第七話「乾燥注意報の発令されし日」
アナントが、文句を言いに来た。書斎のデスクの上に上がって、しきりに「みゃーうみゃーう」と、何か訴えている。よく見てみると、鼻が乾燥して、皮膚の一部がひび割れていた。
僕は、多分舐めちゃうだろうなと思いながら、指に人間用のリップクリームをつけて、アナントの鼻にぬってあげた。メンタームの入っていない、すかすかしないクリームだ。だけど、薬品のにおいをごまかすための香料はついている。
アナントは、しばらく納得の行かない顔をしていた。何故、鼻にくさい物を塗り付けるのか……と言うような表情である。
そして、不意に、長いベロでぺろりと鼻を舐めた。クリームはきれいに取れてしまったようだった。
ラジオを聞いていると、今日は乾燥注意報が発令されているらしい。
注意報なら気にしなくて良いものだと、昔誰かから聞いたが、人間が注意しなくても平気でも、小動物にとっては、重大事項である場合もあるだろう。
森家事だって起こりかねないし、注意報なら無視して良いと、油断しても居られない。
アナントはたぶん、普通の猫より乾燥肌なんだ。鼻の他に、乾燥注意報が報じられる日は、肉球がざらざらしている時もある。
何とかしてやれないかと思っていたが、買い物に行ったペットショップで、「肉球クリーム」と言う商品があるのを知った。
猫用の、猫の体に害のないクリームだそうだ。その他に、噛んで遊ぶ本物のマタタビを購入して、家に帰った。
アナントを背中のほうから抱きかかえると、彼はいつもはぐにゃぐにゃの体をこわばらせ、「恐怖」の表情を浮かべる。この姿勢で抱っこされるときは、大体の場合、爪を切られるときであると知っているのだ。
その時は、僕が手にしている物が爪切りでないと知ると、アナントの体のこわばりが少し取れた。
アナントの、役に立たないと言われる割には器用な手を軽く持って、肉球をマッサージするようにクリームを塗る。
四つの足の肉球に、満遍なくクリームを塗ってあげると、アナントは皮膚がカサカサしなくなったのが分かったのか、急にうっとりした顔をし始めた。
「みゃぁ。みゃぁぁ」と、甘えるような声を出して、ゴロゴロ言い始める。
召使の思いやりは届いたようだった。
屋根の上から隣町を見ていた猫達が、何に気付いていたのかを、近日の僕は、うかがい知る事となった。
ラジオのニュースがその悲しい出来事を報じていたのだが、なんでも、隣町で「猫狩り」が起こったのだと言う。
たまに、全身真っ黒な猫が生まれたりすると、悪魔の手先だとして「居なかったことにされる」と言う悲劇が起こる。
しかし、隣町で起こった猫狩りは、黒猫にや野良猫に限定せず、外に出られる猫であれば極刑を免れなかったのだ。
なんでそんな事が、と、僕も猫に仕える身として思った。
聞き取りにくかったラジオに近づいて、よく耳を澄ませると、こんな話が聞こえてきた。
どうやら、隣町で、特殊な狂犬病が発見されて、外を自由に行き来できる猫達が、その狂犬病の保菌者だとされたのだ。それで、政府から召し仕えられた係員による、大規模な殺傷処分が決行された。
そして、その「猫狩り」の魔の手は、方々の土地に広がって行っているらしい。
僕は、その日から、アナントを外に出さないことにした。
隣の町の事件では、狂犬病の予防接種をしていた犬達は、極刑を免れたと言う。それを聞いて、僕はアナントに狂犬病の予防注射を受けさせようと、その日のうちに獣医に向かった。
町の動物病院には、同じ考えを持った猫の飼い主達が集まって、ごった返していた。
十数匹の猫は、当日のうちに予防接種が出来たようだ。
だけど、ワクチンが足りないとして、僕を含む、後手に回った飼い主達は、翌日から数日後までの予約をすることになった。
予約を済ませた帰りがけに、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「ハーディさん」と、近所の夫人である、ミセス・グリモアが、ふくよかな顔に心配の皴を刻みながら、消え入りそうな声で囁いてくる。「アナントちゃんは大丈夫?」
「明日の予約になりました。でも、今の所、大丈夫です。マルカ君の様子は?」と、僕も、声を潜めて聞き返した。
「私達は、今日中に受けられそうなの。マルカも、落ち着いたものよ、と言いたいけど」と言いながら、グリモア夫人は、両手に抱えた樹脂製のキャリーバッグを見せた。微かに、だがしっかりと、震えている。「注射は苦手らしいの」
「どの猫でも、病院と注射は苦手でしょうね」と、僕は言って、脇に抱えている布製のキャリーバッグを手前に持ってきて見せた。アナントは、普段はスリットから頭を出しているのに、その時は耳の先まですっぽりとキャリーバッグの中に隠れていた。「アナントも、さっきから小刻みに震えています」
僕の言葉に、グリモア夫人は困ったような笑顔を浮かべる。
「その様子なら、バッグから逃げ出すことも無いでしょうね。帰り道は、気を付けて」
そう呼び掛けてもらって、僕は少しだけ安心した。
「ありがとうございます。それじゃ」と答えて、僕は自分の車まで足を急がせた。
遠くのほうで、背の高い木々が梢を鳴らしている。
ざわざわ言うのは、小枝の囁きだけではない。
突然広まった「特殊な狂犬病」の事も気になるけど、いくら保菌者かも知れなくても、潜伏期間だったら注射で治療することだってできるのに。
その段階を踏まずに、政府は何故「猫狩り」を強行したのだろうか。
そんなことが頭をかすめたけど、深く考える暇もなく、僕の意識は車の運転のほうに注がれた。