第九話「影を呼ぶ子」
白い空間に、小さな水たまりのような水面が見える。彼女は、ずっとその水面を見つめて居た。小さな手足と小さな肩。五歳くらいの子だ。
彼女の髪は白くて長く、瞳は反対色のように真っ黒だ。着ているのは灰色のワンピース。
その闇の底のような黒い瞳で、何処にも見えない空の青を反射している水面を、見つめて居る。
「どうしたの?」と、僕はその子の隣に屈みこみ、声をかけた。
女の子は、水面を見つめたまま言う。
「蜘蛛さん」と、その子は幼い声で答えた。「蜘蛛さん、すーって飛んで行った」
僕は、「何処まで飛んで行ったの?」と聞き返した。
「水の奥」と、その子は答える。
僕も水たまりを覗き込み、「水の中は、遠いの?」と聞いた。
「うん」と、その子は答える。「ずうっと遠いの。其処からね、『影』が来るんだよ」
「そうかぁ」と、僕は相槌を打つ。「君は、『影』は怖くないの?」
「きみじゃないよ」と、女の子は言って、自分を指さす。「ノワ」
その仕草を真似て、僕も自分を指さし、「アラン」と名乗った。
女の子はにっこりとほほ笑んだ。「アランは『影』が怖いの?」
僕も照れ笑いを浮かべた。「ずっと前に、追いかけられた事があるんだ」
「そうかぁ」と、ノワはさっきの僕の返事を真似る。「それは怖かったねぇ」
「うん。怖かった」と言うと、ノワは小さな片手を伸ばして、僕の頭を撫でてくれた。
ノワは言う。
「何時か、怖くなくなるよ。『影』の言葉が分かるように成ったら」
「そんな日が来るかなぁ」と、僕は呟いた。
「来るよ」と言って、ノワは大きな黒い瞳を瞬いた。
目が覚めると、何となく、胸がスースーするような感じがした。冷たいミントのお茶でも飲んだみたいに。
「アナント」と、何時も一緒に眠ってるはずの相棒を呼ぶ。「アナント、何処?」
声を掛けながらアナントの「自宅」を覗いてみると、ワードローブとキリクスのソファベッドの隙間が、抜け毛が溜まりきってふかふかになっている。
其処に相棒は居た。名前を呼ばれているのは分かってるみたいで、呼ぶ度に尻尾を一回振る。
「アナント。君、今日の夢で何処にいた?」
アナントはようやく顔をこっちに向ける。「灰色の町を一人で散策してた」
「そうか」と僕は応じて、胸の奥でまだスカスカしているおかしな感じを飲み込んだ。
朝食を済ませた後、アナントはアナントで、「灰色の町に人の子が居たんだ」と述べる。
「どんな子?」と聞くと、「何だか変な子でねぇ。すごく喋るんだけど、何を喋ってるのか、よく分からないんだ」と、アナントはざっくり言う。
具体的にどんな事を話していたか聞いてみた。
「英雄は何時だって社会のシンボルだ。けど、誰しもが英雄に成れると言うわけではない。けど、何時でもそのチャンスは転がっている。けど、それを掴み取っても幸せになれるとは限らない。けど、英雄たるには資格が必要で。けど……って感じ」と、アナントはすらすら喋る。
「物凄く『けど』って言うね」と、僕は柔らかく指摘した。「その子は何歳くらいの、どんな子?」
「僕は生憎、人の子の年って見た目で分んないけど」と、アナントは前置き、「キリクスよりは年下に見えた」と言う。
「薄いオレンジの肌と黒い髪をした男の子でね。瞳だけは青だった。爪も髪も整えられてて、綺麗な服を着てたから、大事にされてる子なんだなって言うのは分かったよ」
「ふーん」と、返事を返してから、僕も自分の夢の中で会った女の子の事を話した。
「白い髪をしているのに、『黒』って言うのか」と、アナントは言う。猫としてみたら、毛色の方を優先するものなのだろう。
「猫を瞳の色で名付けたりしないもんね」と、僕は言っておいた。
最近のキリクスは、夢の中で会えるようになったルシアの事と、実際の世界で会えるようになったレイユー君の事を何度も話したがる。
どうやら、生き神様は同年代の子供同士のやり取りを渇望していたらしい。
ルシアが「レオ神と山猫」の話を喜んでくれたとか、レイユー君は年上だから頼もしいけど、女の子みたいに見えるから一人で歩かせるのがちょっと心配だとか。
僕とアナントの会話に出てきた、ノワと「『けど』の子」についても興味を示していて、「その子達も何時か『仲間』になってくれるんでしょうか?」と想像を働かせていた。
もし、ノワと「『けど』の子」が七人のうちの二人なのだとしたら、あと二人誰かいるはずなんだ。
ずっと前に僕達のイメージに出てきて、実際にその子が居ると分かっている子としては、「レンカ」と言う名の、ルシアにそっくりな子が一名いる。
もう一人については、全く以て情報が無い。
僕達が「捜索モード」で眠りに就いているのは確かなので、何処かで夢が接続されたら、その七人目の子の事も分かるかもしれない。
その事を、ヴィノ氏に話すと、「うん。調子が良さそうじゃないか」と、何時も通りの返事をもらった。
その言葉が、「僕の頭が正常に働いている」と言う意味ではない事は分かっている。「目的をもって正常に働いている」事は確かだけど。
「ヴィノ氏としては、子供が七人で『極地の何者か』を倒せると思う?」と、僕はちょっとふざけてみせた。
「倒すって言うより……」と、ヴィノ氏は考え込む。「僕達としては、状態を安定させることで、極地の存在には『再眠』してもらう方向で考えてるんだ」
「僕達って?」と、聞き返すと、「調査チームの事」と返された。
僕は暫く考えてから述べた。
「僕とアナントの夢見では、『バトル』があるのは確実なんだけど」
「それは、『何者か』が起きないように、誰かが封じ込めてることのイメージだって、前に言っただろ?」と、ヴィノ氏は受け付けない。
「じゃぁ、実際には『バトル』は起きないの?」と聞き返すと、「それは状況次第だけど」と返ってくる。
よく分からないなぁと言う風に、僕は顎に手を当てた。
次の日の夢の中にも、ノワは出てきた。
「また会ったねぇ」と、僕は何でもない風に声をかけた。
「会いに来たんでしょ?」と、ノワは子供の鋭さで言い当てる。
「うん」と、僕は肯定した。「ノワから、『影』のお話を聞きたいと思って」
「えー?」と、ノワは悪戯っぽく語尾を上げる。「アランは、もう、知ってるでしょ?」
「うーん。別の人から、すこぅしだけ聞いた事はあるけど」と、僕は前置き、「ノワの知ってる『影』の話を聞きたいんだ」と続けた。
「しょうがないなぁ」と、ノワは言う。それから、真っ白な空間の床にあたる部分に手をつき、「ミラ。出て来て」と、呼びかける。
ネバーッとした動きで、それまで存在しなかった影がノワの足元から伸び、それは立体化して、ノワとそっくりな女の子の姿になった。
だけど、髪が黒くて、肌は褐色で、灰色のワンピースを着ていて、光彩が白い。小さな黒い瞳孔が強調されている、ちょっとホラーな女の子だ。
「この子、ミラ」と、ノワは改めて紹介してくれる。「私の影と、『影』の間に居る子。この子が、私に『影』のこと教えてくれるの」
「初めまして、ミラ」と、僕はしゃがみこんで声をかけた。「僕にも、『影』の事をお話ししてくれる?」
「ええ」と、見た目より、ちょっとお姉さんっぽくミラは言う。「別に構わないわよ」
「まず、何処から話す?」と、ノワは言う。
「蟲達の世界の事かしら」と、ミラは返す。
二人は暫く話し合ってから、僕に何から話すか決定したらしい。
「ずっと、ずっと昔の事よ」と、ミラは語り出した。




