#31 絵画
〈藤紫第二ビル〉からそれ程離れていない路地裏で、緋雨がピエロのトラップに気付いた。
「異界に続いているな。ピエロ自ら創り出したものだろう。この位置から三〇歩も進まないうちに入り込むぞ」
「え、でもこの先って行き止まりじゃない」
「入ればわかる」
「入れば……え、入るの?」那由多は僅かに身を強張らせた。「一度入ったらそんな簡単には出られないんじゃない?」
「ああ。しかしTAROは恐らく異界の中だぞ」
「えー……」
「羽根をやっただろう」全く気乗りしない様子の那由多の肩の上で、緋雨は呆れたように言った。
「俺、小学校の遠足の時に一度、うっかり異界に入り込んじゃった事があったんだ。すぐに気付いたけど、抜け出し方がわからなくって困ってたら、何故か中にいた、見ず知らずのおにいさんが助け出してくれて。あの人がいなかったらどうなってたかわからないよ」
「ほう、初耳だな」
「うん、初めて話したと思う。あ、別に秘密にしていたわけじゃないよ」
あの時の男性が何者だったかはわからないが、少なくとも、那由多と同じ〝見える〟人間だったのだろう。礼は言えたが、名前や素性、連絡先を聞く事までは頭になかった。
「ならば、お前一人で残るか? 無理強いはしないぞ」
「うーん……いや、俺も行く。緋雨一人で、何かあったら困っちゃうもんね」
「ふん、よく言う」
「もしかしたら、茶織さんや龍君たちだって入り込んじゃってるかも」
「可能性はあるな」
緋雨の言った通り、三〇歩近く前進したところで、那由多は軽度の目眩を感じた。一旦立ち止まって目を閉じる。
「あー……もしかして今入った?」
「ああ。見てみろ」
ゆっくり目を開いた那由多は、広がる光景に息を呑んだ。
殺風景な路地裏だったはずが、白い壁に何枚もの絵画が飾られた、それ程広くはない室内へと変貌していた。前方最奥には上り階段が見える。やって来た方向は壁になってしまっており、やはり絵画──茶色いテーブルと青いテーブルクロス、その上に乗ったりんごと空のワイングラスの油絵だ──が飾られている。
「美術館? 画廊?」
「先へ進むぞ」
汚れ一つないフローリングの床をゆっくり進みながら、那由多は一枚一枚の絵画を鑑賞した。それら全てが油彩か水彩の静物画や風景画であり、素人目で見てもなかなか優れているのがわかる。
「ほれ、とっとと行くぞ」
「何で飾られているのかなって。どれも素晴らしい絵だよ。ピエロが描いたのかな」
「そんなに気になるのであれば、後で本人に聞けばいい」
全部で一三段ある階段を上ると、薄暗く長い回廊が続いており、階下の部屋と同じく両壁に数枚の絵画が飾られていた。鉛筆で描かれた、正面を向いたバストアップの肖像画だ。右壁には男性、左壁には女性と分けられており、どちらのモデルも全員二〇代くらいに見える。
「まるで遺影のようだな」
緋雨の何気ない一言が、那由多の背筋に冷たいものを走らせた。
「本当だ……何か嫌だな」
右壁の最後の人物画はTAROのものだった。若干細められた一重瞼の吊り目と、薄い唇が開きかけている表情からは、こちらを小馬鹿にしているような印象を受ける。
「もしかして……ターゲットはTARO一人じゃない?」
緋雨が那由多の肩からフローリングに降りた。
「どうしたの緋雨」
「充分過ぎるくらいに魔力が満ちている。ここなら元の姿を保てそうだ」
「元の姿……ってあのおじさん?」
緋雨の姿が煙のように消えたかと思うと、紺色の着流しに草履姿の、髪の毛が逆立ち無精髭を生やした男性が現れていた。
「おじさんとは失敬な」
「えー、少なくとも俺より年上だろ。だからもうおじさん」
那由多がニヤリと笑うと、緋雨もニヤリと笑い、相棒の額を指で弾いた。
「痛っ!」
「生意気な奴め」
「実際のところ何歳なの?」
「さて……どうだったかな。もういつにも数えていない」
「ふーん……」
「さあお喋りは後だ。行くぞ」緋雨は身を翻した。「羽根の用意はしておけ。すぐに使えるように」
「うん、わかった」
「訂正する。今すぐに出せ」
「え?」
十数メートル先の突き当たりから、年端のいかない、そして生者ではない子供たちが姿を現した。計八人、全員虚ろな目をし、小さな手に不釣り合いな大きな石を握り締め、フラフラとした足取りでゆっくり進んでくる。
「迷い込んだんじゃないわよね」突き当たりの向こうから、刺々しい女の声がした。「大人しく退散するっていうなら、見逃してあげるわよ。どうする?」
「引くつもりはない」緋雨は淡々と返した。「出て来い」
ややあってから、声の主が姿を現した。緩やかにウェーブした黒髪の若い女だ。腕を組み、不機嫌そうにこちらを睨み付けている。
「生きた人間……ですよね」那由多は遠慮がちに尋ねた。「何故ここにいるんです?」
「そんな事気にしている場合?」
子供たちがどんどん迫ってくる。彼らはきっと、その小さな手に持つ大きな石を、何のためらいもなく振り下ろすのだろう。それも一度では飽き足らず、壊れた機械のように、何度も何度も。
「羽根は出したか」
「う、うん」那由多は右手に持った羽根を緋雨に見せるように差し出した。「ねえ、これってどうやって──」
羽根が強く光り出した。形が変わり、重さが加わると、那由多は落としてしまわないよう左手を添えた。
「これは……」
光が消えると、那由多の手には扇子が握られていた。広げると三〇センチ弱の大きさがあり、扇面は鮮やかな緋色のグラデーションだ。通常の扇子と違うのは、親骨が鉄で出来ており、重さもそれなりにある点だ。
「ほう、鉄扇か」緋雨が感心したように呟いた。
「鉄扇……」
二人が子供たちに向き直ると、女は姿を消していた。
「緋雨の武器は?」
「我か? 我にはこれがある」緋雨は右の拳を左の掌に打ち付けた。
「そっか。俺は、これで手を叩いて石を落とさせればいいんだよね。後は、その……」
「那由多よ、ためらいは死だぞ」
「うう、わかってるよ……」
緋雨はつかつかと子供たちに歩み寄ると、一番手前にいた男児が石を振り上げるよりも先に、頭に拳骨を喰らわせた。男児は驚愕の表情を浮かべると、次の瞬間には殴られた部分から砂のように崩れて散り、石だけが残った。
緋雨の紅い目に睨まれ、子供たちは怯んだ。しかし那由多たちの後方の何かに気付いた素振りを見せると、気を取り直したように一斉に石を振り上げた。
「那由多、後ろだ。気を付けろ」
緋雨が振り返らず早口に言うのと、那由多が後方から近付く気配に気付いたのは、ほぼ同時だった。
振り返った那由多の目に入ったのは、二メートルはある木製のデッサン人形が、こちらに両手を伸ばす姿だった。




