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血の轍  作者: H.N
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第三章:葛藤:正義と業の狭間

権蔵の出現は、甚兵衛の心を深く蝕んだ。それは単なる脅威ではなく、彼が積み重ねてきた「業」が、具体的な形となって現れたかのようだった。夜の闇は彼にとって安息の場ではなく、権蔵の影が常に付き纏い、彼の神経を研ぎ澄まし続けた。昼間も、刑場で刀を握るたびに、おきぬの澄んだ瞳と、権蔵の憎悪に満ちた眼差しが脳裏にちらつく。甚兵衛は、自らが斬り捨ててきた命が、今、自分自身を蝕もうとしていることを痛感した。


ある日の午後、甚兵衛は屋敷の縁側で刀の手入れをしていた。その動作はいつも通り流麗だったが、彼の瞳には焦点がなく、遠くを見つめているようだった。父が、その背後に静かに立っていた。


「甚兵衛」


父の声に、甚兵衛はハッと我に返り、振り返った。父の顔には、いつもの厳格さだけでなく、どこか訝しげな色が浮かんでいた。


「近頃、お前の様子がおかしい。何かあったのか」


甚兵衛は、一瞬、権蔵のことを話すべきか迷った。しかし、父がそれをどう受け止めるか、想像できた。父は、私情を挟むことを最も嫌う。このことは、自分一人で抱え込むべきだと、甚兵衛は判断した。


「いえ、何も。ただ、少々、疲労が溜まっているだけで」


甚兵衛は、平静を装って答えた。しかし、父の視線は、甚兵衛の奥底を見透かすかのように鋭かった。


「お前は、弱くなったな」


父の言葉は、甚兵衛の胸に突き刺さった。


「御様御用は、感情で務めを全うするものではない。ただ、公儀の命に従い、罪を裁く。それが、我らの宿命であり、誇りだ。お前のその迷いが、いずれ身を滅ぼすぞ」


「しかし、父上」


甚兵衛は、思わず反論した。


「斬り捨てる命にも、それぞれ背景がある。やむを得ぬ事情で罪を犯した者もいる。それを、ただの『穢れ』と断じて、無感情に斬り捨てることなど、わしには…」


父は、甚兵衛の言葉を遮った。その声は、低いが、有無を言わせぬ威厳があった。


「甘い。その『背景』とやらに囚われるから、お前の刀は鈍るのだ。世にはびこる悪を断ち切るのが、我らの役目。感情など、捨て去れ。それができぬのなら、この務めは務まらぬ」


父の言葉には、甚兵衛の苦悩を理解しようとしない、冷徹な響きがあった。父自身も、若い頃は甚兵衛と同じように苦悩したのかもしれない。しかし、彼はそれを乗り越え、「達観」したと信じている。しかし、甚兵衛には、その父の「達観」が、何か人間として大切なものを捨て去った結果のように思えてならなかった。


「その『正義』とやらは、果たして本当に正義なのでしょうか」


甚兵衛の口から、無意識のうちに言葉が漏れた。父の目が、大きく見開かれる。


「斬られた者にも、愛する者がいる。彼らの悲しみや、憎悪は…」


父の顔が、怒りに歪んだ。


「黙れ! そのような戯言を口にするな。我らは、幕府の刀。刀に心など必要ない。刀は、ただ斬るのみだ!」


父は、そう言い放つと、甚兵衛に背を向け、去っていった。甚兵衛は、その場に立ち尽くした。父の言葉は、彼の心を深く傷つけた。父は、甚兵衛の苦悩を「弱さ」と断じ、彼が抱える倫理的な問いを、まるで愚かな感情の産物であるかのように否定したのだ。


その夜、甚兵衛は、いつも以上に激しい悪夢にうなされた。無数の罪人たちが、血まみれの顔で彼を取り囲み、恨めしげに指を指す。その中には、おきぬの姿も、甚太の姿も、そして見知らぬ無数の顔が混じっていた。彼らは皆、口々に「人殺し」と甚兵衛を罵る。


「…違う…わしは…」


甚兵衛は、苦痛に喘ぎながら、夢の中で叫んだ。しかし、声は出なかった。その重苦しい悪夢の中で、甚兵衛は、自分の「業」が、もはや自分自身の存在そのものを蝕んでいることを痛感した。彼は、処刑人として人を斬るたびに、自らの人間性を少しずつ削り取られているような感覚に陥っていた。


数日後、甚兵衛は刑場へ向かう道すがら、権蔵が待ち伏せていることに気づいた。権蔵は、以前と同じように、何の感情も読めない顔で、甚兵衛をじっと見つめていた。


「また来たのか」


甚兵衛は、警戒しながらも、声をかけた。


「貴様は、人殺しだ」


権蔵の声は、静かだったが、その言葉には、甚兵衛の魂を揺さぶるような重みがあった。


「妹は、盗みなどせねばならぬほど、追い詰められていた。飢えと寒さの中で、幼子を抱え、ただ生きるために、米を盗んだだけだ。それが、なぜ死罪に値するのだ」


甚兵衛は、何も答えることができなかった。公儀の裁きは、常に絶対だった。しかし、権蔵の言葉は、その絶対的な「正義」に、鋭い問いを突きつけていた。


「貴様は、ただ刀を振るうのみ。その刀の先に、人の心があることなど、一度たりとも考えたことはないのだろう」


権蔵の言葉は、甚兵衛の心を深く抉った。甚兵衛は、これまで何度も、罪人の心や背景に思いを馳せてきた。その度に、苦悩し、葛藤してきた。しかし、権蔵の言葉は、まるで彼の苦悩を全て無に帰すかのようだった。


「わしは…」


甚兵衛は、絞り出すように言った。


「わしは、公儀の命に従っているに過ぎぬ。個人の恨みで、人を斬るのではない」


「個人の恨みではないだと?」


権蔵は、鼻で笑った。


「ならば、貴様のその手は、何のためにあるのだ? 血に塗れたその手で、正義など語るのか」


権蔵は、甚兵衛の最も深い部分を突いてきた。甚兵衛は、刀を握る自分の手を見つめた。その手は、これまで数えきれないほどの命を奪ってきた。この手が、本当に「正義」の象徴たり得るのか? 彼は、これまで信じてきた「公儀の務め」という大義が、音を立てて崩れていくのを感じた。


権蔵は、懐から小刀を取り出した。鈍く光る刃が、甚兵衛の目には、恐ろしいほどに研ぎ澄まされているように見えた。


「貴様は、わしの妹を奪った。ならば、貴様にも、同じ苦しみを味わわせてやる」


権蔵の目は、憎悪で赤く燃えていた。甚兵衛は、権蔵の殺気を感じ取った。避けられない対決が、今、始まろうとしていた。甚兵衛は、無意識のうちに、自分の刀の柄に手をかけた。


その瞬間、甚兵衛の脳裏に、おさとの顔がよぎった。彼の唯一の光。彼女を守らなければならない。甚兵衛は、長年の鍛錬で培われた勘で、権蔵の動きを読んだ。


権蔵が、一気に間合いを詰めてきた。小刀が、電光石火の速さで甚兵衛の喉元を狙う。甚兵衛は、間一髪で体をひねり、その一撃を避けた。


「ほう…」


権蔵は、甚兵衛の素早い動きに、僅かに驚いた表情を見せた。


「噂に違わぬ腕前だ。しかし、その腕前も、いつまで続くか」


権蔵は、さらに攻撃を仕掛けてきた。甚兵衛は、刀を抜く間もなく、素手で権蔵の攻撃を受け流す。刑場での斬首とは異なり、人を「生かす」ために戦うという、奇妙な感覚に襲われた。


何度も刃が交錯する。甚兵衛は、権蔵の動きから、彼が単なる素人ではないことを悟った。おそらく、彼もまた、どこかで武術の心得を積んできたのだろう。権蔵の攻撃は、妹の無念を晴らそうとする、悲痛な叫びのように甚兵衛にぶつかってきた。


甚兵衛は、反撃に転じた。権蔵の腕を掴み、捻り上げる。権蔵は、苦痛に顔を歪ませたが、その瞳の光は、決して失われることはなかった。


「貴様のような人殺しに、わが妹の無念がわかるものか!」


権蔵は、甚兵衛を罵った。甚兵衛は、その言葉に、胸を締め付けられるような痛みを感じた。分かっている。分かっているからこそ、苦しいのだ。


甚兵衛は、権蔵を組み伏せた。権蔵は、抵抗を試みたが、甚兵衛の鍛え上げられた体には敵わなかった。甚兵衛は、権蔵の胸元に、小刀の切っ先を突きつけた。


「ここで、貴様を斬り捨てることもできる」


甚兵衛の声は、震えていた。しかし、彼の目に、殺意はなかった。


「だが、それでは何も変わらぬ」


権蔵は、甚兵衛の言葉に、嘲笑を浮かべた。


「何を綺麗事を。貴様は、ただの臆病者だ」


「臆病者で構わぬ」


甚兵衛は、権蔵の目を真っ直ぐに見つめた。


「わしは、貴様を斬ることで、おきぬ殿の魂が安らかになるなどとは思わぬ」


権蔵の顔から、嘲笑が消えた。甚兵衛は、続けた。


「わしは、おきぬ殿の最期の眼差しを、今でも鮮明に覚えている。彼女は、貴様が言うような『悪』ではなかった。そして、その命を奪ったわしの『業』は、これからもわしを苦しめ続けるだろう。貴様を斬ったところで、その苦悩は消えぬ」


甚兵衛の言葉は、権蔵の心を揺さぶった。権蔵の目に、憎悪とは異なる、深い悲しみが浮かんだ。


「貴様もまた、わしと同じ苦悩を抱えているのか」


権蔵は、信じられないというように、甚兵衛を見上げた。


「わしは、処刑人として、これからも刀を振るうだろう。だが、それは、ただ命を奪うためではない。斬り捨てた魂が、少しでも安らかになるよう、わしは、わしなりの務めを全うしたいのだ」


甚兵衛は、小刀を権蔵の胸元から離した。そして、静かに立ち上がった。権蔵は、地面に仰向けになったまま、甚兵衛を呆然と見上げていた。


「貴様の復讐心が、貴様自身を滅ぼすことにならぬよう、気をつけろ」


甚兵衛は、そう言い残し、権蔵に背を向けた。権蔵は、何も言わなかった。ただ、甚兵衛の背中を、複雑な感情の混じった眼差しで見つめていた。


甚兵衛は、屋敷に戻ると、血の気が引いた顔で、そのまま縁側に座り込んだ。おさとが、甚兵衛の異変に気づき、慌てて駆け寄ってきた。


「あなた! 何かございましたの!?」


おさとは、甚兵衛の震える手に触れた。甚兵衛は、これまで頑なに口を閉ざしてきた自分の苦悩を、初めておさとへ打ち明けた。


「おさと…わしは…」


甚兵衛は、おきぬの処刑のこと、権蔵がその兄であったこと、そして、彼自身が抱える「業」の重さを、全ておさとへ語った。彼の声は震え、途切れ途切れになったが、おさとは、何も言わず、ただ静かに甚兵衛の言葉を受け止めた。


甚兵衛は、自分の手を差し出し、その震える掌を見つめた。


「この手は、血に塗れている。このままでは、わしは…人間でいられなくなる…」


おさとは、甚兵衛の手をそっと取り、自分の掌で包み込んだ。彼女の温かい手が、甚兵衛の心を深く慰めた。


「いいえ、あなた。あなたは、決して人間性を失ってなどいません」


おさとの声は、静かだったが、その言葉には、揺るぎない力が宿っていた。


「あなたは、斬り捨てた命の重さに、苦悩している。それこそが、あなたが人間である証ではございませんか。あなたは、刀を振るうたびに、魂を削っている。しかし、その魂は、決して穢れてなどおりません」


おさとの言葉は、甚兵衛の乾ききった心に、慈雨のように染み渡った。甚兵衛は、おさとの手を強く握りしめた。彼女の存在だけが、彼が完全に絶望に陥るのを食い止める、最後の砦だった。


甚兵衛は、この日、大きな転換点を迎えた。処刑人という宿命から逃れることはできない。それは、彼自身が背負い続ける「業」である。しかし、彼は、ただ無感情に刀を振るう「人殺し」として生きることを、拒んだ。罪人の魂を悼み、彼らの最期に寄り添う「執行者」として生きることを、彼は決意した。それは、彼自身の「正義」であり、血塗られた道に、わずかな光を見出すための、彼なりの答えだった。

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