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血の轍  作者: H.N
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第二章:揺らぎ始める魂

甚兵衛の日常は、血と闇に彩られていた。しかし、その全てを覆い隠すかのような黒い幕が、ある日、ひび割れ始めた。それは、ある女の処刑がきっかけだった。


その年の秋、収穫を終えた田んぼの向こうに、枯れ草色の光が差す日のことだった。その日の申し渡しは、ひとりの女だった。名をおきぬ、二十代前半。罪状は「窃盗」。飢えと窮乏の果てに、幼い我が子を救うために、米を盗んだという。


申し渡し書に記された簡潔な罪状とは裏腹に、甚兵衛の心には言いようのないざわめきが広がった。これまでの罪人は、夜盗や人斬り、あるいは大金をごまかした者など、悪事に手を染めたと明確に断じられる者が多かった。しかし、「子のため」という言葉が、甚兵衛の胸に重くのしかかった。公儀の裁きは絶対であり、罪は罪。だが、甚兵衛もまた、一人の人間として、その背景にある悲劇を感じ取らずにはいられなかった。


刑場に連行されてきたおきぬは、痩せ細り、その頬は土気色だった。しかし、その瞳には、恐怖や絶望とは異なる、静かで、しかし確かな光が宿っていた。縄で縛られ、晒し場にひざまずかされたおきぬは、周囲の見物人や役人の好奇の視線にも、罵声にも、一切反応しなかった。ただ、遠くに見える、埃っぽい道の方を、じっと見つめている。まるで、その先に何か大切なものが残されているかのように。


甚兵衛は、いつものように刀を抜き、研ぎ澄まされた刃を太陽に翳した。キン、と鳴るような澄んだ音が、ひやりと場に響き渡る。その音を聞いても、おきぬの体は微動だにしなかった。甚兵衛は、その背後にゆっくりと歩み寄る。刀の切っ先が、おきぬの細い首筋に触れる。冷たい感触に、おきぬの肩がわずかに震えた。


「おきぬ!」


役人の声が響き渡る。


「これより、御様御用、滞りなく執行いたす!」


甚兵衛は、呼吸を整えた。いつものように、感情を押し殺し、ただの「務め」として刀を振り下ろす。それが、彼の流儀だった。しかし、この日の甚兵衛は、いつもと違っていた。


おきぬが、ゆっくりと首を巡らせ、甚兵衛の顔を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、深淵を覗き込むような暗さを湛えた甚兵衛の瞳とは対照的に、透き通るような澄んだ色をしていた。そこには、憎悪も、嘆願も、命乞いの感情も一切なく、ただ、子を思う母の深い愛情と、死への諦念、そして、何かを託すような、微かな願いが宿っているように見えた。


甚兵衛の体が、硬直した。刀を振り上げる腕が、鉛のように重い。斬る、という行為が、こんなにも恐ろしいものだと感じたのは、初めて人を斬ったあの幼い頃以来だった。


(…子を思う、母の眼…)


その瞳の奥に、おきぬが残してきた幼い子の面影が、はっきりと見えた気がした。飢えに苦しみ、寒さに震える幼子の姿。そして、母が必死に命を繋ごうとした、その尊い想い。甚兵衛は、刀を振り下ろすべきかどうか、一瞬、激しく逡巡した。その一瞬が、彼の人生を大きく揺るがすことになるとは、この時の甚兵衛は知る由もなかった。


しかし、公儀の場において、処刑人の逡巡は許されない。僅かな戸惑いを見せた甚兵衛に、役人が焦れたように視線を送る。甚兵衛は、歯を食いしばり、渾身の力を込めて刀を振り下ろした。


ゴッ、と鈍い音が響き渡り、鮮血が舞った。おきぬの首は、か細い胴体から離れ、地面に転がった。その瞳は、まだ甚兵衛の方を向いているかのようだった。


その日以来、甚兵衛の悪夢は、より鮮明に、より頻繁に彼を襲うようになった。夜な夜な、おきぬの顔が脳裏に焼き付き、あの澄んだ瞳が、甚兵衛をじっと見つめる。時には、血まみれになったおきぬが、口を開き、甚兵衛に何かを語りかけてくる幻覚に襲われた。その幻聴は、甚兵衛の精神を蝕み、不眠に拍車をかけた。


職務中も、甚兵衛は集中力を欠くようになった。刀を握る手が震え、斬り下ろした後の罪人の顔が、まるで生きているかのように見える幻覚に襲われた。血飛沫が、おきぬの鮮血のように見え、その度に彼は吐き気に襲われた。父には、この異変を決して悟られぬよう、必死に平静を装った。しかし、父の厳格な視線は、甚兵衛の僅かな変化も見逃さなかった。


「甚兵衛、どうした。刀の動きに迷いがある」


ある日、父が甚兵衛に問いかけた。


「滅相もございません」


甚兵衛は、精一杯の平静を装って答えた。しかし、父は甚兵衛の目を見つめ、低い声で言った。


「私情を挟むな。それが、御様御用の務めだ」


父の言葉は、まるで氷の刃のように、甚兵衛の心を深く抉った。私情を挟むな。それが、この血塗られた道を歩む者の掟だと、父は言いたかったのだ。しかし、甚兵衛には、それがどうしてもできなかった。おきぬの眼差しが、あまりにも深く、彼の心に刻み込まれてしまったからだ。


おさとだけが、甚兵衛の異変に気づいていた。甚兵衛が夜中にうなされるたびに、おさとはそっと彼の隣に寄り添い、その震える手を握りしめた。甚兵衛は、おさとの温もりに、わずかな安らぎを見出すことができた。しかし、自分の苦悩を、おさとには語ることができなかった。この忌まわしい業から、おさとだけは遠ざけておきたかった。それが、彼なりの、おさとへの愛情だった。しかし、その沈黙は、かえって彼らの間に、見えない距離を生み出し始めていた。


ある夕暮れ時、甚兵衛は刑場の裏手にある小道を歩いていた。この道は、見物人や役人が通ることのない、人知れぬ道だった。誰もいない静かな場所で、彼は一人、心を落ち着かせようとしていた。しかし、その静寂を破るように、背後から冷たい視線を感じた。


甚兵衛は振り返った。そこに立っていたのは、見慣れない浪人だった。痩せぎすだが、その体つきは鍛え上げられており、眼光は鋭く、見る者を射抜くような憎悪が宿っていた。身なりは粗末だが、その立ち姿には、ただならぬ雰囲気が漂っていた。浪人は、甚兵衛をじっと見つめ、その表情には一切の感情が読み取れなかった。


甚兵衛は、直感的に悟った。この男は、ただの通行人ではない。彼は、過去に斬った、あるいは斬られた罪人に関連している。その憎悪の視線は、まるで、斬られた者の魂が、この男に乗り移ったかのようだった。


浪人は、甚兵衛の視線を受け止めると、無言で、しかし挑発するように口角を上げた。その薄い笑みは、甚兵衛の背筋を凍らせた。


「…何用か」


甚兵衛は、無意識のうちに、刀の柄に手を伸ばしていた。


浪人は、ゆっくりと甚兵衛に近づいてくる。その一歩一歩が、甚兵衛の心臓を締め付けるようだった。そして、甚兵衛の目の前で立ち止まると、その浪人は、低い、しかし確かな声で言った。


「…おきぬ…覚えておいでか」


その言葉に、甚兵衛の全身に電撃が走った。おきぬ。あの、静かに死を受け入れた女。甚兵衛の心を深く揺さぶった、あの女。この浪人は、まさか。


甚兵衛は、唾を飲み込んだ。浪人の瞳の奥に、甚兵衛の顔を憎悪で歪ませた、おきぬの面影が重なった気がした。彼の顔から、血の気が引いていく。


「貴様は…」


権蔵ごんぞうと申す」


浪人・権蔵は、冷たい眼差しで甚兵衛を見つめ、続けた。


「あの女は…わしの、妹であった」


甚兵衛の体に、衝撃が走った。権蔵が、おきぬの兄。すなわち、甚兵衛が斬り捨てた女の、肉親。これまでにも、罪人の縁者が復讐を企てるという話は耳にしていた。しかし、それが、今、まさしく自分の身に降りかかるとは。しかも、甚兵衛の心を最も深く揺さぶった「おきぬ」の縁者として。


権蔵は、甚兵衛の顔に浮かんだ動揺を見逃さなかった。彼は、その薄い笑みを一層深くし、嘲るように言った。


「…血塗られた手を持ちながら、何を恐れることがある。首斬り甚兵衛、貴様もまた、いつかその血塗られた手で、報いを受けることになるだろう」


権蔵の言葉は、まるで呪いのように、甚兵衛の心に深く突き刺さった。甚兵衛は、無言で権蔵を睨みつけた。しかし、その目には、怒りよりも、深い絶望の色が滲んでいた。


権蔵は、それ以上何も言わず、静かにその場を立ち去った。彼の背中は、甚兵衛の心に深い影を落とした。甚兵衛の生活に、新たな「影」が落ちたことを、彼は痛感した。それは、彼自身の「業」が、今、彼自身を追い詰め始めていることを示すかのようだった。


その日以来、甚兵衛の屋敷の周囲を、権蔵がうろつく姿が頻繁に目撃されるようになった。甚兵衛は、常に権蔵の視線を感じ、夜道を歩く際には、常に背後に気を配った。彼の心は、休まる暇もなく、神経は研ぎ澄まされていた。不眠はさらに悪化し、彼の顔には、疲労と憔悴の色が濃く浮かび上がっていた。


甚兵衛は、おさとにはこのことを語らなかった。彼女を心配させたくなかった。しかし、おさとは、甚兵衛の異変を敏感に察していた。食欲が落ち、目の下に隈ができ、そして何よりも、彼の心が、以前にも増して深く沈んでいることを。


「あなた…何か、お変わりがございませんか」


ある夜、おさとは、甚兵衛の背中にそっと手を当て、問いかけた。


甚兵衛は、何も答えなかった。ただ、おさとの手をそっと握りしめた。彼の心の中には、おきぬの澄んだ瞳、そして権蔵の憎悪に満ちた眼差しが、渦を巻いていた。処刑人としての「業」が、今、彼自身を深く追い詰め始めていることを、甚兵衛は肌で感じていた。そして、その先にある、避けられない対決の予感に、彼の心は震え上がっていた。

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