第四話「レンカの歌」
また、白い部屋で女の子が歌っている。歌詞の無い旋律が空中を泳ぎ、反響することも無く消える。
ピンクのクマのぬいぐるみを抱えて、女の子はそのぬいぐるみの耳元に口を寄せる。何か言葉を聞き取っているような風を見せ、自分でも何か言う。
会話をしているような一人と一体の周りは、白いベッドが包んで居た。
トリノからの新しい情報が入って来たと言って、何故かヴィノ氏は僕の所に来た。
主に、朔の様子についての情報だった。
「家具や道具に念入りに触る。外で動く物を見ると硬直する。日が沈んでから、カーテンの向こう側で窓の外を眺めている。
ぬいぐるみを受け付けない。アナントが一緒に眠ると寝つきが良い。夜間に何度も起きるが、吐息の変化からそれを察しないと、身動きをとらない」
そう書いてあるメモを読ませてもらって、僕は唸った。「これについて、僕の意見が欲しいと?」
ヴィノ氏からは「その通り」と返ってくる。「子供の心理についてはよく知ってるだろう?」
僕は頭を掻いた。「そう言われても、僕も調べたわけじゃないからなぁ」と述べてから、こう続けた。
「動く物を怖がっているのは分かるよ。家具や道具に触りたがるのは、動き出さないかどうかを確認してるんじゃないかな。
トリノの事を、母親や父親のような『恐ろしい何か』であると思わない限りは、暗示がゆっくり解けて行くのを待った方が良いんじゃない?」
「つまり、トリノやアナントを『恐ろしい何か』だと思ってしまうと、彼等に危険が及ぶわけか」
ヴィノ氏のまとめを聞いて、僕は「危険?」と聞き返した。
ヴィノ氏は「以前、話しただろう?」と言ってくる。
それは、朔の持って居る能力についての事だった。
四角い部屋で、朔は出口を探している。もうすぐ、四つ腕のピンク色の異形が、「四本の哺乳瓶の刑」に処すために、その部屋に現れるだろう。
最近、その異形は「絶叫」を上げる。朔がベッドから離れる事を覚えてから、特に叫び声をあげる。
「ダメェエエエエエエエ!」と言う絶叫と、「しなさい! しなさい!」と言う絶叫を度々上げる。
それは、父親が居なくなってから、母親が上げるようになったヒステリーの悲鳴に基づく「音の名残」だった。
その煩くて恐ろしい者から逃げるために、朔は部屋の出口を探していたのだ。
アナントが入ってきた時の入り口が、何処かにあるはずだと言う、一抹の希望を胸に。
ある棚を横倒しにすると、通路が隠れていた。七歳の子供になら潜り込める、一方通行の長方形の穴だった。
朔は迷う事なくその穴に滑り込み、手足を動かして前進した。
暗い穴はずっと続いている。真っ暗な通路を進む上で、振り返れない事は有益だった。どちらから来たのかを、忘れないで済む。
穴の向こうに、小さく光が見えた。オレンジ色の小さな蝋燭を持った黒い毛玉が、そこに立っていた。
それが黒鼠と言うものである事を、朔は知らない。
「この先に行くのかい?」と、黒い毛玉は聞いてくる。「御飯を食べられる場所に、戻れなくなっても?」
そう問われ、朔は頷いた。
「それなら通りな」と言って、黒鼠であるはずの毛玉は道を譲った。
白い光が見えてきた。外の世界だ、と朔は直観した。狭い通路の中で擦り傷だらけになっていたが、何とか体を起こした。
外には、たくさんの棚があった。内部に入れるほど大きな棚に、絵本がぎゅうぎゅうに詰まって、複雑な形を作り出している。
小さな人形が、その棚の下の方の、空いている隙間に出たり入ったりしていた。
強い息のようなものが押してきて、そっちを見ると、たくさん生えた黒々とした人間の手が、ざわざわと音を立てて揺らいでいた。
大きな目を光らせた昆虫達が、棚と棚の間の通路の真ん中を、絶えず走っている。
人形達は、その昆虫に真ん中の通路を譲って、両端を歩いていた。
朔は、人形達と同じ風に、昆虫の横を歩いた。
何処へ行けるかは分からない、だけど、あのピンクの異形は追ってこない。そう思いながら。
レンカは、今日もぬいぐるみのバーナードに話しかける。バーナードは音としては何も話さないが、レンカの気持ちをよく分かってくれた。
真っ白い部屋で、真っ白な人達から面倒を看てもらっていても、レンカは世界が物足りなくて仕方ない。
バーナードが本当に話せたら、とっても素敵なのに。そう思って、刺繍で描かれているバーナードの口元に触れた。
「けど」と、バーナードが言った。
レンカは耳を澄まし、「けど、何?」と聞き返した。
バーナードは言う。
「けど……、此処は、違う」
口は動いていない。でも、確かにバーナードは喋っている。
レンカは目を見開き、ナースコールを押した。
レンカが「バーナードが喋った」と言っても、看護師は「そうなの」と言っただけだった。
「そのくらいなら、私達を呼ばなくても大丈夫よ。バーナードと仲良くね」と言われた。
レンカにとっては、心がビックリするくらいの大事件だったのに、大人にとっては「そのくらいのつまらない事」なのかも知れない。
レンカは、またバーナードが喋り出さないかを待った。
朔は、夜の街を歩いていた。本能的に明かりのある場所を探すと、ボール型の明かりがたくさん燈っている場所を見つけた。
昼間は人形に見えた者達は、何時の間にか「異形」に変わっている。腕が四本あり、頭は無く、胸に生えた口から喋った。その異形達は、脚が四本だった。
異形達は、明かりの燈っている棚の中を出入りして、仕切りに声を立てている。
その響きはノコギリの音のようで、気味が悪い。
カタンカタンと言う音を聞いて、そちらの方を見た。
体の両脇に目玉がたくさんある蛇が、遠くからすごい勢いで走って来て、昆虫と異形が立ち止まっている通路の隙間を通り抜けた。
その通路の脇には、赤い顔の腕が長い人形が居て、その人形の顔が暗くなって腕を上げると、昆虫と異形は蛇の通り抜けた通路を渡るのだ。
「もぉしもぉし」と、濁った声が聞こえた。紺色の、腕が八本ある異形が、朔を呼び止めた。「こぉんなところぉで、なにをぉしているの?」
その異形は、ラジオのノイズのような音を立てた。
「〇〇〇さぁんはぁ何処?」
朔はその、ラジオのノイズのようなもので聞こえない部分が、ひどく忌まわしい言葉であると分かった。
その言葉は、ピンク色の、四本腕の異形の事をさしている。
この紺色の異形は、朔をピンク色の異形の所に、追い戻そうとしている。
そう直感した朔は走り出し、紺色の異形の前から逃げた。
シャワーヘッドも無いのに、上の方から水が降ってきた。朔はある棚の、絵本が出っ張っている場所で水を避ける事にした。
其処で立ち止まっていると、また遠くから、紺色の異形が二人連れで近づいてきた。
朔は棚の前から雨の下へ走った。
細い声が聞こえた。誰かが、優しい声で旋律を奏でている。
棚と棚の隙間の、小さな路地で、オレンジ色の傘をさして、柔らかそうな物を抱えた小さな子が綺麗な声で歌っていた。
その子の抱えている小さな毛玉には、見覚えがあった。
「アナント……」と呟きながら、朔はその小さな子のほうに歩みよった。
女の子は歌をやめて、朔の方を見る。毛玉も、二つある眼を朔の方に向けた。
「アナント」と、もう一度朔は呼び、女の子の腕の中に手を伸ばした。温かくて柔らかい。
「違うよ」と、女の子は言った。「この子は、バーナード」
朔は首を横に振った。
その途端、吸い上げられるように意識が「世界」から離れ、瞼を開けた。




