#0 ピエロ
「──えー、つまり、この時の主人公の心情に最も近いのは──……」
国語教師ののんびりした口調は、山下仁志や彼のクラスメートたちにとって、催眠術も同然だった。
「えー、だからこそ主人公は、すぐにはその場を立ち去らずに──……」
最後の足掻きと言わんばかりのアブラゼミの大合唱や、時々何処かのクラスから聞こえてくる歓声も、催眠術師の声と共に遠ざかってゆく。授業開始から一〇分と経たないうちに、仁志は教科書ごと机に突っ伏してしまった。
──こちとら朝方までオンゲーやってて、ろくに寝ちゃいねーんだよ……。
どれくらいの間、そうしていたのだろうか。誰かに肩を叩かれ、仁志ははっと顔を上げた。教室内には自分と、すぐ隣に立つ男子生徒以外、誰の姿もない。
「え、あれ……」
仁志が壁時計を見やると、一七時を廻っていた。
「うっわ、マジかよ? つーか、何で誰も起こさねーんだよ!」
ふと視線に気付き、若干の気まずさを感じながらも、仁志は自分を起こしてくれた男子生徒をまじまじと見つめた。身長は一六五センチ前後、やや垂れ目で、小さな鼻と血色の悪い唇。顔色も、白いというよりは青白く、不健康そうだ。
──こんな奴、いたっけ?
少なくとも同じクラスではない。入学から五箇月、流石にクラスメートの顔くらいは覚えた。仲のいい奴らがいるので他のクラスにも遊びには行くが、思い出せそうになかった。
「あー……えーっと、どうもッス」
軽く頭を下げると、男子生徒は口の端を吊り上げ、ニイッと笑った。不自然で不気味に感じられるのは、目だけは笑っていないからだろうか。仁志は思わず視線を逸らした。
──とっとと帰ろう。
仁志は立ち上がると、素早く帰り支度をした。何処か不気味な男子生徒の事は無視しようと思ったが、視界の端に微かに捉えたその姿に違和感を覚え、反射的に顔を上げた。
「……は!?」
男子生徒の容姿はガラリと変貌していた。顔全体が白塗りで、目の周りや眉が黒く縁取られている。血のように濃く赤い口紅が唇から頬骨にまで引かれ、異様にぎらついた目まで同じような色をしている。
衣装も特徴的だ。てっぺんから二つに分かれ先端にポンポンが付いたキャップと、先端がクルリと丸まっているブーツは、右半分が黒で左半分が白。それらと配色が左右逆の、体にフィットしたスーツ。キャップのポンポンとスーツの付け襟は、口紅と瞳よりやや明るい赤だが、それでも血を連想させるのには充分だ。
そう、その姿は──
「ピエロ……?」
男子生徒は、先程と同じように口の端を吊り上げ──
「ウケケケケケケケッ!」
黄ばんだ歯を見せながら、耳障りな笑い声を上げた。
──何だコイツ!?
仁志の背中を嫌な汗が伝った。
──逃げねーとヤベー気がする!
仁志はゆっくり後ずさると、何かに気付いたような素振りを見せ、黒板の方に顔を向けた。ピエロがつられて同じ方を向いた瞬間、教室後方のドアから一目散に逃走した。
──ありゃあ、マジでヤベー奴だった!
学校を出ると、仁志は警察署を目指した。振り返ってもピエロの姿は見えなかったが、このまま自宅に直行するのは危険だろう。ピエロは仁志の姿を見失っても、簡単に自宅の場所を突き止めてしまう。何故ってアイツは、普通の人間じゃないから──どういうわけか、そんな確信があった。
──もしかして皆、アイツから逃げたのか? オレを見捨てて? クソが!
気付くと仁志は、警察署の目の前まで来ていた。辿り着くまでが妙に早かったし、何故か周囲の景色が歪んだりぼやけたりしているが、気にしている余裕はない。
「助けてくれ!」
重いドアを一気に引くなり、仁志は叫ぶように言った。署内に入ってすぐ左の受付に、下を向いている男性事務員が一人と、フロアの奥で立ちながら談笑する男性警官が五人。しかし、誰もが無反応だった。
「お、おいちょっと」
男性事務員はゆっくり顔を上げた。浅黒い肌全体に深く刻まれた皺。地肌の見える薄い白髪頭も含め、七〇代以上に見える。
「はいはい……何ですかね」
「ピエロが……変なピエロが学校にいて! 最初は普通の生徒だったんだ、でも気が付いたら変身してて、目はギラギラしてるし笑い方も変で、何か色々ヤバくて!」
「ふーん、そうなの。ご苦労様」
事務員はのんびり言うと呑気に大きな欠伸をし、あろう事か立ち去ろうとした。
「おい、ちょっと待てよ!」
事務員は露骨に面倒臭そうに振り向き、
「だってねえ坊や、変なピエロがいたって言うけど、そのピエロが君に何か悪さしたのかい?」
「……それは……」
言われてみればその通りだ。しかし仁志の本能は、ピエロが危険な存在であると警告を続けている。
「君が居眠りしていたところを、そのピエロに起こしてもらったんだろう?」
「そ、そうだけどよ、でも学校にピエロなんか普通いないっしょ」
「どうだろうねえ」
「いや、いねーよ! そもそも最初は姿が──」
「うんうん、わかったわかった」
事務員は胸ポケットからボールペンを外すと、ペン先でドアの方を指し示した。
「総合病院はここ出て右、ちょっと進んだ先の横断歩道を渡って角を右ね。精神科の受付は奥から二番目の窓口だったかな」
「……いい加減にしろやゴラァ!!」
仁志はカウンターに両手を叩き付けた。自分は喧嘩に強いという自信があった。中学時代、番長気取りの上級生とその取り巻き連中合わせて一〇人を、自分を含め六人でシメてやった事があった。騒ぎにはなったが、先公も保護者連中も、ちょっと怒鳴ったり脅してやれば大人しくなった。
高校入学から現在に至るまでも度々トラブルはあったが、大きな喧嘩は起こらなかった。どいつも仁志の恐ろしさにビビっているからだ。
「テメーよぉ、さっきから何なんだよその態度は。ああ? 聞いてんのかコラ」
事務員は動じず、無表情でただ黙って突っ立っている。仁志は舌打ちした。
「テメエじゃ埒があかねーよ、このクソボケジジイ。他のヤツに代われや、おい」
仁志はフロアの奥に目をやった。信じられない事に、五人の警官たちは未だに談笑中だ。
「おい、そこの──」
警官たちの会話が耳に入ってきた。
「キレてるキレてる! いやぁ元気なこって」
「ピエロが! 変なピエロが! だってさ」
「変なのはお前の頭だよってな」
──コイツら……揃いも揃って……!
「ふざけんじゃねええええええええええええ!!」
顔を限界まで紅潮させた仁志の怒声が、フロア全体に響き渡った。
「ケケケッ」
数秒の沈黙を破ったのは、一人の警官の笑い声だった。
仁志は唐突にある事実を思い出した。さっき、受付のクソジジイはこう言った──〝君が居眠りしていたところを、そのピエロに起こしてもらったんだろう?〟
──オレは、居眠りしていたなんて喋ってねーぞ……?
「ケケケケッ」
「ケケケケケッ」
「ウケケケケケッ」
「ウケケケケケケッ」
最初の笑い声が合図であったかのように、残る四人も順番に笑い出した。
「ウケケケケケケケッ!」
すぐ隣からも聞こえ出し、仁志は反射的に振り向いた。
「ヒッ!?」
そこにいたのは、あのピエロだった。
笑い声の大合唱を背に、仁志は警察署を飛び出した。助けを求めてあちこち走り回るも、誰の姿もなく、車も走っていなければ鳥のさえずりさえも聞こえない。
異様な静寂さの中、仁志は足を止め、痛む脇腹を押さえた。ふと頭上の異変に気付いて空を見上げると、あり得ない赤錆色をしていた。
「どうなってやがる……」
笑い声が後方から近付いてくる。仁志が振り返ると、ピエロは歩みを止めた。白手袋をはめた右手には拳銃が握られ、銃口はこちらに向けられている。
「嘘だろ……」仁志の声が震えた。「何なんだよぉ……カンベンしてくれよぉ!!」
「ヤなこった。ケケケッ」
「何で……オレ何もしてねーだろ!?」
「ボクだって何もしてなかったんだよ」
「は……?」
「いいや何でもない。それよりさ、ボクはもう飽きた。キミだってこんな夢、とっとと終わらせたいだろ?」
「夢……?」
仁志はぽかんとしていたが、やがて理解した。この静か過ぎる街、変色した空、警察署での理不尽な仕打ちに、その警察署までの距離の短さ、そしてこのピエロ。どうして今まで気付かなかったのだろう!
「んだよ、散々ビビらせやがって! オレがアホみてーじゃん」
仁志は初めて笑った。恐怖心はほとんど失せていた──そう、ほとんどは。
「全っ然気付かなかったわ。いや何でピエロ? まあ夢なら何でもアリか。つーかいい加減その銃はしまっ──」
「うるせえな」
ピエロは全く笑っていなかった。何の感情も込もっていないドスの利いた声に、仁志から引きかけていた恐怖の波が再びどっと押し寄せて来た。
「飽きたって言ったよな」
「わかった……わかったよ。オレだってこんな夢、見ていたかねーよ!」
「それじゃあ最後に一つ、教えてやるよ」
そんな事はどうでもいいから早く目が覚めてくれと願いながらも、仁志はこれ以上ピエロの機嫌を損ねたくはなかったので黙っていた。
「眠りに就いた際に見る夢ってのには、色んなタイプがある。ボクが見せてやる夢は結構特殊でね、夢は夢なんだけど、同時に現実でもある。現実世界としっかりリンクしているんだ。ここまで、言ってる意味わかるか?」
仁志は一生懸命考えを巡らせた。
「えっ、と……うん? つまりオレは本当に警察署に行って……?」
「ケケケッ」
仁志は体をビクつかせた。
「流石は、偏差値が県内最低クラスの坂倉高生だ」
「なっ──」
「何せアイツも──忌々しいあの下衆野郎も通っていたくらいだもんな」
「……誰の話──」
「簡単に教えてやるよ。この夢の中で死ぬと、現実世界でも死ぬ」
「……ああ、そ、そっか。なるほどな! ハハハハハハッ!」
ピエロはニイッと笑い、拳銃の安全装置を解除した。
「ハハハハ……マジで?」
耳をつんざく悲鳴と大きな物音に、坂倉高校一年二組の教室内は騒然となった。
「何だ、どうした」
「山下が!」
女子生徒の短い悲鳴が上がった。黒板に板書していた国語教師は、生徒たちの視線が教室最後列のある一席に向けられている事に気付くと、すぐさま走り寄った。
そこには、つい先程まで机に突っ伏していたやる気のない男子生徒の一人が、椅子ごと真後ろにひっくり返っていた。白目を剥き口から泡を吹いたまま、ピクリとも動かない。
「山下、大丈夫か? 聞こえるか? 誰か救急車を! 保健の先生も連れて来てくれ。おい、山下! 山下?」
山下仁志が最期に目にした光景は、赤錆色の空と、とびきり不気味な笑顔で自分を見下ろしながら手を振るピエロの姿だった。