第八話「影の理由と魔法の儀式」
アナントの後を追いかけて行くと、彼は尻尾をピンと上に立てたまま、真四角の家の廊下が見えている場所から、家の中に踏み込んで行った。
庭に面している廊下は不思議と開けっ放しで、むき出しの廊下の一歩手前に長方形の石が置かれていた。その石の上に、「此処で靴を脱いで下さい」と示すようにサンダルが一足置いてある。
僕はたぶんその予感で合ってるだろうと思いながら、手にしていた靴を石の上に置いた。靴下で地面を歩いていたわけだけど、夢の中だから、廊下に上がってしまっても土の足跡はつかなかった。
アナントは、時々振り返って、僕がちゃんとついて来ているかを観察している。
僕は植物の繊維で作られた敷物の上を歩きながら、「すいません! 誰かいませんか?!」と、家の中に響くように、声をかけていた。
アナントが全身の毛を逆立てて僕の方を見る。
「何を、大声を出してるんだい? 『影』を連れて来たいの?」と、アナントは焦ったように言う。
「いや、誰かの家に入るなら……挨拶は必要だろ?」と、僕が言った言葉は、相当間抜けに聞こえただろう。
「出来るだけ、騒がないで」と述べて、アナントはさらに家の奥へと進む。
納得できないまま後を追って言った僕の目の前に、大きな部屋が見えてきた。
祭壇を彩る金色と、柱と床板の褐色が混ざった、絢爛な部屋だった。敷地内に在った石の像より、さらに細かく彫った金色の像が、奥まった場所に置いてある。曼荼羅と呼ばれる、絵図を折りだした布も飾られていた。
「ハーディさん」と、聞き覚えのある声がした。「何か御用ですか?」
声の方を見ると、ルシアが居た。何時ものオーバーオールではなく、エイディアン圏の人がしばしば着ている、民族衣装を着ていた。
「あの……」と、僕は口ごもってから、これまでの経緯を説明した。
「夢の中で『影』を還しても、現実の世界でどうなるかは分からないんだけど、今の所は、この寺院の外には出られなくなってるんだ。
それで、ちょっと無茶なお願いかもしれないんだけど、『影』と『歪み』を、元来た場所に返す方法はないかな?」
その話を聞いて、ルシアは長い髪がさらっと揺れるくらいに首を傾げた。
「おかしいね。『歪み』の鍵になっていたものが失われれば、『影』は元の場所に戻るはずなんだけど」
「その鍵って、写真の事?」
僕がそう聞くと、ルシアは頷く。
写真と言う鍵が失われたはずなのに、まだ「影」がアナントや僕を追い回すと言う事は、何か他に鍵になっている物があるはずだ。
暫く考えてから、僕は自宅の暗室を思い出した。焼き増しのために取っておいたフィルム。あれがあれば、幾らでも「鍵」は作り出せてしまう。
「分かった、ルシア……」と、呼びかけようとして、僕はベッドの上で目を覚ました。
アナントは、僕の足元で丸まって、まだ眠っている。
アナントを起こさないように、そっとベッドを抜け出し、僕は暗室として使っている部屋に向かった。
真っ黒なカーテンに覆われている小さな部屋の中は、何だか湿っぽいような空気が漂っている。壁のスイッチを入れて、オレンジ色のライトを灯し、幾つかぶら下げてあるフィルムを探る。
その中の一束に、ルシアと僧侶が写っている物があった。
僕はそのフィルムを、丸ごとカメラバッグに突っ込むと、大急ぎで着替えをして、玄関に向かった。
ルシア達の居る寺院に着く頃には、空は菫色に成っていた。あまりに朝が早すぎるけど、あの僧侶か、せめてルシアは起きてくれるだろうか。
玄関の戸を叩き、「すいません! 誰か!」と声をかけた。
大騒ぎをして呼び出す前に、横滑りするタイプの戸が、がらりと開けられた。
ルシアの祖父である僧侶が、目を何度も瞬いている。
「ハーディさん。どうしました?」
僕は斜めがけのカメラバッグの中を漁りながら、「火急で、お願いしたい事があって」と申し出た。
呪いのフィルムと化してしまって居た一束は、無事に寺院の中でお焚き上げが成された。
その時の出来事をヴィノ氏に話したら、「それは大変だったね」と、そんなに大変でもなさそうな声が返ってきた。
「その後は、ちゃんと眠れてる?」
「まぁね。だけど、キリクスのほうは、まだ大変かな」
僕はそう答えて、封を開けないまま取っておいた、宛名も差出人も書かれていない便箋の束を、仕事机の上に広げて見せた。全部で五通ある。
「今週の間に、これだけ送られてきた」
「今日は金曜日だっけ?」と、ヴィノ氏。
「そう。平日の間に、毎日、誰かが僕達の家の郵便受けに投函してる」
そう説明すると、ヴィノ氏は封筒のうちの一つを手に取った。
「『封じ』がかけられてる」と、彼は不思議な事を言う。「中身は、やっぱり呪い文か何かだろうね」
「呪い文って、そんなに誰でも作れるの?」と、僕は聞いてみた。
ヴィノ氏は、唇を噛むような表情を作ってから、こう言った。
「魔術……この土地では、『霊術』って呼ばれている物は、特定の条件を持っている人なら、何時でも操れるんだ。アランが、アナントを通して『魔力』を宿してるみたいにね。
能力を使える人間の中には、雇われてその能力を使っている者もいる。
この呪い文を作ったのは、雇われている術師だろう。だけど、今回は『開けるはずのない封筒』を、短期間に五通も送ってきているのが気にかかる」
そう言いながら、ヴィノ氏は手に取った封筒の裏表を、何度もひっくり返してみていた。まるで、その中身が見えているかのように。
「うん……」と、彼は呟く。「多分これは、直接的な呪い文と言うより、呪符みたいなものなんだろう。封筒を傷つけないまま、一週間待ってみて。
僕の予想が正しかったら、来週の月曜日まで同じような封筒が届くはずだから」
「この封筒は、処分しないほうが良いの?」と、僕が問い質すと、「ああ。封を傷つけると、『封じ』が解けちゃうからね。封筒は管理できる場所に保存して、今はじっくり待って」との事だった。
実際に八日目を迎えると、八通目の宛名も差出人も書いて居ない封筒が届いていた。
ヴィノ氏は、こっちから迎えに行かなくても、わざわざ僕達の家の方に来てくれた。
「今日も届いただろう?」
「ああ。きっちり届いた」
僕はそう応えて、八通揃った封筒を、ヴィノ氏に見せた。
八通目の封筒を見て、ヴィノ氏は確信を得たと言う表情をした。何時もの、歯を見せない笑みを浮かべる。
「よし。それじゃぁ、僕達も……ちょっとした儀式をしようか」
そう言って、ヴィノ氏は八通目の封筒を、ひらひら振って見せた。
その時に行なった儀式は、まず、空間を清める所から始まった。
暗室の中を、アルコールを含ませた水で濡らしたモップとクロスで拭き上げ、吊り下げっぱなしにしていたフィルムや写真を片付けた。
それから、「霊的な清め」として、ヴィノ氏の調達してくれたお香を焚いた。
僕とアナントとキリクスとヴィノ氏が、八通の封筒を真ん中にして、壁を背にして四角形を作るように床に座る。
「僕が『もう良いよ』って言うまで、目を閉じて」と、ヴィノ氏は言う。
僕は、アナントとキリクスが、ちゃんと目を閉じるをの確認してから、瞼を閉じた。
ふわりと、室内の中心の空気が動いたような、背後に向かってお香の香りが流れたような感覚がした。
瞼の向こうで、チカッと光が走った覚えがある。
「もう良いよ」と、ヴィノ氏の声が聞こえる。
目を開けると、三人と一匹で囲んでいたはずの封筒は、一通残らず消えていた。




