第三話「静かな子」
朔と言う名の七つくらいの子供が、家庭内暴力に遭っている。だけど、その居場所は「アナントの夢」でしか分からない。
その話を聞いて、ヴィノ氏は直ちに行動を起こした。
「僕達が詮索しないほうが良い不思議な力」によって、朔と言う男の子の居場所を突き止め、残っていた母親の手から救出した。
朔の父親の方は、子供をあやしていた途中と思われる状態で、床に頽れ、目を見開いたまま亡くなっていたと言う。
ヴィノ氏は、「朔の能力による影響だろう」と言っていた。
父親を殺め、母親からの異常な執着を受けていた少年は、今、ヴィノ氏の所属する「調査チーム」の一人の家に引き取られている。
朔は、ひどく静かな子供だった。
何も喋らないし、物音を立てる事を極端に嫌う。
彼を保護しているトリノと言う人物が「朔」と声をかけると、びくっと身をすくめてから、幽霊でも見るようにゆっくりと声の方を見るのだ。
トリノは、いい歳の男性だが、妻帯者では無かった。昔は結婚していたが、「ちょっとした事情」で、離婚したのだと言う。
彼は、町の中心街から離れた一軒家に、一人で暮らしている。
ヴィノ氏が紹介するには、彼は「治癒者」だと言う。体の傷を治すだけではなく、心の内部に踏み込める能力を持って居る。
しかし、「朔に対してその能力を使わないように言ってある」との事だった。
集中的な恐怖から解放されるために、朔に必要なのは、無音の期間。
静かに生活音が響き、「此処には攻撃してくる者は居ない」と、本当に信じ切れるまでの、長い安定と沈黙が必要なのだ。
でも、子供の世話をするには、最低限の声掛けと、子供にその声掛けに従ってもらう必要がある。
「朔。シャワーを浴びようか」と、トリノは穏やかに声をかけた。
男の子は、呼びかけられた瞬間に身をすくめ、それから機械のようにシャワー室に移動する。
服の脱ぎ方を知らないようで、トリノは手取り足取り教えながら、朔の面倒を看た。
七歳の男の子は、歩き方はおぼつかなく、タオルを扱う方法も、食事の仕方も、髪の整え方も知らず、声を出す事もしない。
ミルク以外の食べ物の味も知らないようで、最初は温めた牛乳しか口にしようとしなかった。それも、カップから飲む事が出来ない。
栄養の偏りを気にしたトリノは、哺乳瓶にミルクココアを用意した。
最初は色合いを見させ、哺乳瓶を手で触れさせ、温度を感じさせてから、朔が自主的に哺乳瓶の先に口を運ぶまで、辛抱強く待った。
初めて、ミルク以外の甘くほろ苦い液体を飲んだ少年は、不思議なものを口に入れたような顔をしていた。
それでも、それがトリノの初めて見た、朔の「恐怖」以外の表情だった。
ある日、家の中を歩いている途中で、朔は階段の段差に躓いた。
「危ない!」と、トリノは思わず大声を出してしまった。
受け身が取れたはずだろうが、朔は体を硬直させ、慣性のままに階段の上で転んだ。不幸中の幸いは、事故が階段を「上っている時」に起こった事だった。
段から落下する事は無く、腹や胸をしたたか打ち付けただけだった。
子供だったら、泣き出しているくらいの強い衝撃を受けたはずだ。それでも、彼は「泣く」と言う行動を取らず、痣が出来ても痛みすら訴えなかった。
このままでは危険だと、トリノは判断した。子供が自分の身の危険を、大人に知らせる事が出来ない。
「何とか、彼に『無害』を教える事は出来ないだろうか」とトリノに相談され、ヴィノ氏はうちに来て、それまでの事情を話してくれた。
「それについて、ちょっとアナントに出動を要請したいんだ」と、ヴィノ氏は冗談めかせて言う。「アニマルセラピーには、彼がぴったりだ」と。
ぼんやりと焦点の定まらなくなった、小さな部屋で、男の子は何か探しています。
高い歪んだ棚の上を見上げたり、物陰を探ったり。
歪んだ四角い部屋は、乱雑に本が積み上がり、ドアも窓もありません。
「居ない……」と、彼は呟きます。「けど……」と言いながら、またあちこち見回しては、「居ない」と「けど」を繰り返しました。
飼い主として、アナントをキャリーバッグに入れて持ち歩き、彼の生活用品をトランクに入れ、僕はトリノの家にお邪魔した。
ヴィノ氏が僕とアナントを紹介してくれて、トリノも「よろしくお願いします」と、丁寧に対応してくれた。
僕は朔が居ると言う、子供部屋まで、足音を殺して歩き、静かに三回ノックをした。
「失礼しま~す」と、囁き声を掛けながら、ドアをゆ~っくり開いた。
それでも、椅子に座らせられていた朔は、目を見開き、椅子の縁に手を置いて、ガチガチに硬直していた。
大人その物が怖いんだろうから、僕もそこに存在して居るだけで恐怖の対象になってしまう。
僕は、アナントをキャリーバッグから取り出すと、その耳に「後は任せた」と囁いて、彼を床に降ろし、部屋を去った。
アナントは、普通の猫が様子を見るように、まず、部屋の中を静かに歩き回った。あちこちに額をこすりつけて、しっかりマーキングをする。
その様子を、朔は視線だけで追っていた。
アナントに興味がないわけではないようだったが、初日は「触れ合える」事は無かった。
アナントは、子供部屋の他に、トリノの家の色んな所を出入りした。猫としても、新しい縄張りを観察したかったらしい。
あちこち見回して、ようやく納得して室内に戻ろうとすると、何時の間にか朔が階段の下で待っていた。
自分で部屋から出て来たの? と思って、アナントもちょっと嬉しく成った。
そこで、階段の一段目に腰を掛けている少年の脛に頭をこすりつけ、猫らしく「みゃーお」と鳴いてみせた。
朔は、じっとアナントを観察してから、恐る恐る手を伸ばしてきて、猫の背に触れた。
そんな感じで、ゆっくりと少年と親睦を深めたアナントは、ずっと普通の猫を装っていた。
トリノはアナントの世話も看ながら、猫に声をかけて居た。
朝に顔を合わせた時は、「アナント。おはよう」と声をかけ、キャットフードを用意した時は、「アナント。ごはんだよ」と声をかけた。
その様子を、緊張しながらも聞いていた朔は、家にいるようになった鯖猫が「アナント」と言う名前だと覚えたようだった。
アナントが家の中のパトロールをしていると、何時の間にか部屋から出てきて、猫が帰ってくるはずの出入り口の近くで待っている、と言う行動を取るようになった。
アナントが出動を要請されてから、四週間後。事態は良い方向に進んでいるらしい。
久しぶりに家に帰って来たアナントは、それまでの朔とのやりとりを詳しく教えてくれた。
自分で部屋から出て来れるようになった事や、トリノの真似をしてアナントの世話を看ようとし始めた事、一日一回少年の膝に乗ってあげる事。
アナントを膝に乗せた男の子は、仕切りに猫の背を撫で、何だったら抱きかかえようとするようになった。
アナントに一週間の休憩を得させ、再びトリノの家に出動してもらった時。
何と、朔が玄関で待っていたのだ。
僕も嬉しくなったけど、余計な事は言わないで、朔の隣にキャリーバッグを置き、そこからアナントが出て来るのを待ってもらった。
アナントは、何をしているのか、一向にキャリーバッグから出てこない。
「あ……」と、朔君が声を出した。猫の背を撫でるように、キャリーバッグを揺らしながら、「アナント……」と、声をかけた。
「居る? アナント」
その言葉を聞いてから、うちの策士は顔を出し、「みゃあん」と鳴いてみせた。




