見つめるだけだ。学生時代のハルを好きだったモミジは、今の、引きこもってしまったハルを認めることができずにいた。彼女の言葉は、心配と苛立ちが入り混じった、複雑な感情の表れだった。しかし、その根底には、自分だけが不本意ながらも必死に働いているのに、ハルが何もせずに部屋にいることへの、拭いきれない不満と嫉妬があった。それは、モミジ自身も、まだ気づいていない感情だった。


それぞれの日常が、それぞれの場所で、静かに、しかし確実に展開されていく。ユキはハルの空の写真に密かに癒やされ、ハルは窓越しの空に自身の世界を見出し、モミジは不満を抱えながらもコンビニの店長として日々を過ごしていた。


1. 窓越しの奇跡と募る想い

ユキがハルの空の写真を追うようになって数ヶ月が経った頃、彼女自身も気が向いたときに空の写真を撮る習慣ができていた。それは、ハルの写真に影響された、ささやかな日常の変化だった。ある日の夕方、彼女は自宅の窓から、西の空にまっすぐに伸びる飛行機雲を見つけた。まるで白い一本の線が、無限の彼方へと続いているかのようだ。ユキは思わずスマホを構え、その光景を写真に収めた。いつもは切り取るような構図で撮るのだが、この日は飛行機雲がすべて収まるように、少し引きで撮った。その結果、写真の隅には、向かいのマンションの屋根と、誰かの洗濯物が干された窓が偶然にも映り込んでいた。


その夜、いつものようにハルのトリッダーをチェックしていたユキは、思わず息を呑んだ。そこに投稿されていたのは、まさに彼女が撮った飛行機雲と酷似した空の写真。しかし、ハルの写真には、いつも映り込む電線がない。代わりに、彼女が撮った写真と同じように、屋根と、そして、洗濯物が干された窓が映っていたのだ。


ユキ:「まさか…」


ユキの心臓が、ドクンと大きく鳴った。彼女は、自分の写真とハルの写真を何度も見比べた。間違いなく、同じ飛行機雲、同じ屋根、そして、同じ洗濯物。その洗濯物は、彼女が今朝干したばかりの、お気に入りの白いシャツだった。


ハルの家の向かいの家のアパートの2階。洗濯物が干されたままになっている窓。それは、紛れもなく自分の部屋の窓だった。ユキは、その事実に、鳥肌が立つほどの衝撃を受けた。毎日、彼女の心を癒やしてくれていた空の写真は、まさか、こんなにも近くから撮られていたなんて。


その日から、ユキの日常は一変した。仕事から帰宅するたびに、彼女は向かいのマンションの窓に釘付けになった。どこかの窓が開いて、シャッターを切る音が聞こえないか。そんな微かな期待に胸を膨らませ、ワクワクしながら窓を見つめた。あの窓の向こうに、ハルがいる。その事実が、彼女の心を強く揺さぶった。それだけを支えに、つらい残業続きの仕事にも耐え、日々の生活を送っていた。


しかし、1年が過ぎても、その瞬間を見ることはできなかった。ハルが写真を撮る姿を見ることは一度もなかった。その間も、彼のトリッダーには、毎日欠かさず、新しい空の写真が投稿され続ける。彼の空は、いつも澄んでいて、時に力強く、時に優しく、ユキの心を励まし続けた。


だんだんと、ユキの心に、我慢できないほどの衝動が募っていった。このままではいけない。何か、行動を起こさなければ。


そして、ある夜。ユキは、震える指で、ハルのトリッダーのDMアイコンをタップした。


ユキ:「あなたの写真にいつも励まされています。」


たったそれだけのメッセージを送信し、ユキはスマホを握りしめたまま、ベッドに倒れ込んだ。心臓が、激しく高鳴っていた。


2. 繋がる声、深まる心

数日後、仕事中にユキのスマホが震えた。画面には「トリッダー」の通知。ハルからの返信だった。


ハル:「ありがとう」


たった一言。しかし、その短い言葉に、ユキの胸は熱くなった。オフィスビルの喧騒の中、彼女の心臓は、まるで恋に落ちた少女のように、ドクンと大きく鳴り響いた。嬉しさと安堵が入り混じった感情が、全身を駆け巡る。周りの目を気にしながら、思わず口元が緩んだ。


さっそく仕事終わりに、ユキは返事を返した。


ユキ:「私も影響されて空を撮ってます」


そこから、二人のやり取りは急速に深まっていった。お互いが撮った空の写真を送り合い、その日の空の様子や、写真に込めた思いを語り合った。


ユキ:「今日の雲は、まるで龍が泳いでいるみたいで…」

ハル:「ああ、わかります。僕も、あの雲の隙間から差し込む光が、希望に見えました」


互いの言葉に、深く共感し合うたびに、二人の間には、目には見えない、しかし確かな絆が紡がれていくのを感じた。ハルも、ユキが送ってくる空の写真が、自分の家から見える景色と酷似していることに気づいていた。なんとなく天気の話や、空の表情について語り合う中で、互いが同じ地域に住んでいることを、二人は暗黙のうちに理解し合っていた。


そんなある日のことだった。その日は、夏らしい、真っ白で巨大な入道雲が空いっぱいに広がっていた。まるで、物語に出てくる天空の城のように、雄大で、幻想的な姿だ。ユキは、その光景に心を奪われ、思わずスマホを構えた。シャッターを切る。その直後、スマホが振動した。ハルからのメッセージだ。


ハル:「父さんの言ったことは本当だったんだ!ラピュタはあったんだ!」


ユキは、そのメッセージに驚きながらも、すぐに自分の撮った写真に目をやった。そして、ハルが送ってきた写真を開いて、さらに目を見開いた。そこに映っていたのは、まさに彼女が撮ったのと同じ、雄大な入道雲。そして、添えられたメッセージも、全く同じだった。


ユキ:「え…っ!?」


ユキの心臓が、再び大きく跳ねた。偶然にしては、あまりにも出来すぎている。同じ空を見上げ、同じ瞬間に、同じ感動を覚え、同じ言葉を紡いだ。それは、まるで二人の心が、空を通して完全に繋がったことを示す、奇跡のような出来事だった。ハルもまた、ユキからの返信を見て、驚きと喜びで胸がいっぱいになっていた。


ハル:「ユキさんも…同じ空を見てたんだ…」


互いの言葉に、深く共感し合うたびに、二人の間には、目には見えない、しかし確かな絆が紡がれていくのを感じた。ハルも、ユキが送ってくる空の写真が、自分の家から見える景色と酷似していることに気づいていた。なんとなく天気の話や、空の表情について語り合う中で、互いが同じ地域に住んでいることを、二人は暗黙のうちに理解し合っていた。


それでも、二人の口から「会いたい」という言葉が出ることはなかった。ユキは、41歳で彼氏なしという自分の現状と、ハルが27歳の引きこもりニートであるという事実を、重く受け止めていた。もし、現実で会って、互いに幻滅してしまったら?この、空を通して繋がった、かけがえのない関係が壊れてしまうのではないか?そんな不安が、常に彼女の心をよぎった。


ハルもまた、同じように葛藤していた。部屋からほとんど出ない自分と、社会で働くユキ。彼女は、彼の投稿する空の写真に「励まされている」と言ってくれた。しかし、現実の自分を見たら、彼女は失望するのではないか。外の世界への恐怖と、自身の現状への劣等感が、彼を一歩踏み出すことを躊躇させた。


互いの境遇を慮り、傷つけ合うことを恐れて、彼らはその「会いたい」という透明な壁を打ち破ることができなかったのだ。それでも、オンラインでの会話は、彼らにとって、何よりも楽しい時間だった。日々の疲れや孤独を忘れさせてくれる、唯一の光。


そして、次第に二人は、文字だけのやり取りでは飽き足らず、電話で話すようになった。最初はぎこちなかった会話も, 空の話から、日常の些細な出来事、互いの悩みへと広がっていく。ユキは、職場の人間関係の悩みや、一人暮らしの寂しさを、ハルの優しい声に包まれるように打ち明けた。彼の声は、彼女の心を包み込むような、優しい響きを持っていた。ハルは、多くを語らないが、静かに耳を傾け、的確な相槌を打った。彼の存在は、ユキにとって、誰にも言えない本音を打ち明けられる、唯一の場所となっていった。


3. 揺らぐ日常と、それぞれの兆し

ユキとハルの電話での交流が深まるにつれ、それぞれの日常にも、微かな変化の兆しが見え始めていた。


ユキは、相変わらずのブラック企業での残業に疲弊していたが、ハルとの電話が、唯一の心の支えとなっていた。深夜、誰もいないオフィスで、ふとスマホの画面に目をやると、ハルが撮った今日の空の写真が目に飛び込んでくる。その写真に、見慣れた電線が写っているのを見ると、不思議と心が落ち着いた。ハルは、今もあの窓の向こうで、同じ空を見上げている。そう思うだけで、もう少しだけ頑張れる気がした。しかし、同時に、このままではいけないという焦りも募っていた。この、空に繋がるだけの関係を、いつまで続けていられるのだろうか。


ハルは、ユキとの電話で、少しずつ外の世界への興味を抱き始めていた。彼女の語る日常は、彼にとってはまるで別世界の物語のようだった。会社の人間関係、通勤電車の混雑、ランチの話題。どれもこれも、彼が何年も経験していないことばかりだ。しかし、同時に、外の世界への恐怖は根強く残っていた。母親が突然いなくなった理由、父親が何も語らない理由。その空白が、彼の心を深く閉ざしたままだった。彼は、窓から空の写真を撮り続ける。それは、母親がいるかもしれない空、天国の写真を撮る行為であり、母親との唯一の繋がりだった。その行為が、彼を外の世界から守る、最後の砦のようでもあった。


隣に住むモミジは、相変わらずハルの家を訪ねては、彼に小言を言っていた。


モミジ:「あんた、いつまでそうしてるつもりなのよ!いい加減、外に出なさいよ!ナツオさんも心配してるわよ!」


彼女の言葉は、以前にも増して苛立ちを含んでいた。コンビニの仕事は単調で、彼女の心は満たされない。学生時代の輝かしい未来を夢見ていた自分と、何もせずに部屋にいるハルを比較し、無意識のうちに苛立ちを募らせていたのだ。彼女は、ハルへの「好き」という感情と、彼への「不満」という感情の間で揺れ動いていた。なぜ、こんなにも彼に腹が立つのか。その本当の理由には、まだ気づいていなかった。


レジを打ちながら、モミジはふと、自分の手のひらを見た。荒れた指先、ささくれ立った爪。かつては、もっと綺麗な手で、もっと華やかな仕事をするはずだったのに。そんな思いが、心の中で渦巻く。ハルへの苛立ちは、結局のところ、自分自身への不満の裏返しなのだと、彼女はまだ気づいていなかった。


ある日の夜、モミジは、コンビニの売上を計算しながら、ふとため息をついた。今日も一日、同じ作業の繰り返し。このままでいいのだろうか。かつて抱いていた夢は、どこへ消えてしまったのだろう。そんな時、彼女の脳裏に、ハルの部屋の窓から見える空の写真がよぎった。彼は、毎日、あの空を見ている。そして、その空に、何かを見出している。自分には、何があるのだろう。モミジの心に、これまで感じたことのない、漠然とした焦燥感が芽生え始めていた。


ナツオは、相変わらず海外出張で不在がちだった。彼は、ハルが母親の死を知っているとは夢にも思っていなかった。自分が真実を隠し通せていると思い込み、そして、自身も深い悲しみから立ち直るために、仕事に没頭する日々を送っていた。たまに日本に帰国しても、ハルとの会話は表面的なものに留まっていた。ハルが少しずつ外の世界に興味を持ち始めていることには気づいていたが、それが何によるものなのか、ナツオにはわからなかった。彼の心の中には、常に、妻を失った悲しみと、ハルを一人にしてしまったことへの罪悪感が、影のように付きまとっていた。


4. 雨上がりの誘いと、一歩踏み出す勇気

ある日のことだった。その日は朝から激しい雨が降り続き、ユキの心も、どんよりとした空模様のように沈んでいた。会社では、彼女が担当していたプロジェクトで大きなミスが発覚し、上司からの厳しい叱責が嵐のように降り注いだ。まるで、雨が彼女の心に直接降り注いでいるかのようだ。心は深く傷つき、体は鉛のように重かった。帰宅しても、部屋の電気をつける気力すら湧かない。ただ、ソファに身を沈め、窓の外の雨音を聞いていた。雨粒が窓ガラスを叩く音が、彼女の孤独を一層際立たせた。


その夜、いつものようにハルから電話がかかってきた。ユキは、ためらいながらも電話に出た。声が震えないように、深呼吸を一つ。


ユキ:「もしもし…」


ハル:「ユキさん、こんばんは。今日は雨がすごかったですね。僕の部屋の窓から見える空も、ずっと灰色でした」


ハルの穏やかな声が、ユキの耳に届く。その声に、張り詰めていた心が、少しだけ緩むのを感じた。ユキは、今日あった出来事を、ぽつりぽつりと話し始めた。仕事のミス、上司の叱責、そして、自分の不甲斐なさ。言葉にするたびに、胸の奥がチクチクと痛んだ。


ハルは、いつもと変わらず、静かに耳を傾けてくれた。彼の沈黙は、決して冷たいものではなく、むしろ、ユキの言葉を全て受け止めてくれるような、温かいものだった。ユキが話し終えると、少し間を置いて、ハルは、まるで彼女の心を覗き込んだかのように、こう言った。


ハル:「ユキさん…僕も、今日は少し、気分が沈んでいました。ずっと雨で、外の空を見ることができなかったから」


彼の言葉に、ユキはハッとした。彼は、いつも空を見ている。雨の日には、彼もまた、外の世界との繋がりを失い、孤独を感じているのかもしれない。自分だけじゃない。その事実に、ユキの心に、微かな温かさが広がった。


ハル:「でも…」


ハル:「今、雨が上がりました。雲の切れ間から、星が見えそうです」


ユキは、ハルの言葉に促されるように、ゆっくりとソファから立ち上がり、窓の外を見た。確かに、雨音は止み、厚い雲の切れ間から、微かに、しかし確かに、星の光が瞬いていた。都会の光に霞む星だが、その輝きは、ユキの心に希望の光を灯した。


ユキ:「本当だ…」


ユキの口から、自然と声が漏れた。その声には、先ほどまでの疲労とは違う、微かな感動が宿っていた。


ハル:「ええ。もし、ユキさんのところからも見えたら、嬉しいです」


ハルは、そう言って、少しだけはにかんだように笑った。その声は、まるで星の光のように、優しく、ユキの心に降り注いだ。


その日の夜、ユキは、ハルとの電話を終えた後、久しぶりに深く眠ることができた。悪夢にうなされることもなく、ただ、穏やかな闇の中に身を委ねた。翌朝、目覚めると、空は雲一つない、絵に描いたような青空が広がっていた。清々しい朝の光が、部屋いっぱいに差し込む。ユキは、スマートフォンを手に取り、窓から見える空の写真を撮った。そして、トリッダーを開き、ハルの投稿を確認する。そこには、やはり、昨日とは打って変わって、雲一つない、どこまでも広がる青空の写真が投稿されていた。


その写真を見て、ユキの胸に、ある衝動が込み上げてきた。それは、これまで抑え込んできた「会いたい」という感情が、堰を切ったように溢れ出すような、強い衝動だった。


ユキ:「ねえ、ハルさん…」


電話口で、ユキは、少しだけ震える声で言った。心臓が、ドクンと大きく鳴る。もう、後戻りはできない。


ユキ:「もし、次に、すごく綺麗な空が見えたら…その空の下で、一緒に…」


ユキの言葉は、そこで途切れた。彼女の口から、それ以上、言葉は出てこなかった。心臓が、激しく高鳴り、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。ハルは、電話の向こうで、息を飲む音が聞こえた。沈黙が、二人の間を満たす。その沈黙は、重く、しかし、期待に満ちたものだった。互いの心臓の鼓動が、電話線を通して、響き合っているかのようだった。


5. 揺らぐ心の奥底:それぞれの真実への道

ユキの言葉に、ハルは言葉を失っていた。会いたい。その言葉が、喉まで出かかっているのに、どうしても口にできない。母親が突然いなくなった理由、父親が何も語らない理由。その空白が、彼の心を深く閉ざしたままだった。もし、彼女にこの全てを知られたら、失望されるのではないか。そんな恐怖が、彼を縛り付けていた。


ナツオは、日本に一時帰国していた。久しぶりにハルの部屋を訪ねると、以前よりもハルの表情が明るくなっていることに気づいた。しかし、同時に、まだどこか影を抱えていることも感じ取った。ナツオは、ハルの部屋の窓から見える空を見上げた。その空は、妻が亡くなったあの日の空に、どこか似ている気がした。


ナツオ:「ハル…お前、最近、何かいいことでもあったのか?」


ナツオは、何気ないふりをして、ハルに尋ねた。ハルは、少し戸惑いながらも、トリッダーで知り合った女性、ユキとの交流について、訥々と語り始めた。空の写真を通して繋がったこと、そして、電話で話すようになったこと。ハルの言葉から、ユキへの淡い期待と、同時に、現実で会うことへの葛藤が滲み出ていた。


ナツオは、ハルの話を聞きながら、胸の奥が締め付けられるのを感じた。ハルが、こんなにも心を許せる相手を見つけた。それは喜ばしいことだ。しかし, このままでは、ハルはいつか、真実を知ることになる。そして、その時、彼は自分をどう思うだろう。ナツオは、自身の悲しみから立ち直るために、妻の死を隠し通すことでハルを守っているつもりだった。だが、それは、ハルの心を深く閉ざす原因になっていたのかもしれない。ナツオの心にも、長年の「モヤモヤ」が渦巻いていた。


一方、モミジは、コンビニのレジ打ちをしながら、ハルとユキの電話でのやり取りが続いていることを、なんとなく察していた。ハルの部屋から聞こえる、以前よりも明るい声。それが、彼女の心に、複雑な感情を呼び起こした。


モミジ:「何よ、楽しそうにしてるじゃない。あんただけ…」


モミジは、レジの奥で、小さく呟いた。彼女は、ハルへの「好き」という感情と、彼への「不満」という感情の間で、激しく揺れ動いていた。なぜ、こんなにも彼に腹が立つのか。自分は必死に働いているのに、彼は部屋にいる。その事実が、彼女のプライドを傷つけ、嫉妬心を募らせていたのだ。彼女は、まだ、その嫉妬の根源が、自分自身の不本意な現状にあることには気づいていなかった。


ある日の夜、モミジは、コンビニの売上を計算しながら、ふとため息をついた。今日も一日、同じ作業の繰り返し。このままでいいのだろうか。かつて抱いていた夢は、どこへ消えてしまったのだろう。そんな時、彼女の脳裏に、ハルの部屋の窓から見える空の写真がよぎった。彼は、毎日、あの空を見ている。そして、その空に、何かを見出している。自分には、何があるのだろう。モミジの心に、これまで感じたことのない、漠然とした焦燥感が芽生え始めていた。


ナツオは、相変わらず海外出張で不在がちだった。彼は、ハルが母親の死を知っているとは夢にも思っていなかった。自分が真実を隠し通せていると思い込み、そして、自身も深い悲しみから立ち直るために、仕事に没頭する日々を送っていた。たまに日本に帰国しても、ハルとの会話は表面的なものに留まっていた。ハルが少しずつ外の世界に興味を持ち始めていることには気づいていたが、それが何によるものなのか、ナツオにはわからなかった。彼の心の中には、常に、妻を失った悲しみと、ハルを一人にしてしまったことへの罪悪感が、影のように付きまとっていた。


6. 明かされる真実:父と子の涙、そして母親の空

その日の夜、ナツオは意を決して、ハルに話しかけた。ハルがユキとの関係を深めている今が、真実を伝えるべき時だと感じたのだ。


ナツオ:「ハル…お前に、ずっと話すべきだったことがあるんだ」


ナツオの言葉に、ハルの心臓が跳ね上がった。母親のことだ。そう直感した。ナツオは、深く息を吐き、ゆっくりと、しかし、はっきりと語り始めた。


ナツオ:「お前の母親は…もう、この世にはいないんだ。お前が高校生の時、病気で…突然、亡くなった。あの時、お前には言えなかった。あまりにも突然のことで、お前を悲しませたくなかった。それに、幼いお前に病気のことを理解させるのは難しいと思った。だから…お前には何も言わずに、俺は、自分の悲しみから逃げるように、海外で仕事に没頭していたんだ」


ナツオの言葉は、ハルの心を深く突き刺した。母親が亡くなったこと。そして、父親が、自分と同じように、その悲しみを抱え、苦しんでいたこと。長年抱え込んできた母親への喪失感と、父親への不信感が、一瞬にして溶けていく。父親もまた、自分と同じように、大切な人を失った悲しみと向き合っていたのだ。


ハル:「父さん…俺、知ってたよ。あの時、親戚から電話があって…」


ハルの告白に、今度はナツオが息を呑んだ。彼は、自分が隠し通せていると思い込んでいた事実が、とっくにハルに知られていたことに、衝撃を受けた。そして、そのことで、ハルがどれだけ苦しんでいたのかを悟った。


ナツオ:「ハル…本当に、すまなかった…」


ナツオは、震える声で、ハルを抱きしめた。その温かい腕の中で、ハルは、これまでの孤独と苦しみを全て吐き出すように、泣き続けた。母親は空の向こう、天国にいる。彼の撮り続けてきた空の写真は、無意識のうちに、母親への祈りであり、天国へのメッセージだったのだ。その事実に気づいたハルの目からは、さらに涙が溢れた。二人の間にあった、見えない壁が、ゆっくりと崩れ落ちていった。


7. モミジの気づきと新たな一歩

その日の夜、モミジはコンビニのレジを打ちながら、ハルの家から聞こえる、激しい泣き声に気づいた。いつもと違う、悲痛な声。心配になり、彼女はコンビニを閉めると、すぐにハルの家へと向かった。


ドアを開けると、そこには、ナツオに抱きしめられ、声を上げて泣いているハルの姿があった。そして、ナツオから、母親の死の真実が語られた。モミジは、その話を聞きながら、ハルの苦しみを理解した。そして、同時に、自分の心の中にある「モヤモヤ」の正体にも気づいた。


モミジ:「私…ずっと、あんたが羨ましかったんだ…」


モミジは、ハルとナツオの前で、ポツリと呟いた。内定がもらえず、不本意ながら実家を継いだ自分。必死に働いているのに、満たされない毎日。そんな自分と、何もせずに部屋にいるように見えたハルを比較し、嫉妬していたのだ。ハルの苦しみを目の当たりにし、自分の感情の根源に気づけたことで、彼女の心は、少しだけ軽くなった。


モミジ:「ハル…ごめんね。私、ずっと、あんたのこと、誤解してた。それに、私…自分のことばっかりで、あんたの気持ち、全然わかってあげられなかった」


モミジは、素直に謝った。ハルは、涙で濡れた瞳でモミジを見た。そして、二人の間に、長年のわだかまりが溶けていくのを感じた。


8. 動き出す世界と、それぞれの決意

ナツオからの真実の告白と、彼との和解で、長年の心の闇が晴れたハルは、少しずつ、外の世界に目を向け始めた。母親が亡くなったこと、父親が自分を思って真実を隠していたこと。その全てを受け入れた彼は、もう、部屋に閉じこもる必要はなかった。母親は、空の向こうで、自分を見守ってくれている。その確信が、彼を強くした。


ユキとの電話は、彼にとって、外の世界への架け橋となっていた。彼女の明るい声、空への情熱。それが、彼を一歩踏み出す勇気を与えてくれた。ハルは、ユキに、自分の母親のこと、父親との和解のこと、そして、これまでの自分の全てを打ち明けた。ユキは、全てを受け止め、優しくハルを励ました。


ユキ:「ハルさん…私も、ずっと、仕事で苦しんでいました。でも、ハルさんの空の写真と、ハルさんの声が、私を支えてくれました。だから、今度は、私がハルさんの支えになりたいです」


ユキは、ハルとの関係を通して、自分自身の「モヤモヤ」にも向き合っていた。このままブラック企業で働き続けるのか。彼女は、転職活動を始める決意をした。


モミジもまた、ハルへの嫉妬の感情に気づけたことで、自分の人生を見つめ直していた。コンビニの店長として、もっとできることがあるはずだ。彼女は、コンビニの経営改善に積極的に取り組み始めた。商品の陳列を変えたり、新しいサービスを導入したり。小さな変化だが、それが彼女自身の自信へと繋がっていった。そして、ハルに対しては、以前のような小言ではなく、心からの励ましを送るようになった。時折、ハルをコンビニに誘い、少しずつ外の世界に慣れさせようとした。


ナツオは、ハルとの絆を取り戻し、以前よりも頻繁に日本に帰国するようになった。ハルの成長を、間近で見守る喜びを感じていた。


エピローグ:繋がる空、導く星

ある夜、ユキの携帯に、ハルからメッセージが届いた。


ハル:「ユキさん。今夜、すごく綺麗な星空が見えそうです。もし、よかったら…」


そのメッセージに、ユキの心臓が大きく鳴った。彼女は、急いで窓の外を見た。確かに、雲一つない、満点の星空が広がっていた。


ユキ:「はい…!」


ユキは、急いで身支度を整え、部屋を飛び出した。向かう先は、ハルの家の近くにある、小さな公園。そこは、二人が電話で話すたびに、空の写真を撮る場所として、互いに想像していた場所だった。


公園に着くと、そこにハルが立っていた。彼の表情は、緊張と期待が入り混じっていた。ユキの姿を見つけると、ハルは一歩、前に踏み出した。


ハル:「ユキさん…」


ハルの声は、震えていた。


ハル:「ユキさんに出会ってから、僕の空は、もっと広くなった。ユキさんの声を聞いていると、外に出る勇気が湧いてくる。僕…ユキさんのことが…好きです。僕と…付き合ってくれませんか?」


ハルは、真っ直ぐにユキの瞳を見つめた。ユキの心臓が、激しく高鳴る。長年抱えていた不安が、彼の真っ直ぐな言葉によって、溶けていくのを感じた。


その時、空に、一筋の光が走った。


ユキ:「あ…っ!流れ星!」


ユキとハルは、同時に夜空を駆け抜ける流れ星を見上げた。その光は、まるで二人の未来を祝福しているかのようだった。


ユキは、流れ星が消えるのを見届けると、ハルに向き直り、優しく微笑んだ。


ユキ:「願い事が…叶いました」


その言葉に、ハルは目を見開いた。ユキの瞳は、星の光を宿しているかのように輝いていた。ハルは、ユキの隣で、そっと手を握った。ユキは、その温かさに、そっと目を閉じた。


同じ頃、モミジはコンビニのレジで、ぼんやりと外を見ていた。客足も途絶え、店内に流れるBGMだけが聞こえる。ふと、彼女は夜空を見上げた。


モミジ:「あ…っ!」


彼女の視界の端を、一筋の光が横切った。流れ星だ。モミジは、思わず手を合わせた。彼女の心の中の「モヤモヤ」は、まだ完全には消えていない。しかし、その光は、彼女の心に、新たな希望を灯した。


遠く離れた空港では、ナツオが、ようやく日本に到着し、ゲートを出たところだった。長時間のフライトで疲労困憊だったが、ハルに会える喜びが、彼の心を軽くしていた。ふと、彼は空を見上げた。都会の光に紛れて、星はまばらにしか見えない。しかし、その中に、一筋の光が、瞬く間に消えていくのが見えた。


ナツオ:「…流れ星か」


ナツオは、小さく呟いた。彼の心の中の悲しみは、まだ完全に癒えたわけではない。しかし、ハルとの絆を取り戻し、彼の成長を見守る喜びが、彼を前向きにさせていた。


空は、いつもそこにある。どんな時も、彼らを優しく見守り、導いてくれる。


彼らの物語は、まだ始まったばかりだ。

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