第二話「世界が閉じる音」
その日も、アナントは夢の中で、忙しく喋る「けど」の子と会話をしていた。キリクスよりは年下の子だと言うから、七歳以下なのは確かだろう。
会話と言っても、「けど」の子は、一方的に何か言っているだけで、アナントが返事をしたり質問をしたりしても応えない。
アナントの事は気に入ってるみたいで、仕切りに自分の膝にのせて、毛皮を撫でさすろうとする。
アナントは「けど」の子のするままにさせて、その時も、彼の膝の上でぐんにゃりしていた。
「けど」の子は喋り続ける。
「象徴と言うのは常に揺らいでいる。けど、それが象徴的であるかどうかを問う事は必要だ。けど、問うた所で答えの出ない時もある。けど、答えが出ないと諦めて、問う事をやめてはいけない。けど、時にそれは大きな雑音となる。けど、その雑音の中から拾い上げる事が肝心だ。けど、その行動に心酔してはいけない。けど……」と言う風に。
ちょっと頭のおかしい子なのかなぁと、アナントが思いかけていた時、「けど」の子は、急にピタリと言葉を切った。
アナントは、降りかかるような言葉が止まった事に気付いて、「けど」の子の方を見た。
「どうしたの?」と、呼びかけようとすると、「けど」の子は、身をすくめ、唇の前に指を立て、アナントをギュウと抱きしめた。
膝と胸で潰されて、体がぺったんこに成りそうになり、アナントはその子の腕の中で暴れた。だけど、男の子はさらに強く抱きしめてくる。
「ダメ」と、男の子が囁く。「動いちゃダメ。見つかる」
アナントはそう言われて、ようやく耳を使ってみた。
何かが、ドスンドスンと言う足音を立てて、男の子周りを徘徊している。
やがて、男の子とアナントの姿は、その空間で淡くなり、次第に消えて行った。
アナントが目を瞬いているうちに、男の子とアナントは別の空間に現れた。
高い歪んだ棚が四方を埋める、真四角の部屋だった。部屋の中は、ごちゃごちゃと物で溢れている。
その部屋の真ん中にはベビーベッドが置いてあり、その周りだけは綺麗に整えられていた。頭の上で、色付きの透明なモビールが、ゆらゆらと揺れている。
アナントは、ぎゅうと抱きしめられたままで居たけど、男の子が黙ったので、「何かあったの?」と声をかけてみた。
男の子は、ようやくアナントを腕から放して、だけど膝の上からは動かさせなかった。
「えーっと、君の名前は?」と、アナントは会話を試みた。男の子は、さっきまでの饒舌さを無くして、黙りこくっている。
その代わりに、頭の上で揺れているモビールを掴もうと、ふわふわと手を動かしていた。
アナントは、その子が楽しくてモビールを追っているわけではない事に気付いた。全然笑って無かったからだ。
彼の体は、ベビーベッドに収まるには少し大きくて、特に足は膝を折って、無理矢理柵の中に押し込めてあった。
アナントは、この子の状態は何なんだろうと考えた。
最初に会った時と同じで、手足の爪は綺麗に切られており、髪の毛もしっかり整えられている。
そして、整った子供服を着ているのに……何故かベビーベッドの中に寝かせられている。
背丈から考えると、立ち上がってしまえば、モビールに触れる事は可能だろう。だけど、彼は背中を起こさない。
「起きないの?」と声をかけると、男の子はアナントを押さえつけていた手を放した。
アナントは、ようやくベビーベッドから降りて、辺りを見回す事が出来た。
ベッドの周りを埋めるのは、絵本の山だった。歪んだ本棚に押し込められた絵本、積み上げられた絵本、読んでいる途中で放り出されたような、開きかけの絵本。
そして、その空間にも、ドスンドスンと言う足音は聞こえてくる。
男の子は、伸ばしていた手を引っ込め、押し黙る以上に、呼吸まで細くし始めた。
アナントも、何かが来る事が分かり、棚に上って、物陰に隠れた。
「は~い。ご飯でちゅよ~。朔ちゃ~ん」と、大人の女性と思われる声が聞こえた。
その空間に現れたのは、腹と胸の出っ張った、頭の無い、腕が四本、脚が三本ある、ピンク色のワンピースと白いエプロン姿の異形だった。
腕の四本に、哺乳瓶を持って居る。
朔と呼ばれた男の子は、黙って横目でその異形を見つめる。表情は恐怖にひきつっているが、泣く事も、声を出す事もしない。
「大人しい良い子ですね。良い子は、ちゃんとご飯を食べなさいね~」と、異形に言われ、口の中に哺乳瓶の先を突っ込まれた。
四つの腕の一つは、哺乳瓶をぎゅうぎゅうと握りしめ、液体を速やかに子供の口の中に注ぎ込もうとする。
男の子は、息が止まりそうになりながらミルクを飲み干した。
その「四本の授乳」が終わると、女性の声を出す異形は、四つの腕で丹念に男の子の顔を撫でさすり、何処かへ戻って行った。
アナントは、もう大丈夫かと思って、棚の上の物陰から出ようとしたが、それに気づいた男の子は、アナントの行動を止めるように手の平をかざした。
ドスン、ドスン、と、また足音が聞こえてくる。
アナントも、危険を感じて物陰で縮こまった。
「さ~く~」と言う、男性の声が聞こえてきた。
大きな拳を持った、腕が四本と、膝までの長さしかない肢が二本ある、胸と腹だけの青い服の異形が現れた。胸に直接生えた口から、言葉を発していた。
その異形が言う。
「良い子だな。大人しくしてるな。よぉし。よぉし」と、その異形は男の子の頭を、ねじるように撫でた。
「よぉし。今日は、この本を読んであげよう」と言って、男性の声をした異形は、四つの手に、一冊の本を持つ。
その異形がその空間に居る間、朔は身じろぎもせず、青ざめた顔で宙の一点を見つめ、歯を食いしばり続けた。
震えを我慢しているんだ、と、アナントは気づいた。
異形は、音読に熱中して、本を朔の頭の上に持って来る。熱心に読み聞かせているうちに、ページを捲った勢いで本を落とした。硬い背表紙が、男の子の眼を叩く。
「あつっ」と、男の子は声を零してしまった。
その途端、青い異形は紫色になり、四つの腕のうち、一番拳の大きな腕で、朔の腹の殴った。少年は、必死に声を殺し、吐き気を我慢する。
ビクビクと身が震えているが、彼は腕を上げる事も出来ずに硬直している。
「だめだぞぉ、さく~」と、異形は言う。「静かに。静かにしないと、ダメだぞ~?」と。
異形は、朔の頭をぐりぐりと撫でながら、言い聞かせる。
「朔はなぁ、赤ちゃんなんだ。ずうっと、大人しくて、可愛い赤ちゃんなんだ。だから、まだ喋れないだろう? そうだ。お前は喋れないんだ。赤ちゃんだからなぁ?」
アナントは、もう様子を見て居る事が出来ずに、棚の上から異形に向かって飛び掛かった。
何処が急所か分からなかったが、腕の一本の付け根に、噛みついた。
「何だ、こいつ?!」と、異形は叫ぶ。
アナントは、散々敵に牙を突き立てて、爪で引っ掻いてから、叫んだ。
「逃げるんだ! 朔!」
そう呼び掛けた瞬間、男の子は跳ねるようにベビーベッドの上から背を起こし、異形の腕の一本を掴んだ。
低い男性の悲鳴が響いた。真っ逆さまに高い所から落ちたような悲鳴だった。
異形は、その影の一片も残さずに空間から消え去った。
アナントは目を覚まし、震える息を吐いた。辺りが、何時もの「自宅」だと確認してから、ソファベットの下から這い出た。
「こうしちゃいられないぞ」と、覚悟を決めると、丁度原稿を書いて居た僕の所に飛びついてきた。「すぐに、エリスに連絡を!」と言って。




