#6 ターゲット
──バロン・サムディね……。
茶織は自室のデスクで久し振りにノートパソコンを起動させると、バロン・サムディ及びヴードゥーについて検索した。どちらも他の宗教や神話などに比べると情報量が少なく、関連書籍も数える程しか出版されていないようだ。
世界各国の神話や民話、伝説に関する情報を扱う、とある個人のホームページを見付けた茶織は『ヴードゥーだョ! 全員集合』と派手なデザインで描かれたバナーをクリックした。
「アイザン、アイダ・ウェド、エジリ・フリーダ、オグン、レクバ……」
聞き慣れない単語が並んでいる。これらは全てヴードゥーの精霊の名前らしい。
「エジリ・ダント、グラン・ブリジット、ダン・ペトロ……バロン・サムディ」
茶織はバロン・サムディのテキストリンクをクリックした。
〝バロン・サムディは、ペトロ王国に属する、生と死と性欲を司る精霊ゲデのリーダー的存在である〟
──ペトロだのゲデだの意味が……って、性欲?
〝頭蓋骨やツルハシを手にした、黒い山高帽と燕尾服にサングラス姿の老人だという〟
──老人? ……少し残念。
〝酒とタバコを嗜み、魔力が高く、陽気で賢いが、下品な言動を好む。憑依した人間を使い女性にちょっかいを出す事もしばしば〟
「は?」
〝ペトロ王国に属する精霊全般に当てはまる事だが、味方に付けると頼もしいが、敵に回すとなかなか恐ろしい〟
──あっそ。
「綾兄……あんた本当に何考えてんの?」
茶織は深い溜め息を吐くと、ノートパソコンをシャットダウンし、ディスプレイを閉じた。
──……そろそろ買い物行かないと。
JR線磨陣駅南口改札から直通している、複合商業施設〈ADVENTURES〉。その地下一階を丸ごと占めている大手スーパーのチェーン店は、茶織の生命線の一つだ。
必要最低限の所持品だけ紺色のリュックサックに入れていると、部屋の片隅に放置していた骨の十字架が目に入った。
何故だろうか、一緒に持って行った方がいいのではないかと思えた。しかし茶織は、すぐにその考えを打ち消した。
──大き過ぎ。邪魔。
〈ADVENTURES〉三階、カフェ〈DIAMOND〉の一席。
買い物を済ませた茶織は、アールグレイで一息吐いていた。
「は? ピエロに取り憑かれた?」
「ヤバくね? ウケるんだけど!」
「いやいや、もうマジなんだって!」
女子高生が三人、周囲への配慮は一切なしの大声で喋りながら店に入って来た。
「えー、ハナそれどんな?」
「昨日と一昨日、連続で夢に出て来てさ。不気味な顔でニヤニヤ笑ってるし、スゲー馴れ馴れしいの。ピエロなら一人でハンバーガーでも食いに行けっての」
ハナと呼ばれた長い茶髪の少女が答えると、連れの二人は、お世辞にも上品とは言い難い笑い声を上げた。
──何あれ。
茶織の目は、ハナ──いや、正確にはハナの上半身を覆う黒いもやに釘付けとなった。ハナは注文を、その後ろで順番を待つ連れの二人は相変わらずお喋りを続けている。
──見えているのはわたしだけ?
黒いもやはどんどん大きくなると、ハナの全身を覆ってしまった。
──どういう事?
やがて、黒いもやはハナから離れると一番近い柱の前で止まり、少しずつ形を変化させていった。それは人型となり、顔に当たる部分のもやが薄くなったかと思うと、まるで絵の具かペンキでもぶちまけたかのように突然真っ白く染まった。
茶織があっけに取られている間に、白く染まった部分に顔の各パーツが次々と現れた。黒く縁取られた眉と両目、それ以上に目立つ、血のように赤い口紅が裂けたように頬の辺りまで引かれた唇。赤い付け鼻こそないが、これはまるで──
「ピエロ?」
白塗りの顔は茶織に気付くと、こちらを向いてニイッと笑ってみせた。
途端に茶織は、声を出した事、黒いもやを凝視した事を酷く後悔した。上手く説明出来ないが、何だかとてもまずい気がした。
会計が済んだハナがレジを離れると、黒いもやと顔は柱に溶け込むように消えてしまった。
──何だったの?
アールグレイと店内の空調で暖まっていたはずの茶織の体は、寒気を感じていた。無意識のうちに熱を求めてティーカップを手に取ったが、すっかり冷め切っていた。
帰宅した茶織は、商品の入ったリュックサックと脱いだパーカーを骨の十字架のすぐ隣に放ると、畳の上に横になった。〈DIAMOND〉の一件から、何となく頭が重い。
──何だったのよ、あれ。
黒いもや。ピエロの不気味な笑顔。
──……あれ?
気付くと茶織は、部屋の隅に移り、骨の十字架を手に取っていた。何故そうしたのか、自分でもよくわからず困惑した。
──疲れているんだわ。
きっとあの困った叔父が原因のストレスだ。骨の十字架なんて物が手元にあるせいかもしれない。いずれにせよ綾鷹のせいだ。
こんな物、処分してしまうべきなのかもしれない──そう考えた次の瞬間、骨の十字架に異変が起こった。熱を帯び、まるで生きているかのように脈打ち始めたではないか。
「な、何これ──」
「やあ」
同じく突然聞こえた声に、茶織は思わず骨の十字架を落としそうになった。振り返るも、誰の姿もない。
「こっちだよ」
声はノートパソコンから聞こえたようだった。しかし家を出る前にシャットダウンしたはずだ。そして閉じたはずのディスプレイは全開で、怪訝な顔をした茶織を映し出している。
──何で……え?
ディスプレイの中央の一点に、ミルクを垂らしたかのように小さな白いシミが出来た。それはじわじわと全体に広がってゆき、やがて一面が真っ白になった。すると今度は、最初に白いシミが出来た部分に、ごま粒大の黒いもやが発生した。
黒いもやは上下に小刻みに動きながら徐々に大きくなってゆく。よくよく見るとそれは人型をしており、奥からこちら側に向かって走って来ているのだった。
── 幻覚。幻聴。
嫌な汗が茶織の背中を伝う。
──全部綾兄のせい!
ほとんど願望に近い茶織の考えは、人型の顔立ちが判別出来るようになると、粉々に打ち砕かれた。白塗りをベースに、眉や目の周りが黒く縁取られ、真っ赤な口紅が頬骨まで引かれている。
化粧が特殊なら衣装も特殊だ。右半分が黒で左半分が白の二股に分かれたキャップ、同じ配色の先端がクルリと丸まったブーツ、それらと真逆の配色のスーツに、白手袋。キャップのポンポンと付け襟は赤で、地味な色合いの中で目立っている。
〈DIAMOND〉で目撃したあのピエロ以外に、誰がいるだろうか。
──何で……何がどうなってんのよ!?
ピエロはある程度まで接近すると足を止めた。そして黄ばんだ歯を見せニイッと笑うと、茶織が一番耳にしたくなかった言葉を口にした。
「見ぃ付けた」