第九話「一匹の指揮者と透明な交響楽団」
僕の腕を散々引っ搔いて、満足したらしいアナントは、後から呼びに来たマタタビ君……こと、ヴィノ氏の声を聞きつけて、大人しくなった。
そして、あろうことか、ヴィノ氏の手により、何の抵抗もせずに洗濯機の裏から引っ張り出されてくれたのだ。
「アナント……。いつも君の面倒を看ているのは、誰なんだい?」と、僕はその裏切りをなじった。「なんで僕だけ悪いことになってるの?」と。
だけど、アナントはぎらつく目で僕のほうを威嚇しながら、ヴィノ氏の腕の中で赤ん坊抱っこをされている。
「痛い目に合わせた後に、『自宅』を破壊したから……って理由で怒ってるんじゃない?」と、ヴィノ氏は自分が「アナントの様子を見せてほしい」と言い出したことを忘れたらしい。
僕はへそを曲げる気も失せてしまったけど、「僕の着古した服の裏に居た猫は、抱き心地が良い?」と、嫌味を言った。
「うーん……汗臭いかもしれないね」と、ヴィノ氏はにおいも嗅がずに返事をする。「それより、アナントを主人公にした物語は書いている?」
僕はその言葉を聞いて、考えるふりをした。言われた通りに愚直に書いてますよ! と、アピールしたい気分でもない。
「書こうとは計画してる」と、僕は答えた。「今は、アナントや、町の中の猫達の様子を調べてる」
「そうか」と、短く答えたヴィノ氏は、「だったら良いんだ。その調査を進めて行ったら、きっと、面白い事に気付くと思うよ?」と、分かってる風なことを言う。
猫達が古井戸から空の彼方へ、何かを召喚している事は知っている……とは、僕も言わないで置いた。
アナントの友達に、シューベルトと言う名前の猫が居ます。野良猫なので、本当の名前はありません。ですが、僕はその猫の不思議な特徴を知っています。
だからこそ、彼をシューベルトと呼んでいるのです。どこかの国の、名高い音楽家の名前を拝借しました。
シューベルトは、猫界隈きっての音楽家です。ピアノは弾きませんが、地面に見つけた五線譜に、石ころを並べて音階を決めます。
車の通らなくなった路地裏に、古い横断歩道があります。その、消え欠けている白線に散らばる丸い石を見つけて、奥にある公園に入ると、決まってシューベルトが居るのです。
閉鎖された公園は、壊れた遊具や崩れかけているベンチに、注意喚起の黄色いテープが巻きつけられていました。
其処はなんでも、人体に害のある有毒な虫の類も出るそうで、近隣の住民も足を運ばない公園でした。
僕が、こっそりと崩れかけた遊具の陰から覗くと、シューベルトは、後足で座った姿勢から両手を上げて、優雅に枯れ枝のタクトを振っているではありませんか。
風の音と、遠くを走るダンプカーの車輪の音だけが響く中で、シューベルトは熱心にタクトを振り、舞い踊ります。波を打つように、風に乗るように、水面を滑るように。
きっと、彼の耳には、彼の作った音楽を奏でる、何重もの楽器の音色が聞こえているに違いありません。
一頻り、見えない交響楽団の指揮を執った彼は、不意に両手を下げて、目の前にタクトを置き、深く一礼しました。
その耳には、きっと拍手の渦と喝采の嵐が、吹き荒れているのでしょう。
アナントとシューベルトが友達であるのを知ったのは、名高い音楽家でありながら、日常の食い扶持にありつけないシューベルトを、アナントが僕達の家に連れてきたからです。
雄猫同士であるのに、アナントは、まるで母猫のように、シューベルトを舐めまわしました。
小柄なシューベルトは、お尻の丸いものがある身でありながら、黙ってその仕打ちに耐えていました。
アナントが僕のほうを見て、「みゃーう」と鳴きました。そして、僕の足元に来ると、靴を踏むのです。
多分、シューベルトに餌を上げてほしいと言う意味なんだろうと察しはつきましたが、流石に僕も、二匹の猫の召使には成れません。アナントの世話だけで手いっぱいです。
だから、こう条件を付けました。
「良いかい? アナント。君の友達に餌を上げるのは、一匹に付き、一回だけだ。それが守れるなら、今日だけは、彼に君のキャットフードをあげよう」
二匹は、その条件を飲んだらしく、僕が紙のお皿にキャットフードを盛って差し出すのを、大人しく待っていました。
そんな縁があってから、僕は帰って行こうとしたシューベルトが、何処に行くのかを観察しました。その時に、彼が音楽家であり、透明な交響楽団の指揮者であることを知ったのです。
シューベルトは、帰る間際に、隠れていた僕に気付きました。
とっさに、餌をねだられるかもしれないと思ったけど、シューベルトは思ったより仁義にあつい雄猫だったようです。
僕のほうを見ながら、瞳孔の細い昼の十二時の瞳をして、非常に満足したと言う表情を浮かべると、何もねだらず、甘えることも無く、悠々と五線譜の横断歩道を通って、町の中に消えて行きました。
その、燕尾服を纏っているような小柄な背は、ステージを後にする指揮者のように、堂々としたものでした。
今日も、僕はアナントの友達を調査している。
「猫狩り」があってから、彼を家から出さないことにしてたけど、アナントは散歩をしたがった。それで、屋根の上だけは出かけても良い事にして、二階の窓から出入りさせていた。
そしたら、猫狩りを免れた近所の猫達が、「ハーディ家の屋根の上サークル」を作ったようなのだ。
サークルの活動方針は、野良猫と飼い猫を区別せずに、日向で温まった屋根のブロックの心地好い場所を、全員が共有できるようにすること。
先に岩盤浴をしていた猫は、体が十分に温まると、待っていた猫に場所を譲る。
場所を譲ってもらった猫も、ブロックの上で腹を温めて、十分に温まったら次の猫に譲る。
僕は、上手く生きてるもんだなぁなんて思って見ていた。そのうち、猫達の中で、視線を気にする者と、そのままのんべんだらりと過ごす者が現れ始めた。
視線を気にする者達は、尻尾を下げて、「ついてくるなよ」の合図を出しながら、どこか他の屋根に渡り歩いて行く。
そのまま過ごす者は、だいぶ肝っ玉が太い奴等なんだろう。人間が見てるのもかまわないで、腹を出してリラックスしきっている。
勿論、屋根の上サークル長は、アナントだ。
お尻の丸い物を無くして、雄としての威厳を失ってしまった彼だが、やはりまるで母猫のように、他の猫の面倒を看たがるのだ。
雄猫ホルモンが働かない代わりに、雌猫ホルモンのほうが強くなってきているのだろうか。