第八話「猫の怒りに触れし者」
久しぶりに、ヴィノ氏が僕達の家を訪れた。
旅のお土産だと言って、僕には異国のトーテムの形をしたキーホルダーを、アナントにはサーモン味のおやつのペットフードをくれた。
その時、アナントは、「自宅」に引きこもっていた。
先日の注射が相当痛かったらしく、ストライキを起こしたのだ。呼びかけても返事もしないし、フードも食べないし、水も飲まない。
そして、そこに彼が居ると知っていても、洗濯機を使わないわけに行かない。
脱水の時に、ドラムの回転しているガランガランと言う大きな音が鳴るのだが、それらは、アナントにとっては「環境音」と認識されているらしい。
ここ数日で起こったことをヴィノ氏に説明すると、「狂犬病」と「猫狩り」と言う言葉に、ヴィノ氏は眉をひそめた。
「気味の好い話じゃないね。それで、対策はどうした?」と、素早く聞いてくる。
アナントに狂犬病の予防接種を受けさせたことを説明すると、曇っていたヴィノ氏の表情が緩んだ。
「それで、アナントは引きこもってるのか」と言って、部屋を見まわす。「どの辺に居るとかは、分かってる?」
「洗濯機の裏だね。できれば彼の巣を見せたいけど、生憎、洗濯物が終わってなくて」と、僕は述べて髪を掻いた。
ヴィノ氏が話してくれた、旅の話を記録しておこう。
彼が一時期滞在していた土地には、ヴィノ氏の知り合いである小さな女の子が居る。年齢としては、推定で十代半ばくらいなのに、八歳くらいの姿から、一切成長も老化もしていない人物だと言う。
だけど、頭の中はしっかりと成熟していて、今は年の離れた姉である人物と、対等に話し合える知識と知恵を身に着けている。
使命感に燃える若い女の子の関心と言うのは、自分達の身の回りの事だけではない。
世界中でどのような事が起こっていて、それに対して自分達はどのような行動が取れるのか、または、どのように振舞うべきかを、年の離れた姉と討議しているそうだ。
どうにも、その少女の姉にあたる人物は、自分の住んでいる町の人々や、懇意にしている近しい物達には愛情を向けるが、その外にいる人間達には関心が薄いのだと言う。
「そんな事じゃだめだよ」と、メリューは姉にお説教をします。「世界には、困っている人がたくさんいるって、貴女も知ってるでしょ? そんな人達にこそ手を差し伸べないで、どうするの?」
「メリュー。私は、慈善家ではないんだよ」
そう、美しい金色の髪と水色の目を持った女性は、優しく反論します。
「財産にも、愛情にも限りがある。唯の、『地方領主』みたいなものなんだ。世界の事を考えるのは、それを仕事とする者に、任せなさい」
「でも……」と言いかけた少女の口元に、姉である女性は人差し指を当てました。メリューと言う女の子は、それを振りほどきます。「やめてよ。いつまでも子供扱いしないで」
「子供扱いはする」と、姉は意地悪気に言い返しました。「自分だけが世界を動かせると思ってる者は、まだまだ認識の足りない赤ん坊だ」
「私は、思い上がったりしてない」と、メリューは不満そうに零しました。「だけど、世界の事を考えるのは……悪い事じゃないでしょ?」
「その事については、私より、シャニィに聞いてみなさい。きっと、相談に乗ってくれる」
そう言われて、メリューはふくれ面をしました。
だけど、そこから更に反論をすることはなく、台所に向かって、わざと踵を鳴らすような足音を立てながら歩いて行きました。
そして、夕飯の準備をしていたメイドを見つけると、さっそく声を掛けました。
「なんでもかんでも、シャニィに、シャニィに、って言って、全然私の話を聞いてくれないの」
いきなり本題から切り出されたメイドは、振り返ってメリューを見つけると、「はぁ……」と、気の抜けた声を出しました。
カッティングボードの上で野菜を切りながら、「また、メリュジーヌ様と喧嘩をしたんですか?」と、メイドは尋ねます。
「喧嘩じゃないけど」と、メリューは否定しました。「外国の飢餓対策への資金援助って言うのに、応えたら? って言う話をしてたはずなんだけど、いつの間にか、私がまだ赤ちゃんだとか言う話に……すり替わってた」
「うーん……。それはですねぇ……」と、シャニィと言うメイドは苦笑いをしながら、答えた。「その、資金援助を求むって言うのは、ある種の詐欺なんですよ」
「詐欺? その国の人達が、嘘を吐いてるって事?」と、メリューは聞き返します。
「その国の人達は、自分の国で何が起こってるかを知らないんです。だけど、その国の上に立つ人達が、『今度は此処で飢餓を起こそう』って言う、作戦を練ってるわけですね」と、シャニィ。
メリューは、姉の物によく似た水色の瞳を瞬かせて、「なんでそんな事するの? 国の上の人って、国民を守るための人でしょ?」と、驚いている。
「国民を、守るべき者じゃないって考えている国もあるって事です……。とても残念ですが」
そう言って、メイドは切った野菜をフライパンに入れて炒め始めた。
「メリューちゃんも、もう大人だと思うから話すんですけど。手や足がない子供が、物乞いをしているのを、公共放送で見たことはあるでしょ? あの子供達は、『より哀れに見えるように』、手足を切り取られてるんですって。
それと同じことを、国の上の人達がするとしたら、『飢餓を起こすことで、外国からお金をもらおう。そのお金で国を運営しよう』って考えるんじゃないかなぁ……。って言うのが、私なりの見解です」
「そんな事したら、反乱だって起こるでしょ?」と、正義感に燃える女の子は、口調を強く聞き返します。
メイドは答えました。
「それが、そう言った『飢餓国』の国民が、反乱を起こしている様子はないんですよ。王様の意見に反乱を起こそうって言う意識が、働かないのかも」
絶望的な返答に、メリューは思わず口をつぐみました。
その話を聞いた後、僕は眩暈を覚えた気がした。
「つらい話だなぁ……」と、感想を述べると、ヴィノ氏は「児童文学向けではないかもね」と言って、何時もの歯を見せない苦笑いを浮かべる。
「だけど、ヴィノ氏。その、メリューって言う名前の女の子は、つまり、小人症って事かい?」と、僕は聞いてみた。
ヴィノ氏は「そんな感じだね。それは、またいずれ話そう」と言って、一人掛けのソファから立ち上がった。「洗う前の洗濯物を、洗濯機の横から取り出してきてくれないか? アナントに会えないと、流石に気になる」
「あ……。ああ、ちょっと待っててくれ」
僕はそれまで、洗濯物は洗いあがるまで動かせないと思い込んでいたけど、箱にでもバスケットにでも詰め込んで、移動させてしまえば良いんだと言う事に、その時気づいた。
本当に、思い込んでしまうと言う事は、正常な思考の妨げになるんだな。
その後、僕の腕は、洗濯物の山を崩している際、「自宅」を侵害しに来たと思ったアナントに、散々引っかかれることになるのだった。