第四章:対決:血の果てに
甚兵衛の心に芽生えた新たな決意は、彼を突き動かす原動力となった。しかし、その決意は、彼の苦悩を全て払拭するものではなかった。むしろ、これまで目を背けてきた「業」の深淵を、より深く見つめることを意味していた。特に、権蔵の存在は、甚兵衛の心を常にざわつかせた。いつ、どこで襲われるか分からないという緊張感は、彼の精神を極限まで追い詰めていた。
ある夜更け、甚兵衛は寝床でおさとの隣に横たわっていた。疲労困憊のはずなのに、彼の目は冴え渡り、眠りにつくことができなかった。斬り捨てた者たちの顔が、走馬灯のように脳裏をよぎる。中でも、おきぬの澄んだ瞳と、権蔵の憎悪に満ちた眼差しが、彼の心を支配していた。
その時、微かな物音が、甚兵衛の耳に届いた。風の音とは違う。何か、硬いものが、庭の土を踏み締めるような音。甚兵衛は、すかさず体を起こし、息を殺して耳を澄ませた。
ギィ…と、裏口の戸が、わずかに開く音がした。甚兵衛の心臓が、激しく脈打つ。来た。
甚兵衛は、音を立てぬよう、枕元に置いていた刀を手に取った。おさとは、甚兵衛の異変に気づいたのか、寝返りを打ち、微かに身じろぎした。甚兵衛は、彼女を起こさぬよう、慎重に布団から抜け出した。
闇に紛れて、甚兵衛は廊下を伝い、裏口へと向かった。裏口の戸は、確かにわずかに開いていた。そこから、闇夜に溶け込むように、一人の男が侵入しようとしている。月明かりが、その男の顔を照らす。権蔵だった。
権蔵は、甚兵衛の屋敷の造りを熟知しているかのように、音もなく奥へと進もうとしていた。彼の手に握られているのは、あの時と同じ、鈍い輝きを放つ小刀だった。
甚兵衛は、権蔵の背後に音もなく忍び寄り、その肩に手を置いた。
「待っていたぞ、権蔵」
甚兵衛の声は、低いが、静かな怒りを宿していた。権蔵の体が、ビクリと跳ねる。彼は、まさか甚兵衛が待ち伏せているとは思っていなかったのだろう。
権蔵は、素早く身を翻し、小刀を甚兵衛に突き出した。電光石火の速さ。しかし、甚兵衛は、その動きを予測していたかのように、体をひねってそれを避けた。
「やはり、来たか」
甚兵衛は、刀を鞘から抜き放った。カキン、と冷たい鋼の音が闇夜に響き渡る。
「貴様!」
権蔵の目に、驚愕と、そして深い憎悪が混じり合った。
「貴様は、わしの妹を奪った。あの女の無念、必ず晴らしてやる!」
権蔵は、狂気をはらんだ目で甚兵衛に襲いかかった。彼の小刀は、まるで蛇のように身をくねらせ、甚兵衛の急所を狙ってくる。甚兵衛は、その全ての攻撃を受け流し、時に刀の峰で権蔵の小刀を弾いた。キン、キン、と金属音が響き渡る。
甚兵衛は、これまで斬ってきた罪人たちとは異なり、権蔵を殺すことに躊躇いを感じていた。彼は復讐に燃えているが、その根底には、愛する妹を奪われた深い悲しみがあることを、甚兵衛は知っていた。それは、甚兵衛自身が「業」として抱える苦悩と、どこか通じるものがあるように思えた。
「貴様は、恨みに囚われすぎている!」
甚兵衛は、権蔵の攻撃を躱しながら、叫んだ。
「その恨みは、貴様自身をも滅ぼすぞ!」
「黙れ! 人殺しが、何を言う!」
権蔵は、甚兵衛の言葉に耳を貸さず、一層激しく斬りかかってきた。彼の動きは、単なる武術の域を超え、憎悪の炎に突き動かされているかのようだった。
甚兵衛は、権蔵の隙を突き、刀を横薙ぎに払った。権蔵は、間一髪で体を反らし、刀は彼の頬を僅かに掠めた。権蔵の頬から、一筋の血が流れ落ちる。しかし、彼はひるむことなく、さらに攻撃を続けた。
死闘が続く中、甚兵衛は、ふと、これまでの処刑の光景を思い出した。罪人たちは、皆、死への恐怖と絶望に苛まれていた。しかし、権蔵は違った。彼を突き動かすのは、死への恐怖ではなく、復讐という強い「生」の執念だった。
甚兵衛は、権蔵の攻撃の合間を縫って、一気に間合いを詰めた。権蔵は、不意を突かれたように、わずかに体勢を崩す。その隙を逃さず、甚兵衛は刀を逆手に持ち替え、権蔵の腕を巻き取るように捕らえた。
「ぐっ…!」
権蔵の小刀が、カランと音を立てて地面に落ちる。甚兵衛は、権蔵の腕を背中に回し、地面に組み伏せた。権蔵は、必死に抵抗したが、甚兵衛の鍛え上げられた力には敵わなかった。
甚兵衛は、自分の刀の切っ先を、権蔵の喉元に突きつけた。冷たい刃が、権蔵の皮膚に触れる。権蔵の体から、微かな震えが伝わってきた。
「ここで、貴様を斬り捨てることもできる」
甚兵衛の声は、震えていた。しかし、彼の瞳には、以前のような迷いはなく、深い哀しみが宿っていた。
「だが、それでは何も変わらぬ。貴様の妹の魂は、決して安らかにならぬ」
権蔵は、甚兵衛の言葉に、苦痛に顔を歪ませた。彼の目に、憎悪とは異なる、深い悲しみが浮かんだ。
「何を…綺麗事を…」
権蔵は、絞り出すように言った。
「貴様のような人殺しが、何を知る…」
「わしは、知っている」
甚兵衛は、静かに答えた。
「わしは、幾多の命を奪ってきた。その度に、彼らの魂の叫びを聞いてきた。わしは、貴様を斬ることで、おきぬ殿の魂が安らかになるなどとは思わぬ。憎悪は憎悪を生むだけだ。その連鎖は、どこかで断ち切らねばならぬ」
権蔵の瞳から、憎悪の光が消え、深い絶望の色が浮かび上がった。彼は、甚兵衛の言葉に、何か根源的な真実を見たようだった。甚兵衛は、刀を権蔵の喉元からゆっくりと離した。
「貴様の憎しみは理解できる。妹を失った悲しみも。だが、その復讐心が、貴様自身をも滅ぼすことにならぬよう、気をつけろ」
甚兵衛は、権蔵に背を向けた。権蔵は、地面に仰向けになったまま、甚兵衛の背中を、複雑な感情の混じった眼差しで見つめていた。彼の目には、甚兵衛への憎悪と、そして彼自身の悲しみ、さらには、甚兵衛の言葉が突きつけた問いが混じり合っていた。
その時、背後から微かな足音が聞こえた。甚兵衛が振り返ると、そこに立っていたのは、おさとだった。彼女は、甚兵衛と権蔵の死闘の一部始終を見ていたのだ。おさとの顔は青ざめ、その目には、夫の身を案じる深い心配の色が浮かんでいた。
甚兵衛は、おさとの元へ歩み寄った。彼女は、震える手で甚兵衛の顔に触れた。甚兵衛の頬には、権蔵の小刀で掠めた傷が、赤く滲んでいた。
「あなた…」
おさとが、か細い声で甚兵衛の名を呼んだ。甚兵衛は、おさとの手を強く握りしめた。
「心配かけたな」
甚兵衛は、おさとの目を見つめ、これまで頑なに口を閉ざしてきた自分の苦悩を、全て打ち明ける覚悟を決めた。
「おさと…わしは…」
甚兵衛は、おきぬの処刑のこと、権蔵がその兄であったこと、そして、彼自身が抱える「業」の重さを、全ておさとへ語った。彼の声は震え、途切れ途切れになったが、おさとは、何も言わず、ただ静かに甚兵衛の言葉を受け止めた。
「この手は、血に塗れている。このままでは、わしは…人間でいられなくなる…」
甚兵衛は、自分の手を差し出し、その震える掌を見つめた。おさとは、甚兵衛の手をそっと取り、自分の掌で包み込んだ。彼女の温かい手が、甚兵衛の心を深く慰めた。
「いいえ、あなた。あなたは、決して人間性を失ってなどいません」
おさとの声は、静かだったが、その言葉には、揺るぎない力が宿っていた。
「あなたは、斬り捨てた命の重さに、苦悩している。それこそが、あなたが人間である証ではございませんか。あなたは、刀を振るうたびに、魂を削っている。しかし、その魂は、決して穢れてなどおりません」
おさとの言葉は、甚兵衛の乾ききった心に、慈雨のように染み渡った。甚兵衛は、おさとの手を強く握りしめた。彼女の存在だけが、彼が完全に絶望に陥るのを食い止める、最後の砦だった。おさとが、甚兵衛の額に、そっと自分の額を寄せた。その温かさが、甚兵衛の心に、これまで感じたことのないような安らぎをもたらした。
「わしは…これから、どうすればよいのだ…」
甚兵衛の声は、子供のようにか細かった。おさとは、甚兵衛の言葉に、何も答えなかった。ただ、彼の体をそっと抱き寄せた。その腕の中で、甚兵衛は、これまで背負ってきた重荷が、わずかながら軽くなったような気がした。
夜が明け始めた。東の空が、少しずつ白んでいく。甚兵衛は、おさとの腕の中で、静かに目を閉じた。彼の心の中には、まだ苦悩の影は残っていた。しかし、そこには、これまでにはなかった、新たな光が灯されていた。それは、おさとという存在がもたらす、無条件の愛と、彼自身の内側に芽生えた、小さな希望の光だった。
甚兵衛は、この日、大きな転換点を迎えた。処刑人という宿命から逃れることはできない。それは、彼自身が背負い続ける「業」である。しかし、彼は、ただ無感情に刀を振るう「人殺し」として生きることを、拒んだ。彼は、罪人の魂を悼み、彼らの最期に寄り添う「執行者」として生きることを、このおさとの腕の中で、静かに決意した。それは、彼自身の「正義」であり、血塗られた道に、わずかな光を見出すための、彼なりの答えだった。
権蔵は、いつの間にか姿を消していた。彼もまた、この夜の甚兵衛との対峙を通して、何かを感じ取ったのだろうか。甚兵衛の心は、まだ完全には癒えていない。しかし、彼の眼差しは、以前のような絶望の色ではなく、未来を見据えるかのような、静かで深い決意を宿していた。