第五話「雨の中の女の子」
朔が眠っている間にうなされる事が増えた。
普通の「うなされる」だったら、ぐずり声を上げたり、泣き声を上げたりするかもしれない。
しかし、朔は泣き出さない。トリノは眠らずに朔の様子を観察した。
息を止めるようだったら緊張状態になって居り、息切れをするようだったら、緊張状態に耐えられなくなっている。そして、助けも呼ばずに闇の中で目を覚ます。
この繰り返しがずっと続いていた。
アナントは、役割が分かったもので、何時も朔にくっついて眠って居る。
彼がうなされても、息切れをしていても、夜中に突然抱きしめられても、全く無関心を決め込んで眠って居る……ふりをしていたそうだ。
「朔にとっては、僕は、あったかくて柔らかい物体であると言う事が重要なんだと思うんだ」
一週間の休憩を取りに来る時に、アナントはそう語っていた。
アナントの一週間の休憩の間に、変化が起こった。
ヴィノ氏がアナントを連れてトリノの家に行くと、何時も片づけられていた家は、ありとあらゆるものが「出しっぱなし」に成っていたらしい。
「トリノ。どうしたんだ?」と、ヴィノ氏が聞くと、「エリス……。すまない」と、今にも倒れそうな声で言われた。
どうやらトリノは、朔の内側に「触れて」しまったらしい。
「うなされ方が異常だったから、どうにか鎮めてやれないかと思って、少しだけ触れたんだ。そしたら『感化』を受けてね」
そう語るトリノの顔は、非対称にひきつっていたと言う。
「全てが『異形』の世界」と、僕は聞いた事を復唱した。「それはまた、大変そうな話だね」
「話で済んだらよかったんだが」と、ヴィノ氏は口元を押さえて考え込む。
僕はメモを取りながら述べた。
「不思議の国は、アリスにしか耐えられない物なのかもね」
ヴィノ氏は、柄に無く本当に困り切っている。
「大人が迷い込んじゃいけない世界ではあるよ。大人が全員『異形』なんだもの。でも、良い知らせもある」
「どんな事?」と聞くと、「朔が『レンカ』を見つけた」と返って来て、僕は「おー」と歓声を上げた。
朔の夢の中に現れるようになった「レンカ」は、何時も灰色の毛玉を抱いていて、朔はそれが「アナント」だと思って居るし、レンカはそれが「バーナード」だと言い張る。
男の子と女の子は、その一点について口喧嘩をしているらしい。
その口喧嘩が始まってから、朔の「世界」の中が様変わりし始めた。
ノイズのように乱立していた「本棚の建物」が消滅し、昆虫のような車も、人間の手のような木立も消え去って、朔の意識の中には「レンカと毛玉と自分」しか居なくなった。
レンカが朔にとって、異形に見えなかった理由は、幾つか考えられる。
一つ目は、彼女が大人では無かったから。二つ目は、彼女が「毛玉」を抱えていたから。三つ目は、レンカと朔の境遇が似ていたから、と言った所だ。
同じ「救難信号」を出している者同士、波長が合ったのだろう。
その日も、朔が寝床に行くと、アナントは「媚びる気はないぜ」みたいな感じで、朔の足元にくっついて眠ってあげた。
暫く眠りの前の沈黙があった。
不意にベッドの上に起き上がった朔は、足元に居たアナントを抱え上げ、自分の胸の上に乗せた。
アナントは成猫なので、子供にとっては相当重いはずである。
「アナント」と、朔は呟いた。「バーナード、じゃない」
夢の中での事を知っているアナントは、「どうにもこの少年は、ようやく『自己主張』の芽が吹きつつあるのだ」と悟った。
レンカが抱えている物が、「アナントかバーナードか」については、二人の間で意見が分かれたままになった。
「その話、疲れちゃった」と、ある日レンカが言い出した。「何か、別のお話しをしよう?」と。
だが、朔は他人に語って聞かせられる言葉を持って居ない。
そこで彼は、「何か、喋って」とレンカにねだった。
レンカは、自分が普段どんな暮らしをしているかを、言葉足らず成りに説明してから、「私は、白い部屋から出ちゃいけないの」と打ち明けた。
朔は、黙って聞いている。
レンカは続けた。
「理由を考えた事もあったけど、誰も『それが正解』って言ってくれたことは無いんだ。何時か外の世界に行ってみたいけど、みんなは『その時』が来なきゃだめだって言うの」
「その時」と、朔は復唱した。「その時、は、何時?」
「何時に成るんだろう」と、レンカは言って、溜息を吐く。
「そう遠くないうちだよ、とは言われた事があるけど。でもね、それで、私、外に出る時は、『一番お気に入りの服』を着て行くの」
途端に、レンカの声は明るくなる。
「誕生日の時にもらった、明るい緑色のワンピースで、フリルがいっぱいついているの。
去年もらったんだ。ちょっと大きい服だったから、今年か来年にはぴったりになってるはずなの。
お姉さんみたいな茶色のブーツを履いて、髪の毛は解いて行く。私、何時も三つ編みしてるから、解くと、丁度ウェーブがかかってるの。お姫様みたいなのよ?」
朔にとっては、ワンピースもフリルも緑色も茶色も、何にも分からなかったけど、レンカの声音が明るかったので、とても素敵な服なのだろうと思った。
「貴方は、好きな服はある?」と、レンカは聞いてくる。
朔は「分かんない」と答えた。「選んだこと、ない」
「そうなんだ。それじゃ、これから選べば良いよ」と、レンカが言うと、彼女の背後に服を吊り下げてあるクローゼットが現れた。
「貴方は男の子だから……。黒と青と赤のどれが好き?」と言いながら、レンカはクローゼットの中の服を幾つか手に取る。
朔は黒も青も赤も分からなかったけど、何となく「黒と赤」と答えた。
レンカは黒いズボンと赤いシャツと黒いジップアップのパーカーを手に取った。「これが良いかも」と、朔の体の前に服を宛がう。
すると、次の瞬間には、朔の服装はレンカが見立てた通りになっていた。
「良いじゃない。やっぱり、黒には赤が映えるのよね」と、レンカはお姉さんに成りきって言った。
後日、「感化」から回復したトリノは、朔を近くの公園に連れて行った。
彼は保護されたばかりの時より落ち着いていて、そわそわしたり硬直状態になったりはしなかった。
その代わりに、道中の色んな物を指さして、「これは何?」や「あれは何?」と聞くようになった。
その質問に答えながら公園に辿り着くと、猫が群れていた。どうやら、近所の女性達がキャットフードの慈善配給を行なっているらしい。
トリノとしては、その様子を見せたかったのだ。
アナントではないけど、似たような形をした毛玉達を見て、朔は「いっぱい居る」と呟いた。
「そうだよ。彼等はね、猫って言う種族なんだ。アナント以外にも、色んな猫が居るんだよ」と、トリノは教えた。
朔は暫くトリノの足元でもじもじしてから、キャットフードを食べている猫達にそっと近づいて、少しだけ背中に触れてみた。
人間に慣れている上に、食事中の猫達は、男の子を追い払ったりしなかった。
その日、朔は、触らせてくれた茶トラの猫と仲良くなった。確実にノミとダニの居るはずの毛皮を丁寧に手で撫でて、植え込みの縁に座り込んで、膝に乗せていた。
そんなわけで、トリノの家に帰ってから、朔は真っすぐシャワー室に連れて行かれ、丸ごと全部着替える事になった。
その日に眠る時、朔は足元にアナントの気配を感じながら、ぼんやり思って居た。
あの女の子とまた逢えたら、猫って言う生き物はいっぱい居るんだって教えてあげなきゃ、と。




