第三話「ルシア・ソーマの夢」
それは、遥かずっと昔の事。
ある村で、猫に憑かれている子が生まれた。
両目の瞳孔の形が縦に細く、光彩は青色をしている。
やがて、その子供は這い歩く時期に入り、両手を地面につき、膝で走った。
憑かれた子は、見世物小屋に売られた。
見世物小屋で、猫に憑かれた子供は、常に四つ足で歩く事を命じられ、猫と同じ言葉を話すように躾けられた。
女の子の着る柄の着物を着せられて、髪を長くのばしたままにさせられた。
その子の前髪が目にかかるようになると、見世物小屋の主人は召使いに言って、子供の髪を整えさせた。
長さはそのままで、顔の半分だけが見えるように。
その子は、猫の言葉で話しながら、「ああ、馬鹿らしい」と思って居た。
「何時か抜け出せる機会があったら、こんな小屋、出て行ってやるのに」
そう思っては居たが、それを言語化できない彼は、ぼんやりとした無意識の中に、その思いを留めていた。
花の蜜の香りが漂う、春の頃だ。
猫に憑かれた子は、他の小屋の主人にさらわれた。
其処でも、彼は猫もどきとして振舞うように望まれた。
彼はガリガリの痩せっぽちで、背は低く、髪が長く、赤い着物を着せられている。大体の人は「女の子だ」と勘違いした。
彼は、一人で居る時は、両の足を地面について、足の平で立ち、歩く事も出来た。
天気の好い、人目のない日は、田畑の間の道を、両の足で歩いて散歩をした。
小屋に戻る時に、次第に姿勢を低くして、四つ足で歩く。
小屋の者達は、彼の細やかな成長を知らずに居た。
ほんの何も気のない時に、彼は本当に小屋を去る事にした。
小屋の主人の部屋に行くと、その月の売上金を入れた金庫が、開いていたのだ。
彼はそれを持って、誰にも見られる事なく小屋を後にした。
主に食べ物を得るために使っていたが、遂に持って来た金は底をついた。
お腹が空いたなぁと思いながら、彼はレンガ造りの駅の前で寝そべっていた。
「あなた、どうしたの?」と、女の人の声がした。
彼はちょいと顔を上げ、長い前髪の間から、縦に瞳孔の細い瞳を見せた。
女の人は、「ああ……」と、何か感づいたように呟くと、「すこぅし、目を閉じて」と言って、彼の両眼を塞ぐように、優しく手の平を当てた。
彼は、両目から何かが吸い取られて行くような感覚を覚えた。
それから、彼は猫の瞳を失った。当たり前の人間のような、円い瞳孔を持つようになった。光彩の色だけは、青く染まったままだったが。
彼から「負」を吸い取った女性の周りには、黒い猫の影が纏わりつくようになった。
彼は女性の家に連れて行かれると、風呂に入れられ、食事をもらった。
碗や皿の上に、きちんとよそわれた食べ物を見て、彼は少し首を傾げた。
其処に並んでいる「箸」を、不思議に思ったのだ。
彼は箸は手に取らず、食べ物を素手で掴んで口の中に放り込んだ。
彼は、女性から「イシロ」と言う名前をもらった。
女性は自分を指さし、「ミヒナ」と名乗った。
それから、イシロはミヒナの家に留め置かれた。
ミヒナは、人間に宿る「負」を我が身に取り込み、「負」に憑りつかれた人間を癒す事を生業としていた。先祖の頃から、ずっとその務めに就いていると言う。
ミヒナは、イシロの状態についても良く知っていた。
「あなたは、身の内に『負』を抱えて生まれて来たの。何か理由があるのか、それとも偶然なのかは、分からないけど」
その話を、イシロは黙って聞いていた。
ミヒナは語る。
「あなたが、その存在を望まないのなら、この『負』は消してしまうわ。だけど、もし、あなたがこの『負』と共に生きる事を望むなら、何時か返してあげる」
イシロは暫く考え込み、「とって、おいて」と答えた。
ミヒナは瞬きで頷き、小さな桐の箱を手にした。
彼女が旋律だけの古い歌を歌うと、纏わりついていた猫の形の影は、桐の箱に集まり、蓋を閉じると、その中に封じられた。
ミヒナは、慣れた手つきで箱を紐で括った。
イシロとミヒナの間に、子供があったかは定かではない。
だが、青年と言っても良いほどに成長したある時に、イシロは「桐の箱」を持ったまま、ふらりとミヒナの元から姿を消した。
ミヒナは特に取り乱すでもなく、イシロとの別れを静かに受け入れた。
ルシアは、まだ暗い朝に、寝床で瞼を開けた。心臓がどきどきして居て、呼吸が忙しい。
眠りの中、去って行くイシロの後姿を見つめながら、ルシアは、彼を止めなくてはと言う心に突き動かされた。
しかし、何時もルシアは声を発せず、イシロに触れる事も出来ない。
どうにかして、彼を――彼がその手にしている「負」を――抹消しなければならないのに。
ルシアは、布団の端をぎゅっと握りしめた。追おうとする意思はあるのに、夢の中では体が動かない。
何故、夢の中の自分がそのように考えるのか、何故夢の中で、自分がミヒナの視点に立っているのか。それは分からないままだった。
「吸い取ってはいけないものがあるんだ」と、ルシアの祖父は孫に伝えた。「『手』を触れる事で、我々は『負』を吸い取れる。それは理解しているね?」
ルシアは「うん」と声に出して返事をする。
祖父は話を続ける。
「『負』を吸い取る力は、子供の頃のほうが強い。まだ抵抗する意思がないからさ。次第に、その『負』が何であるかを理解して行く内に、抵抗力が生まれる。
風邪に対する免疫みたいなものだね。それが体に悪い影響を及ぼすと分かるようになると、少しずつ『負』を吸い取らなくなる。
そして、自分の体に『良い作用』を起こすものを、吸い取ろうとするようになる。だけど、それは我々が人間として生きて行く上での、禁忌なんだ」
「何故?」と、ルシアは聞いた。
「以前、イシロの話をした事があっただろう? 『負』と共に生まれた子供だ。彼は、一族の中で『魔性』を求めた者の腹から生まれた。
『魔性』を求めた女性は、自分の体に『都合の良い作用をもたらす者』として、他者の力を吸い取った。それにより、身の内に変異を宿すようになった。
その変異は、腹の子に影響を与えた。そして生まれたのが、イシロと言う男の子だ。彼の特異な瞳は、ある種の変化だったんだよ」
ルシアは真っ先に思った疑問を尋ねる。
「イシロは、ミヒナの所から居なくなってから、何処に行ったの?」
祖父は頷いてから、こう答えた。
「遠い地だと言う事は伝わっているね。もしかしたら、一番島以外の、別の陸塊に行ったのかもしれない。『負』を身に宿す能力と、桐の箱を持ったまま」
その後、ルシアは祖父から、吸い取ると「禁忌」になる幾つかの要素の話を聞いたのだ。
キリクスから「ルシアとそっくりな子が、七番島に居る」と聞かされた時、ルシアは真っ先にイシロの事を思い出した。
やはり、イシロとミヒナの間には子供が居り、その血を継いでいるのが自分なのだと言う事を知った。
ミヒナの元を去ったイシロは、異国でも子孫を残し、その力を継承した者が、アクスメディナと言う国に居る。
ルシアはそう察しても、取り分けキリクスに説明したりはしなかった。
一族の中の秘密ではあるし、何より、ルシアに出会えたことを喜んでいるキリクスの心を、暗ませたくは無かった。
それでも、黙ったまま思っていた事はある。
もし、その「私とそっくりな子」に出会える事があったら、イシロの話をしよう。いや、イシロとミヒナの話をしよう、と。
異国に居る「そっくりな子」は、桐の箱に閉じ込められた猫の影が、どうなったかを知っているかもしれないから。




