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アイラの実りが揺れる声  作者: 夜霧ランプ
第六章~影を纏うもの~
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第三話「静かな子」

 朔と言う名の七つくらいの子供が、家庭内暴力に遭っている。だけど、その居場所は「アナントの夢」でしか分からない。

 その話を聞いて、ヴィノ氏は直ちに行動を起こした。

「僕達が詮索しないほうが良い不思議な力」によって、朔と言う男の子の居場所を突き止め、残っていた母親の手から救出した。

 朔の父親の方は、子供をあやしていた途中と思われる状態で、床に頽れ、目を見開いたまま亡くなっていたと言う。

 ヴィノ氏は、「朔の能力による影響だろう」と言っていた。

 父親を殺め、母親からの異常な執着を受けていた少年は、今、ヴィノ氏の所属する「調査チーム」の一人の家に引き取られている。


 朔は、ひどく静かな子供だった。

 何も喋らないし、物音を立てる事を極端に嫌う。

 彼を保護しているトリノと言う人物が「朔」と声をかけると、びくっと身をすくめてから、幽霊でも見るようにゆっくりと声の方を見るのだ。

 トリノは、いい歳の男性だが、妻帯者では無かった。昔は結婚していたが、「ちょっとした事情」で、離婚したのだと言う。

 彼は、町の中心街から離れた一軒家に、一人で暮らしている。

 ヴィノ氏が紹介するには、彼は「治癒者(ヒーラー)」だと言う。体の傷を治すだけではなく、心の内部に踏み込める能力を持って居る。

 しかし、「朔に対してその能力を使わないように言ってある」との事だった。

 集中的な恐怖から解放されるために、朔に必要なのは、無音の期間。

 静かに生活音が響き、「此処には攻撃してくる者は居ない」と、本当に信じ切れるまでの、長い安定と沈黙が必要なのだ。


 でも、子供の世話をするには、最低限の声掛けと、子供にその声掛けに従ってもらう必要がある。

「朔。シャワーを浴びようか」と、トリノは穏やかに声をかけた。

 男の子は、呼びかけられた瞬間に身をすくめ、それから機械のようにシャワー室に移動する。

 服の脱ぎ方を知らないようで、トリノは手取り足取り教えながら、朔の面倒を看た。

 七歳の男の子は、歩き方はおぼつかなく、タオルを扱う方法も、食事の仕方も、髪の整え方も知らず、声を出す事もしない。

 ミルク以外の食べ物の味も知らないようで、最初は温めた牛乳しか口にしようとしなかった。それも、カップから飲む事が出来ない。

 栄養の偏りを気にしたトリノは、哺乳瓶にミルクココアを用意した。

 最初は色合いを見させ、哺乳瓶を手で触れさせ、温度を感じさせてから、朔が自主的に哺乳瓶の先に口を運ぶまで、辛抱強く待った。

 初めて、ミルク以外の甘くほろ苦い液体を飲んだ少年は、不思議なものを口に入れたような顔をしていた。

 それでも、それがトリノの初めて見た、朔の「恐怖」以外の表情だった。


 ある日、家の中を歩いている途中で、朔は階段の段差に躓いた。

「危ない!」と、トリノは思わず大声を出してしまった。

 受け身が取れたはずだろうが、朔は体を硬直させ、慣性のままに階段の上で転んだ。不幸中の幸いは、事故が階段を「上っている時」に起こった事だった。

 段から落下する事は無く、腹や胸をしたたか打ち付けただけだった。

 子供だったら、泣き出しているくらいの強い衝撃を受けたはずだ。それでも、彼は「泣く」と言う行動を取らず、痣が出来ても痛みすら訴えなかった。


 このままでは危険だと、トリノは判断した。子供が自分の身の危険を、大人に知らせる事が出来ない。

「何とか、彼に『無害』を教える事は出来ないだろうか」とトリノに相談され、ヴィノ氏はうちに来て、それまでの事情を話してくれた。

「それについて、ちょっとアナントに出動を要請したいんだ」と、ヴィノ氏は冗談めかせて言う。「アニマルセラピーには、彼がぴったりだ」と。


 ぼんやりと焦点の定まらなくなった、小さな部屋で、男の子は何か探しています。

 高い歪んだ棚の上を見上げたり、物陰を探ったり。

 歪んだ四角い部屋は、乱雑に本が積み上がり、ドアも窓もありません。

「居ない……」と、彼は呟きます。「けど……」と言いながら、またあちこち見回しては、「居ない」と「けど」を繰り返しました。


 飼い主として、アナントをキャリーバッグに入れて持ち歩き、彼の生活用品をトランクに入れ、僕はトリノの家にお邪魔した。

 ヴィノ氏が僕とアナントを紹介してくれて、トリノも「よろしくお願いします」と、丁寧に対応してくれた。

 僕は朔が居ると言う、子供部屋まで、足音を殺して歩き、静かに三回ノックをした。

「失礼しま~す」と、囁き声を掛けながら、ドアをゆ~っくり開いた。

 それでも、椅子に座らせられていた朔は、目を見開き、椅子の縁に手を置いて、ガチガチに硬直していた。

 大人その物が怖いんだろうから、僕もそこに存在して居るだけで恐怖の対象になってしまう。

 僕は、アナントをキャリーバッグから取り出すと、その耳に「後は任せた」と囁いて、彼を床に降ろし、部屋を去った。


 アナントは、普通の猫が様子を見るように、まず、部屋の中を静かに歩き回った。あちこちに額をこすりつけて、しっかりマーキングをする。

 その様子を、朔は視線だけで追っていた。

 アナントに興味がないわけではないようだったが、初日は「触れ合える」事は無かった。


 アナントは、子供部屋の他に、トリノの家の色んな所を出入りした。猫としても、新しい縄張りを観察したかったらしい。

 あちこち見回して、ようやく納得して室内に戻ろうとすると、何時の間にか朔が階段の下で待っていた。

 自分で部屋から出て来たの? と思って、アナントもちょっと嬉しく成った。

 そこで、階段の一段目に腰を掛けている少年の脛に頭をこすりつけ、猫らしく「みゃーお」と鳴いてみせた。

 朔は、じっとアナントを観察してから、恐る恐る手を伸ばしてきて、猫の背に触れた。


 そんな感じで、ゆっくりと少年と親睦を深めたアナントは、ずっと普通の猫を装っていた。

 トリノはアナントの世話も看ながら、猫に声をかけて居た。

 朝に顔を合わせた時は、「アナント。おはよう」と声をかけ、キャットフードを用意した時は、「アナント。ごはんだよ」と声をかけた。

 その様子を、緊張しながらも聞いていた朔は、家にいるようになった鯖猫が「アナント」と言う名前だと覚えたようだった。

 アナントが家の中のパトロールをしていると、何時の間にか部屋から出てきて、猫が帰ってくるはずの出入り口の近くで待っている、と言う行動を取るようになった。


 アナントが出動を要請されてから、四週間後。事態は良い方向に進んでいるらしい。

 久しぶりに家に帰って来たアナントは、それまでの朔とのやりとりを詳しく教えてくれた。

 自分で部屋から出て来れるようになった事や、トリノの真似をしてアナントの世話を看ようとし始めた事、一日一回少年の膝に乗ってあげる事。

 アナントを膝に乗せた男の子は、仕切りに猫の背を撫で、何だったら抱きかかえようとするようになった。

 アナントに一週間の休憩を得させ、再びトリノの家に出動してもらった時。

 何と、朔が玄関で待っていたのだ。

 僕も嬉しくなったけど、余計な事は言わないで、朔の隣にキャリーバッグを置き、そこからアナントが出て来るのを待ってもらった。

 アナントは、何をしているのか、一向にキャリーバッグから出てこない。

「あ……」と、朔君が声を出した。猫の背を撫でるように、キャリーバッグを揺らしながら、「アナント……」と、声をかけた。

「居る? アナント」

 その言葉を聞いてから、うちの策士は顔を出し、「みゃあん」と鳴いてみせた。

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