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血の轍  作者: H.N
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第一章:血塗られた宿命

文政五年、江戸の郊外、草深い小道の先に、鬱蒼とした木々に囲まれた一画があった。人里離れたその場所は、常闇が支配するかのごとく陰鬱な空気に包まれており、夏の盛りであろうと、肌を刺すような冷気が肌を這い上がってくる。そこが、江戸幕府が罪人の首を刎ねる場所、すなわち「刑場」であった。そして、その地の番人こそが、甚兵衛、二十八歳。代々続く「御様御用」、世間からは「首斬り甚兵衛」と蔑まれながらも畏れられる、公儀の処刑人であった。


甚兵衛の朝は早い。まだ夜の帳が完全に明けきらぬうちから、彼は家屋の奥に設けられた手入れ場で、一本の刀と向き合う。刃渡り二尺三寸五分、反り少なく、なかごには銘も刻まれていない、飾り気のない質実剛健な刀。しかし、幾度となく罪人の血を吸い、その怨念を宿したかのように、鈍い輝きを放っていた。甚兵衛は、その刀身に細心の注意を払いながら、砥石の上を滑らせる。シャリ、シャリ、と静寂を破る研磨の音が、まるで彼自身の精神を研ぎ澄ますかのようだった。


彼の指は、幾度となくこの作業を繰り返してきたため、節くれだって分厚く、掌には硬いタコができていた。その手つきは一切の迷いなく、まるで呼吸をするかのように自然体だった。しかし、その顔に浮かぶ表情は、常にどこか憂いを帯び、瞳の奥には深淵を覗き込むような暗さを湛えていた。それは、斬り続ける者の宿命として、彼の魂に刻まれた「ごう」の証でもあった。


その日もまた、彼の元には「御様御用」の申し渡しがあった。罪人の名は甚太。三十を過ぎた男で、夜盗の罪を重ねた結果、捕らえられたという。甚兵衛は、申し渡し書に記された僅かな情報から、甚太の人となりを想像しようとした。どんな顔をしているのか、どんな声で命乞いをするのか、あるいは最期に何を語るのか。しかし、考えるほどに、彼の胸は鉛のように重くなるばかりだった。


日の出とともに、役人たちが刑場に集まり始めた。晒し場には既に、罪人の甚太が連行され、縄で縛られていた。甚兵衛は、ゆっくりと歩を進める。その背中には、研ぎ澄まされた刀が一本。周りの役人たちは、畏れを込めた眼差しで甚兵衛を見やる。彼らは皆、甚兵衛の職務を必要とし、しかしその職務を忌み嫌う。その矛盾した視線に、甚兵衛は慣れていた。いや、慣れてしまった、と言うべきか。


甚太は、痩せこけた体で地面にひれ伏し、小刻みに震えていた。その背中からは、微かながら汗の匂いと、生への執着が混じったような獣じみた臭いが立ち上ってくる。甚兵衛は、その背中をじっと見つめた。そこには、恐れと絶望、そして、それでも生きていたいという最後の叫びが凝縮されているかのようだった。


「甚太!」


役人が、罪人の名を呼んだ。甚太の体がびくりと跳ねる。


「…御様御用、これより滞りなく執行いたす!」


役人の声が響き渡る。甚兵衛は、静かに刀を抜いた。ヒュッ、と空気を切り裂くような音が、朝の静寂に吸い込まれていく。刀身は太陽の光を鈍く反射し、その刃は恐ろしいほどに研ぎ澄まされていた。


甚兵衛は、甚太の背後に立つ。呼吸を整え、両手にずしりと伝わる刀の重さを感じ取る。刀の切っ先が、甚太の首筋に触れる。冷たい感触に、甚太の体が大きく痙攣した。


(何を思う…)


甚兵衛の脳裏に、ふと疑問がよぎった。この男は、今、何を考えているのだろう。生きてきた過去か。それとも、これから訪れる死か。彼は、罪人の心を覗き見ることはできない。ただ、目の前の肉体を、公儀の命によって切り離すのみ。それが彼の「業」だった。


一瞬の静寂。そして、甚兵衛は刀を振り下ろした。


ゴッと、鈍い音が響き渡る。空気を切り裂き、肉を断ち、骨を砕く。血飛沫が、朝日に照らされ、鮮やかな朱色となって舞った。首と胴が、それぞれの意思を失ったかのように、地面に倒れる。甚兵衛の顔には、罪人の血が僅かについていた。彼はそれを拭うこともせず、ただ静かに、刀を鞘に収めた。


周囲の役人たちは、無言で甚兵衛を見つめる。彼らの目には、畏怖と、そして「よくぞやった」という安堵の入り混じった感情が浮かんでいた。甚兵衛は、その視線にも慣れていた。彼らは、自分の手を汚さずに、人の命を奪うことのできる存在を必要としている。その役目を、甚兵衛が引き受けているに過ぎないのだ。


刑場での職務を終え、甚兵衛は足早に自宅へと戻った。屋敷の扉を開けると、ほのかに味噌汁の匂いが漂ってくる。妻のおさとが、朝食の支度をしていた。


「お帰りなさいまし、あなた」


おさとは、甚兵衛の顔を見ると、その表情の微かな変化を読み取ったかのように、何も言わずに温かい湯を用意した。甚兵衛は、その湯で丁寧に手と顔を洗う。熱い湯が、皮膚についた血の匂いを洗い流してくれるようだった。しかし、体から血の匂いが消えても、彼の心にまとわりつく「匂い」が消えることはなかった。


食卓に座ると、おさとは無言で湯気の立つ味噌汁を差し出した。甚兵衛は、その温かさに、僅かながら安堵を覚える。おさとだけが、彼のこの「業」を理解し、受け入れてくれる唯一の存在だった。彼女は決して、甚兵衛の仕事について尋ねない。ただ、彼が人間でいられるように、静かに、そして献身的に支え続ける。


朝食を終えると、甚兵衛は部屋の奥に籠もった。彼は、読書を好んだ。物語や哲学書など、現実の苦悩から一時的に逃避できる書物を求めた。しかし、文字を目で追っていても、彼の脳裏には、先ほど斬った甚太の、最期の表情が鮮明に焼き付いていた。


(なぜ、わしは…)


甚兵衛は、ふと幼い頃の記憶を辿った。初めて刀を持たされた日のこと。父が、血のついた刀を研ぎながら、彼に言い聞かせた言葉。


「甚兵衛、よく聞け。この務めは、世間から蔑まれるであろう。だがな、これは公儀に代わって、世の秩序を守る大役なのだ。我らは、穢れた手で、穢れを断ち切る。それが、この家の宿命なのだ」


父の声は、幼い甚兵衛の心に深く刻み込まれた。父は、決して甚兵衛に「苦悩するな」とは言わなかった。むしろ、「苦悩しろ」とでも言うかのように、その「業」の重さを叩き込んだ。そして、父自身もまた、同じ苦悩を乗り越え、達観したかのような顔で、その職務を全うしてきた。


初めて人を斬った日のことは、今でも鮮明に思い出せる。まだ十代半ばだった甚兵衛は、恐怖と吐き気で体が震え、刀を握る手が全く定まらなかった。父に手を添えられ、半ば強制的に刀を振り下ろした。その瞬間、温かい血飛沫が顔にかかり、その生々しい感触と匂いに、甚兵衛は嘔吐した。夜には高熱を出し、その日から悪夢にうなされるようになった。斬り捨てた罪人の顔が、血まみれのまま、甚兵衛を恨めしげに見つめる。どれだけ時間が経っても、その悪夢は甚兵衛を離れることはなかった。


父は、そんな甚兵衛を厳しく鍛え上げた。「弱音を吐くな」「慣れろ」「これも世のため、人のため」と。甚兵衛は、父の言葉に従い、ひたすら刀を振り続けた。そして、いつしか、彼の体は処刑という行為に慣れ親しんでいった。刀を振るう動作は、流れるように滑らかになり、斬り終えた後の動揺も、次第に表には出さなくなった。


しかし、内面の苦悩は、消えるどころか、むしろ深く、複雑に絡み合っていくばかりだった。彼は、斬り捨てた命の一つ一つを、決して忘れることができなかった。彼らは確かに悪事を働いたのかもしれない。しかし、彼らにもまた、生きてきた証があり、愛する者がいたのかもしれない。そう考えると、甚兵衛は、自分自身が彼らの「生」を断ち切ったことの、途方もない重さに打ちのめされそうになった。


ある日、甚兵衛は庭で、刀の手入れをしていた。その姿を、父が静かに見つめていた。


「甚兵衛」


父の声に、甚兵衛は顔を上げた。


「お前も、随分と慣れてきたな」


父の言葉には、わずかながら満足の色が窺えた。しかし、甚兵衛の心は晴れなかった。


「…慣れる、というよりも」


甚兵衛は言葉を選んだ。


「ただ、麻痺しているだけなのかもしれません」


父の表情が、わずかに硬くなる。


「弱音を吐くな。我らの務めは、世の穢れを断ち切ること。その刀に、私情を挟むようでは、務めは果たせぬ」


「しかし、父上…」


甚兵衛は、言い淀んだ。


「彼らにも、それぞれ生きた証があった。命を奪うことの、その重さに、わしは…」


父は、甚兵衛の言葉を遮るかのように、低い声で言った。


「その重さを背負うのが、我らの宿命なのだ。苦悩するなとは言わぬ。だが、その苦悩を乗り越え、刀を振るうのが御様御用というものだ。それが、世のため、人のためなのだ」


父の言葉は、まるで壁のように、甚兵衛の心を閉ざした。父の言うことは、処刑人として正しいのかもしれない。しかし、甚兵衛の心は、その「正しさ」を受け入れることができなかった。彼の中には、処刑という行為に対する割り切れぬ矛盾が、深く根を張っていた。


その夜も、甚兵衛は悪夢にうなされた。無数の顔が、甚兵衛を取り囲み、恨めしげに彼を見つめる。その中には、今日斬った甚太の顔も、そして、過去に斬った、名も知らぬ罪人たちの顔も混じっていた。彼らは皆、無言で甚兵衛を糾弾しているかのようだった。甚兵衛は、苦痛に顔を歪ませ、何度も体をねじった。


「あなた…」


隣で寝ていたおさとが、そっと甚兵衛の額に手を当てた。甚兵衛は、ハッと目を開ける。息が切れ、全身が汗で濡れていた。


「また…」


おさとが、心配そうに甚兵衛を見つめる。甚兵衛は、何も言わず、ただ妻の手を握りしめた。おさとの温かい掌が、甚兵衛の心に、わずかな安らぎをもたらした。彼女の存在だけが、甚兵衛が人間性を失わずにいられる、最後の砦だった。


甚兵衛は、布団の中で身を起こし、夜の闇をじっと見つめた。窓の外からは、虫の音が聞こえてくるばかりで、何も変わらない静かな夜だった。しかし、甚兵衛の心の中では、常に血の匂いが立ち込め、斬り捨ててきた命の残響が、絶えることなく響き渡っていた。彼は、この「血の轍」を、これから先も、どこまでも歩み続けなければならないのだろうか。終わりなき苦悩の道に、彼はただ、静かに目を閉じるしかなかった。

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